議員の演説にたいする邪魔やさまたげがおきたのを、紛争として見られる

 レイシストは帰れ。選挙の演説に来た自由民主党の議員に、そうした声が見ていた人から投げかけられていた。

 自民党の議員は、自分の選挙の演説を不当に妨害されたとしている。自民党の他の議員は、この議員の肩をもった。言論の弾圧や選挙の妨害はあってはならないことで、決まりを守らなければならないと言っている。

 たしかに、議員や候補がうったえることを、何の理由もなく邪魔をしたりさまたげたりするのはあってはならないことだろう。基本的にはのぞましいことではない。

 議員や候補者は、言いたいことを何でも言ってよいということではないだろう。選挙だということで、排斥の思想の主張が一部で行なわれているのがある。選挙の場や機会を利用して、またはその他のときであっても、特定の民族を差別するかたよった排斥の思想を言うのはやめるようにしたいものだ。

 議員や候補者は、言いたいことを何でも言ってよいというのではなくて、大衆迎合主義(ポピュリズム)におちいらないように気をつけることがいる。たとえいまの国民からきらわれるようなことであっても、これから先において必要なことはある。政治の抵抗(いまの国民からの反発)が強いとしても、そこから逃げるのは、責任を引きうけることになるとは見なしづらい。大げさに言えば、目先の人気や利益をとることで国が滅びかねない。

 選挙で候補者を応援するために演説をした自民党の議員は、いぜんに問題となる発言を雑誌の記事の中で言った。そのほとぼりが冷めたということで、選挙の応援をするために人々の前に出てきたところが、じっさいにはほとぼりが冷めてはいなかった、ということがある。

 レイシストは帰れとか、差別をするなといったような声を見ている人から投げかけられることによって、自民党の議員は自分の選挙の演説をさまたげられた。これは、おもにこの議員の身から出たさびだということが言えるだろう。

 時間はあるていど経ってはいるものの、いまだにほとぼりは冷めていなかったのだ。問題となった発言にまつわる紛争の争点の解決や、危機管理における危機への対応ができているとは見なしづらい。

 一般論としては、議員の演説の邪魔をしたりさまたげたりすることはないほうがよい。もし議員に何の非もなく、問題もなければ、不当に演説の邪魔やさまたげをされるいわれはないだろう。

 議員のほうに目を向けてみると、国民にたいする説明責任(アカウンタビリティ)を果たしているとは言えず、言いっぱなしであるし、雑誌の記事のほかにも問題があると見られる発言をしているのがあるから、少なからぬ非があるということが言える。

 民主主義の仕組みは大切にされることがいるものではあるものの、そのいっぽうで、もっと与党の議員や政権は批判されることがあってよいというのが個人的にはある。民主主義には反対勢力(オポジション)やさまざまな意見があることが欠かせない。

 議員は国民の代表で、選挙はそれを選ぶものだが、この代表(者)やそれを選ぶ選挙というのは、見なしの産物だ。そう見なすということで、虚偽意識(イデオロギー)となることで、国民の意思から少なからずずれてしまっていたり、分断がおきていたりするのがあるのではないだろうか。

 参照文献 『一三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『危機を避けられない時代のクライシス・マネジメント』アイアン・ミトロフ 上野正安 大貫功雄訳 『民主主義という不思議な仕組み』佐々木毅(たけし) 『逆説の法則』西成活裕 『「野党」論』吉田徹