ドーピング(のようなもの)と陶酔すること

 薬物の使用は法に反するが、お酒を飲むのは法には反していない。テレビ番組の中で、出演者がお酒を飲みながら番組を進めるのは法には反していないし、ドーピングではない。そう言われていた。

 たしかに、お酒を飲むのは法に反することではないので、守らないといけない義務に反することだとは言えそうにない。テレビ番組の中においてお酒を飲みながら番組を進めるのは必ずしもいけないことだとは言えないことだろう。

 話は少し変わってしまうが、広くとらえられるとすると、ある点においては、日本の社会の中でさまざまなドーピングのようなことがまかり通ってしまっているのではないだろうか。ここでいうドーピングのようなことというのは、陶酔と関わるものであって、覚醒ではないものだ。

 日本はすごいということで、愛国をよしとするような集団中心主義(エスノセントリズム)がある。権力に迎合するような権威主義大衆迎合主義(ポピュリズム)がとられている。親方日の丸の心性も見のがせない。これらは、日本人がもつとされる自我の不確実感や不安感を表面において一時的に何とかするための陶酔の手だてだと見られる。

 ドーピングのような陶酔をうながすいさましい言説ではなくて、それとは逆の覚醒(目ざめ)をもたらす歯止めをかけるような抑制の言説は、そこまでとり立てられることが少ない。

 つい感情的になってしまうということにおいては、決して他人ごとではないのはまちがいがなく、また快をもたらす陶酔にはおちいりやすいがえてして一時的には不快なことがある覚醒はしづらいのはいなめない。こうだと見なすことを変えるような改心は自尊心があるためになかなかしづらいものだ。

 人間の行為には感情と想像(構想)と理性の反省といったようなものがあるが、感情や想像はいわば熱であって、理性の反省は冷のものである。熱にはなりやすいが冷はおろそかになりがちだ。加速は受けがよいのでやりやすいが減速は受けがそこまでよくはないのでできづらいのがあるから、そこのつり合いがとれればのぞましい。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『今村仁司の社会哲学・入門 目覚めるために』桜井哲夫 『日本人論』南博 『思考のレッスン』丸谷才一