政権が目をつぶりたいような不都合な事実を、政権が無いのだと言えば事実では無くなるわけではない

 事実にもとづかない質問を記者が平気で言い放つことは絶対に許されないことだ。官房長官はそう言う。記者が自分の意見や主張を述べて、質問が長くなることがあるから、それもよくないことだと言う。

 はたして、東京新聞の記者は、官房長官が言うように、事実にもとづかない質問を平気で言い放っているのだろうか。このさいの事実というのは、あくまでも政権が事実だと思っていることであって、本当の事実だとは限らないということがある。政権が事実だと思っていることが事実だとは限らないし、政権が嘘をつかずに事実を言うというまちがいのない保証があるとは言えない。

 官房長官は、事実にもとづかないというふうに言うが、事実というのは素材であって、政権や記者が言うことが真(真実)か偽(虚偽)かということが大切だ。これは事実であるとか、これは事実ではないとかと言うとしても、それが真だとは限らず、偽であることがある。ちなみに、質問というのは(何々であるという文ではないので)真か偽かに直接には関わらない。

 たとえ官房長官が、これは事実であるとか、これは事実ではないとかと言ったとしても、それが白い(正しい)仮説であるとは限らず、黒い(まちがった)仮説であることがある。政権がはじめにもつ認知のゆがみが大きければ、言うことがまちがえやすい。偽になりやすい。

 東京新聞の記者にたいして、事実にもとづかない質問を平気で言い放つと定義(性格)づけするのは、権力を不適切に用いることだ。特定の記者にたいして、権力を持つ者が一方的な定義づけをすることはふさわしいことだとは言えそうにない。

 政権が事実だと思っていることは、本当の事実とは限らないものであって、政権による定義づけであるのにとどまっている。政権は権力を持っていることから、これが事実なのだという定義づけをするわけだが、それは力(might)によるものであって、正しい(right)ものであるとは限られない。

 東京新聞の記者が、事実にもとづかない質問を平気で言い放っているかどうかは、改めて一つひとつを具体として個別に慎重に見て行かなければならない。質問をするさいに、決めつけになるような修辞疑問(閉じた質問)に過度になりすぎないようにすることはいる。

 事実と言えるためには、客観の固い証拠がいるのだから、それを政権は示さないことには、事実はこうだとははっきりとは言えないはずだ。具体の証拠がないのであれば疑いをもたざるをえない。

 政権は、どういう証拠があって、どういう理由づけができることから、これが事実なのだというふうに言うことがいる。そういった証拠となる情報やデータや論拠(理由づけ)を言わないで、ただ事実なのだとか事実ではないのだとかと言っても、説得性や信ぴょう性は高くない。

 政権は東京新聞の記者にたいして、負のレッテルを貼るべきではないし、不当な一般化である敷えん(誇張)をするべきではない。人間のすることなのだから、政権が事実をとらえちがえることはしばしばあることだろうし、記者もまた事実ではない質問をときにはすることがあるものだろう。政権も記者も、どちらも限定的な合理性をもつ。

 はだかの事実をとらえているのではなく、政権も東京新聞の記者も、どちらもそれぞれの認知の枠組み(フレームワーク)によってものごとを見ている。認知の枠組みがはたらいているのだから、一〇〇パーセントのはだかの事実というのではなく、色めがねによって意味づけされることになる。

 政権や記者が発することは、それぞれの認知の枠組みや思考回路を経たものであるために、一〇〇パーセントの客観とは言えず、主観となる。主観であるのはていどのちがいになってくる。絶対のとは言うべきではなく、相対的なものだろう。相対的なものにとどまるのだから、政権は他からの批判に開かれていないとならないし、灰色のものにたいしては記者から質問される前に自分たちから説明を尽くすことが必要だ。

 参照文献 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅 『「説明責任」とは何か』井之上喬(たかし) 『自己変革の心理学 論理療法入門』伊藤順康 『プロ弁護士の「勝つ技法」』矢部正秋 『「六〇分」図解トレーニング ロジカル・シンキング』茂木秀昭 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫 『論理パラドクス 論証力を磨く九九問』三浦俊彦