政府の見解は仮説にとどまるものであって、最終の結論とは言えず、黒い(まちがった)仮説であることがある

 官房長官の記者会見は、政府の見解を伝える場だ。官房長官はそう言っている。ここで言われる政府の見解というのは、あくまでも仮説であって、最終の結論となるものだとは言えそうにない。

 政府が自分たちの意図を、見解としてそのまま伝えているという保証はまったくない。その保証はまったくないので、政府が見解として言っていることの逆が、政府の意図であることがある。つまり政府が見解として言っていることは嘘やでたらめであって、その逆が正しいことがある。表と裏が大きくずれていることがあって、その最たるものが戦時中の大本営発表だ。

 記者会見で政府の見解を伝えるのであれば、他からの批判を受け入れる形であることがいる。反証(否定)に開かれていることが大切だ。こういう証拠があるから、こういう政府の見解なのだというふうに、具体の証拠を示すのでないと、疑わざるをえない。

 たしかに、官房長官の記者会見においては、記者からの質問に答える苦労が長官にはあるのだろう。長官が質問に答える仕事は、一人でこなすために、要求(リクエスト)が多く、処理が大変なものだろう。大変なことではあるだろうが、だからといって政権のことを忖度するわけには行かない。

 ジーグムント・フロイト精神分析学では、超自我と自己と欲動があると言われる。自己には、超自我からの要求と欲動からの要求がつきつけられる。自己はそれらの要求をうまく処理することがいる。超自我からの要求は、かくあるべきというものだ。官房長官であれば、記者からさまざまな質問をつのって、それにきちんと答えるべきであって、それができるのが理想だ。能力が高くないとできないことではあるが。

 忖度をせず、空気を読まないことで、批判をすることがなりたつ。その気質をそなえた数少ない人物が、東京新聞の記者だ。権力に忖度をしたり空気を読んだりするようでいては、批判の質問を投げかけづらい。

 東京新聞の記者は、出る杭であることから、打たれてしまっている(悪玉化されている)ように見うけられる。こうなってしまっているのは、いまの政権やいまの与党が、他からの声を受けとめることができていなくて、自分たちが一方的に働きかけるだけになっているのがあるためだ。説明責任(アカウンタビリティ)が足りていないのだ。

 何が大切なのかというと、記者会見において、官房長官の気苦労をねぎらうことだとは言えそうにない。政府の見解をそのままうのみにして受け入れることだとも言えそうにない。政府が言っていることをただ垂れ流すことだとも言いがたい。

 本当のことは何かということをさぐって行き、国民の知る権利を満たすことが大切だ。そのためには、たんに一方的に政府の見解を会見で言うだけではあまりに不十分だ。問答のやり取りを行なうことがいる。かみ合う形での問いかけて答えるという問答のやり取りを経ないことには、政府は自分たちの危機となるうみや緊張(テンション)をいつまでも抱えつづけることになるだろう。

 参照文献 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫 『考える技術』大前研一 『反論が苦手な人の議論トレーニング』吉岡友治 「求道(フィロ=ソフィア)と智慧(仏智)の関係 驚くことの意味について」今村仁司 『疑う力 ビジネスに生かす「IMV 分析」』西成活裕 『「説明責任」とは何か』井之上喬(たかし)