(特定の)芸能人による政治の発言には、どんな批判でもいくらでもばしばし行なってもかまわない、というのにはそこまでうなずきづらい

 政治的発言をするのは、ものによっては論争を呼びこみかねない。賛否が割れるのがある。敏感(センシティブ)なことがらだ。なので、政治の話題は避けたほうが無難だ。しかし、政治の話題を避けることがいついかなるさいにも正しいとは限らない。

 芸能人が政治の話題を言うのは自由だ。しかし、言ったことについてはぼこぼこに批判する。または、批判もまた自由にされるべきだ。これについては、そこまですなおにうなずけないところがある。まったくもってまちがっているとは言えないものではあるが。

 かりに芸能人が左(左派)の政治の発言をしたとする。そのさいに、芸能人が言ったことの中身について、ここがおかしいという批判はありだろう。批判はありではあるが、手ばなしで批判をし放題でよいかというと、そうとは言えないところがないではない。批判ということの中(範ちゅう)には、排除が含まれる。

 批判という形をとっての、芸能人およびその発言への排除には、ものによっては批判を投げかけたい。芸能人の政治の発言はあるていど許容されるくらいの寛容さはあってほしい。ある特定の芸能人のある特定の政治の発言だけ、やたらに批判されるというのは偏っているものだろう。これは排除の暴力が不当に振るわれているおそれがある。

 いっさい芸能人の政治の発言を批判するなだとか、いっさい排除するなとまでは言えそうにない。あるていどは批判をされてもやむをえないだろうし、あるていどは排除がおきてしまうのは避けづらい。それを逆に言えば、芸能人の政治の発言が、受けとる人から批判や排除をされるとしても、それがまちがっているとばかりは言えず、的を得ていることがある。

 受けとる人から批判や排除を受けるのは、発言の中身がまちがっていることを必ずしも意味するものではない。政治を一時的に停滞させかねないものや、いまの秩序を乱してしまいかねない言動が、必ずしもまちがっているとは言い切れない。政治の権力による加速度の虚偽意識(イデオロギー)をあばくものは、遅速度となるものだ。政治の権力にとってはうとましいもので、煙たがれることになる。何でもかんでも遅らせればよいというものではないのはあるが、何でもかんでも早く進めればよいものでもない。