表現(内容)が重なるのは、それが事実だからだというのにはうなずきがたい(表現が重なるのはたんなる表面の現象にすぎないし、うらを返せば、表現が重なりさえすれば事実になるわけではない)

 歴史は誰が書いてもいっしょのところがある。別のところにあるこの文と、本の中にあるこの文とが似ている。本の中にそうしたところはいっぱいある。新しく出た愛国の色合いが大きいとされる歴史の本の作者は、テレビ番組においてそう言っている。

 本を書くさいに、ウェブを参照した。本の作者はそう認める。色々な過去の歴史の本も参照した。色々な参照したのだから、別のところにあるこの文と本の中のこの文は記述が同じというのは、あって当然だ。そのことを無理やりに言って批判をしているのだという。

 本とは別のところにある文と、本の中にある文が、似たり同じになったりする。これは一つの現象だ。この現象がなぜおきたのかを見るさいに、歴史は誰が書いてもいっしょの表現になるというのを当てはめるのは、ふさわしいものだとは言いがたいだろう。

 本とは別のところにある文と、本の中の文との、表現が似たり同じになったりした現象は、一つの結果だ。その結果がなぜおきたのかの原因を見て行くのだとすれば、歴史は誰が書いてもいっしょの表現になるとか、たまたま偶然に表現が重なったとするのは、そこまでうなずけるものではない。

 歴史のできごとをじかに自分で見て本を書いたのではないのだし、ウェブ(のウィキペディア)を含めて何らかの資料を見て間接に本を書いたことを作者は認めてもいる。そうであるのだとすれば、参照にした資料からの影響をもろに受けている可能性は低くはないだろう。

 資料として何を参照にしたのかを一つひとつ明記して挙げないで、歴史は誰が書いてもいっしょの表現になるとか、たまたま偶然に表現が重なったのだとする。その作者の言い分をそのままうのみにすることはできづらい。

 愛国の色合いが大きいとされる本の作者は、歴史は誰が書いてもいっしょのところがあると言う。この作者の言っていることは、真か偽かでいうと、真であるとは言いがたいのではないだろうか。

 作者の言うことを真であるとして、これを認めてしまえば、誰が書いてもいっしょだということを根拠にすることで、まるまる表現を書き写すことが許されてしまう。それに加えて、現実を見てみても、同じできことについて、何から何まで同じ表現のものばかりではないものだろう。

 歴史は誰が書いてもいっしょのところはあるということにおいて、その歴史とは、日本の国のものなのか、それとも世界の全体なのだろうか。または一人の人間の歴史(人生)を含むのか。

 もし歴史の語が世界の全体(世界の歴史)をさすのであれば、世界において歴史の論争はおきないことになる。陰謀理論がおきることがなくなる。しかしじっさいの現実では陰謀理論ははびこっている。ナチス・ドイツホロコーストはなかったというホロコースト否定説が出ているが、これは歴史は誰が書いても(言っても)同じではないことを示す。

 日本人が日本とは別のどこかよその国の歴史を書いても、いっしょの表現になるといえるのか。または、ある一人の人の歴史(人生)は、誰が書いても同じ表現になるのだろうか。そういうことはないだろう。ある一人の人の歴史(人生)では、自伝と伝記とでは内容が異なることが少なくない。自分から見た自分と、人から見たものとでは、見えかたがちがう。

 歴史という語は、主語が大きすぎるために、範ちゅうが広すぎることで、それらをひとくくりにしてひとまとめに言ってしまうとまったく変な話になる。

 同じできごとについて、とらえ方や見かたの内容のちがいがあるし、表現のちがいもある。表現されたものは、歴史のできごとそのものではないのもたしかだ。おきたことと表現されたことにはズレがあるのである。定説や通説ばかりではなく、異説となるような有力説や独自説がおきてくる。本当の真実ということで言えば、もしかしたら陽の目が当たっていない説が真実であることはないではない。

 ぜんぜんみんながばらばらのことを言うのでもないし、かといってみんながまったく同じことを言い、同じ表現になるのでもない。その中間くらいのあり方が現実なのではないだろうか。ゆえに、歴史は誰が書いてもいっしょのところがあるというのは真とは言えそうになく、書く人によって(書く人がもつ主観によって)ちがいがおきてくる。割り切れるのではなく、割り切れないから、ちがいがおきてくる。決着がつくのではなく、決着がつかない。

 愛国の色合いが大きいとされる歴史の本を新しく出した作者においては、なぜ新しい歴史の本を出したのかがある。そのねらいとしては、(作者の言うように)歴史は誰が書いてもいっしょのところがあるのだとすれば、新しく歴史の本を出すのにそこまで動機づけが強くおきるのだとは見なしづらい。

 歴史というのは、現実におきたこととぴったりと合うものではなく、ズレている。自虐思想(史観)などと見なすように、そのズレが気に食わないから、愛国の色合いが大きいとされる新しい歴史の本を出したのだろう。その新しく出した歴史の本においても、現実におきたこととぴったりと合うものだとは言えそうにない。ズレがおきるのは避けがたい。

 極端な話で言えば、歴史としてあったとされることは、すべてが嘘だということもまったくないとは言えそうにない。これは虚無主義によるものであって、歴史はすべてつくりごとだとするのに近い。神話(ミュートス)だ。そこまで言ってしまうと言いすぎであるのは確かだ。そこまでは言えないにしても、歴史として表現されたものを顕在だとすると、それが潜在(秘匿)のものを生む。潜在が新しく顕在となる。そうした運動がおきる。それで、新しい歴史の本がつくられて、主張が行なわれる。まったく誤りのない歴史をあらわすのは、無びゅうということになるが、それは人間においては難しいものだ。