戦争のさいに日本がおかしたあやまちとその償いについて、実質(具体)と形式(抽象)に分けて見られる

 戦争のさいに、自国だけではなく、他国の国民にもいちじるしい不幸をもたらした。それで従軍慰安婦や徴用工のことがとり沙汰されている。日本の政府はあくまでも日本が正しいというのを崩そうとしていない。韓国では、裁判所が日本(の企業)に金銭などによる賠償を命じている。

 戦争における徴用工のことについては、はたして日本の政府が正しいのか、それとも韓国が正しいのか、どちらなのだろうか。この正しさを見て行くさいに、これはあくまでも実質のものであるというのがある。

 実質だけではなく、形式化することができるから、それをするのはどうだろうか。形式化というのは、実質の正しさを相対化するように試みるものである。国どうしのもめごとというふうに一般化して、それをどう解決するかを試みる。

 形式として一般のものととらえれば、国どうしのもめごとにおいて、どちらか一方だけが正しくて、もう一方だけがまちがっているというのはありえづらい。人間のやることにはまちがいはつきものだ。正しいとしていても、まちがいを見落としていることがある。

 実質の正しさというのは、自分たちの文脈をとるだけのものだが、それを形式化するようにして、文脈を相対化するようにしたい。たんに自分たちの文脈を押し通すだけであれば、形式化することにはならず、ものごとの解決につながりづらい。

 実質の正しさをカッコに入れるようにして、国どうしにおける文脈のぶつかり合いに折り合いをつけるようにする。それで調整をして行く。そうすることによって、実質だけではなく形式をとることにつなげられる。

 日本は正しくて、韓国はまちがっているとしてしまうと、従軍慰安婦や徴用工で問題となっていることの原因を韓国に押しつけることになる。この原因の押しつけが正しいものであるという絶対の保証はあるとは言えそうにない。原因の特定がまちがっていることがある。原因の当てはめを持ち替えてみる(入れ替えてみる)ことがいる。

 実質の正しさをとってしまうと、日本は正しいとして、韓国はまちがっているとするような、したて上げることになりかねない。このしたて上げをとらないようにして、形式化するようにしたい。日本は正しいとすることには、日本にとって都合の悪いことが隠ぺいされたり抹消されたりしている疑いが低くない。その隠されているところを明るみに出すことがいる。

 実質の正しさによって白か黒かの二元論で割り切るのではなく、連続による見かたをとることができる。連続による見かたは決疑論(カズイストリ)によるものだ。連続による見かたをとることによって、灰色のところを見ることができる。それで灰色のところを見るようにして、日本に悪いところがあるのならそれを認めるようにすれば、日本の国にとってのぞましいことにつなげられる。

 語弊があるかもしれないが、灰色のところを見るようにする練習として、従軍慰安婦や徴用工のことを日本の政府はとり組んだらどうだろう。練習と言っては語弊があるだろうが、試しとしてやるようにしてほしい。この試しをすることによって、実質だけをとるのではなく形式化することにつなげられる。教条(ドグマ)におちいるのを避けるための手だてになる。教条におちいるのであれば、戦前や戦時中に、日本は正しいということでつき進んだことと同じ道を歩むことになりかねない。