東京都がつくった広告の文句は、もとの発言の文脈からずれている

 障がいは言い訳にすぎない。負けたら、自分は弱いだけ。この文句は、二〇二〇年に行なわれる東京五輪パラリンピックに向けたポスターの広告に使われている。これにたいして批判の声が投げかけられて、東京都はこの広告を撤去することにしたようだ。

 批判が投げかけられている文句は、身体に障害をもちながら活躍しているスポーツ選手の発言による。もとの発言は広告で使われている文句よりも長いものだが、それを短くして広告の文句として使っている。

 もとの発言では、発言者はこのように言う。健常者の大会に出ているときには、言い訳ができるところがあったが、パラリンピックの競技では言い訳ができない。勝ちと負けだけがある。負けたら自分が弱いだけだ、としている。

 もとの発言の文脈があるのを、広告の文句では発言者の文脈をはずしてしまっている。文脈をはずしてしまうことによって、もとの発言とは内容がちがうものになっている。発言を広告に用いるのであれば、もとの発言の文脈に沿うようにするのでないと、内容が変わってしまう。

 広告の文句では、短く言い切ってしまっているのがまずい。斫断(しゃくだん)しているのである。一般に短い表現は、短いだけに効果は高いものの、そのぶん危険性が高くなる。言い方に穏当さが欠けているのはいなめない。

 短く言い切ってしまっていることから、広告の文句は格言のようになってしまっている。もとの発言ではそうではないが、それを文脈をはずして一般化してしまっているのだ。

 障害は、というふうになっているのは、主語が大きい。障害とひと口に言ってもさまざまなものがあるから、一概に言えるものではないだろう。身体や精神のものがある。軽いものから重いものまでさまざまにある。置かれている状況は人によってちがう。

 精神論だけでは片づけられるものではないことを、それによって何とかなるというような内容をあらわしてしまっているのがある。精神論だけで片づけられるものではなく、物質の支えが必要なのがある。精神と物質の支えによって、個人の自由の幅が広くなるようにするのがのぞましい。

 障害をもつ人を含めて、少数者の中で、生活の中で困りごとを抱えている人は少なくはないというのがある。少数者だけではなく多数者の中にもまた生活の中で困りごとを抱えている人はいる。それを自己責任として個人のせいにしがちなのがいまの日本の社会だろう。

 とくに少数者においては、社会の中で温かい目を向けられずに、冷たく見られて放ったらかしにされることがおきがちだ。そこを何とか改めるようにしないとならない。精神論や自己責任ということで何とかなるのだというようなまちがった情報を公の機関があらわすべきではないだろう。

 すべてのというのではないにしても、少なからぬ少数者や弱者が社会において包摂されずに生きて行きづらいのであれば、それは社会全体のあり方がおかしいことをあらわす。いまの首相による政権には、少数者や弱者を含めて、社会の中で個人が抱える不幸を減らすという具体的な方向性は見えてこず、自己責任として放ったらかしにしてしまっていると見うけられる。安らいで生きて行けるとは言いがたく、人々が抱える生活の不安や政治への根ぶかい不信が減らせていない。