教育勅語に普遍性があるとは言いがたい

 教育勅語の中には普遍性がある。普遍性をもつ部分がある。文部科学相はそう言っている。これには素直にうなずくことはできそうにない。普遍というよりも特殊なものだろう。

 普遍性があるのであれば、教育勅語で説かれていることが、世界に広く採用されていないとならない。世界で広く採用されているのかというと、そういう話は聞いたことがないから、そうはなっていないものだと言うしかない。

 普遍性があるとすることができるためには、普遍化の可能性を達することができないとならないのがある。一つの格律(マキシム)があり、それがまったく一人の例外もなくすべての人に当てはまるのであれば、普遍な道徳の法則ということになる。例外があるのであれば、普遍だとはできないことになる。

 教育勅語の中には普遍性があるという文科相の言うことは、それが一つの物語になっているものだろう。神話であり、文科相によってとられている先入見を含んだ遠近法(解釈)にすぎない。物語としてある一つの地域には採用されるかもしれないが、広く世界にまでおよぶものだとはできづらい。

 普遍性をもつとは言いがたく、特殊なものというのがある。手段として教育勅語を持ち出すことがいるのかというと、その必要性はきわめて低いものだろう。不要だということもできる。手段として受け入れられるものだとは見なしづらい。

 手段としては、さまざまにある複数の物語に多く触れるようにして、一つだけを絶対化しないようにできればよい。単数の一つの大きな物語だけを絶対化してしまうと閉じたあり方になるが、それを避けるようにして、開かれているようにできれば、一つのことをまちがって最高価値としないですむ。