像を蹴った(そぶりをした)ことについての謝罪

 像を蹴るそぶりをしたことについて謝罪したい。日本人が台湾にある慰安婦の像を蹴った(そぶりをした)ことについて、その日本人が所属する団体の代表は謝罪の意思を示した。

 像を蹴ったとされる日本人の言いぶんでは、蹴ったのではなく足のストレッチをしたのだという。蹴ったふりをしただけだともいう。ほんとうに蹴ったわけではない。像を壊すほどの強さで蹴ったわけではないにせよ、蹴るそぶりをすることは、場所の特性をくみ入れて、行為の記号的な意味として見れば、蹴ったこととほぼ等しいと見なせるのがある。

 ふつうの場所で、何ということもないただの像を蹴ったのなら、または蹴ったそぶりをしたのなら、とくに深刻な問題はない。そうではなく、その地域において歴史として意味の深い像を蹴った(そぶりをした)のであれば、その蹴った(そぶりをした)という行為(表現)には、より大きな意味づけがされることになる。記号性がおきる。

 謝罪をしないのと比べれば、謝罪をしたことは、よいことではある。しかし、蹴ったそぶりをしたことをもとにするのではなく、蹴ったことにして、それを認めたうえで謝罪したほうがよりよいだろう。

 今回の件で、日本と台湾の友情が損なわれることをもっとも憂慮している。団体の代表はそう言っているが、これはどちらかというと像を蹴られた側が言うことではないか。蹴った(そぶりをした)側が友情を損ねるようなことをしたのだし、傍観者のように響く。蹴った(そぶりをした)側が言うのにふさわしいこととは言えそうにない。

 団体の代表は、これから信頼の回復が得られるようにやって行くとしているが、信頼の回復をするためには、いっそ従軍慰安婦のできごとを認めたらどうだろうか。今回の件で像を蹴ったことと合わせて、従軍慰安婦のできごとについても、それがあったことを認めて謝罪する。

 従軍慰安婦のできごとについては認められず、あくまでも像を蹴った(そぶりをした)ことについてだけ謝罪するつもりなのだろう。それとこれとは別だということである。しかし、一つのとらえ方としては、像を蹴った(そぶりをした)ことで、罪の上塗りをしてしまったのがある。もともと罪があって、そこにさらに罪を重ねてしまった。そのおそれがある。