結果よりも過程を大事にすることがいる

 結果を出す。いまの首相は、自分はタカ派であるとして、何よりも結果を出すことが大事であり、それができているのだとしている。これからも結果を出して行くとしている。ハト派を馬鹿にしている。しかし、結果を出すということよりも、過程のほうがずっと大事であり、タカ派であるよりも過程派にならなければならない。

 いまの首相は、結果を出すということにしか目が向いていなくて、過程がおろそかになってしまっている。過程なんていうまだるっこしいことはやっていられないから、それをいい加減にしてすっ飛ばしてしまう。結果さえ出ればそれでよいということだろう。

 たしかに、結果が出るのであればそれに越したことはない。しかし、結果を重んじすぎるのはまずい。勝ち負けということでいえば、勝っても駄目なことはあるし、負けても意味があることは少なくない。

 結果を出すというのはたんなる意気ごみだが、結果が出たかどうかというのはまったくの客観とは言いがたいことも少なくない。主観が入りこむ。色々な情報の中から、結果が出たとすることができる情報をとり上げることができる。よいのだけではなくて、悪いのもまたあるのだから、そこを見て行かないとならない。いずれにせよ、よかれ悪しかれ何らかの結果は出るものであり、よいものは自分の手がらとして、悪いものは人のせいにしてしまうのでは権力者としてはまずい。無責任である。

 いまの首相は、自分のことをタカ派だと言い、結果を出すことに重きを置いている。途中の過程がおろそかになっているのが目だつ。それでも、結果が出ているのならまあよいか、とか、まあしかたがないか、なんていうふうに大目に見て目をつぶる人もいるかもしれない。それは人それぞれの見なし方だから、自由であることはたしかだ。

 個人的に言わせてもらうと、結果が出ようが出まいが、よかろうが悪かろうが、過程はそれそのものが大事なのだと見なしたい。そこをおろそかにして、結果を出すことに先走ってしまうのは、よいことにつながりづらい。結果を出すというのは、何よりも途中の過程ありきのものであり、途中をすっ飛ばしてしまうと、質がずさんになり、悪の方へ向かって行きかねない。このさいの悪というのは、近道反応であり、短絡さである。

 近道反応や短絡さによる悪というのは、善がひっくり返ったものだとも見なせる。善がひっくり返って悪になるということである。それは危ないことだから、結果を出すことにつっ走ってしまうのではなく、途中の過程を十分に重んじなければならない。

 結果を確証(肯定)するのではなく反証(否定)するのがあるとよい。スタップ細胞の騒動では、研究者は、スタップ細胞があるという結果を確証していたが、その確証をもちすぎるのではなくて、反証もあったらよかったのがある。そうすることによって、確証の確からしさを確かめることができる。しっかりと反証をすれば、まちがいがないかを確かめることにつながる。

 いまの首相は結果を出していて、また結果を出せる人だとして、あがめたてまつってしまっている人たちがまわりをとり巻いている。まわりをとり巻いている人たちにはばまれて、いやそうではないとか、ここについてはちがうのではないかといった、疑問を投げかける声が届いていそうにない。

 首相をとり巻くイエスマン(賛同者)たちにとっては、首相は雲の上にいるような人だろうが、じっさいには逆である。次元としては、首相に疑問を投げかけて、過程を重んじて見る人のほうが次元は高くなりやすい。たとえばそれには、自由民主党の総裁選に出る石破茂氏が当てはまる。首相と比べると石破氏のほうが、見ているものの次元が高い。首相と石破氏とでは、次元が食いちがっているので、議論の次元も合わず、(そのままでは)議論が成り立たないだろう。