一強であったり、総裁選で自分を支持しない者を干すとおどしたりするので、本当によいのか、というのがないのが実質を重んじるあり方である(メタの視点である中立や形式をないがしろにしている)

 首相のほかにめぼしい代わりがいない。首相による一強(他弱)のあり方である。このことと、自由民主党の総裁選で、首相とそのとり巻きが自分たちを支持しない者は干すとおどしているとされるのは、通じていると見なすことができる。

 たしかに、首相とそのとり巻きにとってみれば、一強であるのに越したことはないだろうし、総裁選ではのどから手が出るほど勝ちたいのはあるだろう。しかし、話がそこで終わってしまうのであれば、まずいことになるのがある。

 首相のほかにめぼしい代わりが見あたらないことと、自民党の総裁選で首相らが自分たちを支持しない者を干すとおどしているとされることは、同じ系列のものだと見なす見かたが成り立つ。一方がまずいものであるのなら、他方もまたまずいものである。

 どこにまずいことがあるのかというと、一つには、中立(メタ)にならないのがあげられる。中立をないがしろにして実質をとってしまっているのである。中立の視点をないがしろにしてとらないから、一強のあり方でよいとしてふんぞり返っているのだし、総裁選では自分を支持しない者を干すのだとおどすとされることをするようになる。

 中立のよさと実質のよさというのがあると見なせるとすると、かりに二つ目の実質が五点満点中で五点だとしても、中立が〇点であれば、五点にしかならない。一つ目の中立の視点をないがしろにしてとらないようだと、どんなに実質を重んじたとしても五点より上には行かない。そこに限界がある。

 実質のよさというのは、かけがえがないということだけど、かけがえがないのは危ないものである。かけがえがあるのを前提条件にするのが中立であり、それのほうが安全である。いざというときのかえがあるからである。いざというときにかえがあるようにしておくのは中立の視点をとることであり、それをしないのは実質をとることになる。実質をとると中立の視点を欠く。

 本当はかけがえがあるのにもかかわらず、あたかもかけがえがないかのように見せかけるのだとすると、なおさら悪い。いんちきになっているのである。それを避けるためには、中立の視点をもつようにするのがのぞましい。見切りができなければできないほど実質をとることになり、それを(やるべきときに)さっとできるほど中立の視点をもつことになる。見切らないのは実質をとることであり、それはそれで頭から悪いことではないのはあるが、欠点もあるのはまちがいない。

 欠点として、実質を重んじるのには、確証(肯定)の認知のゆがみになりやすいのがある。反証(否定)をとりづらくなる。かけがえがないのだということになると、確証によって肯定をしがちになり、反証で否定をするのができづらい。

 首相は政治でとり沙汰されていることで、膿(うみ)を出すと言いつつ、じっさいにはまったくやっていないわけだが、これは実質をとっているのをあらわす。もし中立の視点をとるのであれば、自分で言ったことである膿をじっさいに出そうとするはずだ。

 膿というのは、権力に内在している否定の亀裂であり、それを否定することで、隠ぺいや抹消することになる。権力に内在している否定の亀裂におおい(cover)をして見えなくしているが、そのおおいをとり去れば(discover)穴が空いているのを見つけられる。おおいをかけることによって、つくられたいんちきの一強となり、かけがえがないのだとなる。しかしこのかけがえのなさは、見せかけのものにすぎず、幻想の産物である虚偽意識(イデオロギー)にほかならない。