一国の国家安全保障(national security)というより、集団安全保障(collective security)をとるようにして、国が核を持ったり軍事力を高めたりしないようにできればよい(個人的な意見ではあるが)

 日本が核の被害国であるがゆえに、核を持つという選択もある。二度とこのような犠牲を国民に味あわせないようにする。そのために、日本を攻撃したらわれわれも攻撃しますよとの意味をこめての核武装論もありえる。テレビ番組で評論家はそう言っていた。

 日本が核の被害国であるからこそ、核を持たないというのならわかるが、核を持つ選択肢もあるというのでは、日本が核の被害国であることと関係なくなってしまっている。日本の歴史の文脈をくみ入れないことになり、負の経験をもつ日本の特殊さがとられないことになる。日本が核の被害国であることをくみ入れるのであれば、核を持たないようにするのがふさわしい。核の被害国であることと、核を持つこととは、接合しそうにない。

 日本は核を持たないとはいっても、アメリカの核の傘に守られているのだから、そこに欺まんがあるのはまぬがれないのはあり、そこは認めざるをえないところである。アメリカの核の傘に守られるよりも、自前で日本は核を持ったほうがよいということも言われているが、それには個人としてはうなずくのはできづらいものである。(自前で)核を持ったり軍事力を高めたりして平和をとるということもまた欺まんにほかならない。

 前提条件を改めて見ることができるとすると、日本が核を持つことによって、国どうしがぶつかり合うことが防げるとは言い切れないのがある。核を持ったり軍事力を高めたりしても、国どうしがぶつかり合わないことを保証するものではない。国どうしがぶつかり合うことおよび戦争を避けるのを目的とするのであれば、その手段として、核を持ったり軍事力を高めたりするのは必ずしもふさわしいものではない。

 もう一つの前提条件として、人間(人類)は核とともに生きて行くことができるのかという問いかけが言われている。この問いかけは重いものであると見なせる。戦争によって日本の広島と長崎は核の被害を受けたわけだが、そのことを重んじるのであれば、人間は核と共には生きては行けないとする見かたが一つには成り立つ。核をなくして軍事力を減らして行くのでないと、平和にはつながりそうにない。現実にすぐにできることではなく、理想にすぎないのはあるが、核を廃絶して軍事力を減らして行くことができればのぞましい。

 核を持ったり軍事力を高めたりするのは、社会状態というよりは自然状態(戦争状態)のほうに近いものである。それぞれの国が核を持ち、軍事力を高めることになれば、人間を含めてほかの生物などがつねに死のおそれにさらされることになる。すでにそうなってしまっているのはあるが、全体として死の世界になっているのである。武器をつくったり売ったりしているのは死の商人だ。

 日本が核の被害国であるというのは、たんに日本という一つの国の話とは言えず、広く世界の全体のことであるという見かたがとれる。日本は核の被害国であるのだから、核を持つという選択肢とは接合できず、核を持たないというあり方をとる。じっさいにはアメリカの核の傘に守られているという欺まんはあるが、その現実とは別に、理想としては核を持たないというのをとることができる。これはたんに日本という一つの国がそうしたあり方をとるということではなく、世界の全体に広げることができるものである。