犯行を行なう前に、判断停止(エポケー)のようなものがあったら、ちがう判断がとれた見こみはあるだろう

 ウェブのやりとりがもとで、人がナイフで刺されて死亡した。ナイフで刺した人は、ウェブで低能先生と呼ばれていて、ウェブの他のユーザーのことを低能などとして批判の書きこみをしていたという。サービス(はてなブックマーク)を荒らしていたことにたいして、ナイフで刺された被害者は、自分のブログでとり上げて、サービス元へ通報をしたとされる。そのことを根にもったことで、ナイフで刺したと見られている。

 ナイフで刺された被害者は、まちがったことをしたから、ナイフで刺されてしまったのだろうか。必ずしもそうとは言えそうにない。低能先生と呼ばれている人は、荒らしの行為をしていたのがあるので、それをよくないことだとしてサービス元に通報したり、そのことをブログに書いたりすることは、そこまで行きすぎたことだとは言えないものである。たんにあったことやおきたことを記事としてブログに記したり、サービス元に通報したりするのは、そんなにおかしな行為ではないだろう。

 とくにおかしな行為をしたわけではないから、刺されるいわれがないにもかかわらず、ナイフで刺されてしまったということが言える。刺されるいわれがないというのは、刺された人が行なったことは、それ自体としてはとくに問題のないことだというのがあるからである。そうではあるが、ブログに記事を書いたり、サービス元に通報したりすることによって、低能先生と呼ばれる人が、追いこまれてしまったのはあるのかもしれない。

 刺された人や、サービス元(はてな社)は、とくに悪くはないというのがある。低能先生と呼ばれる人は、犯行を行なったあとに、そのことをウェブに記していて、その中では、サービス元にも犯行を行ないに行こうとしていたとほのめかしている。しかし足がつっているのでそれをやめたとしている。さらに、改めて見れば、サービス元にはそこまでうらみはなく、恩があるというふうに述べている。

 刺された人と、低能先生と呼ばれる人のあいだには、行きちがいのようなものがあったのだと見なせる。渋滞(誤解)の現象がおきたのだというふうに見なすことができる。いかなる理由があったとしても、不慮の事故などを除いて、人を殺すことはあってはならないことであり、それを正当化することができるものではない。特別な事情を除いて、人を殺すことは不正義であると言わなくてはならない。他人ごとの偽善ではあるかもしれないが、それはあるのは確かである。

 低能先生と呼ばれる人は、一重のなにか(居場所など)に支えられていて、それがうばわれることを苦にしたのかもしれない。これは効率をとりすぎている社会の責任でもあるということができる。一重ではなく多重で支えられていれば、その中の一つがうばわれたとしても、そんなに苦にすることはなかっただろう。