きわめて厳しい安全保障の状況があったのかが定かではないし、それを具体的に自分たちでどうにかしようとしていたのかというのがある

 緊迫した状況は和らいだ。官房長官はそう言っている。わが国としてきわめて厳しい安全保障のうえでの状況があった。いつミサイルが日本に向かってきてもおかしくはない。それはアメリカと北朝鮮の首脳どうしの会談によっておさまったという。日本としては北朝鮮の問題を理解して支援して行くつもりだとしている。

 もともときわめて厳しい安全保障の状況があったのかが疑わしい。それはなかったのではないか。なかったのにもかかわらず危機をいたずらに国内であおっていた。政権与党はそれによって、自分たちへの国民からの支持を保つことに利用した。一つにはそう見なすことができる。

 いつミサイルが日本に向かってきてもおかしくはないのは、きわめて厳しい安全保障の状況とは言いがたい。素人としてはそのように見なしたいのがある。というのも、いつミサイルが日本に向かってきてもおかしくはないのは、いつでもそうだからである。北朝鮮にかぎらず、世界のさまざまな国が、日本に向けてミサイルを撃ってきてもおかしくはない。これまでも、これからも、ずっとそうだろう。

 日本にミサイルが向かってくるかもしれないのは、そのおそれがゼロではないということにすぎない。それを言うのに加えて、きわめて厳しい安全保障の状況だとするのは、定性による恐怖をあおってしまっている。そうではなくて、定量によりどれくらいの確率があるのかを見るようにするのがいる。確率は、主観と客観に分けられるので、主観の確率としてはこう感じられるいっぽうで、客観としてはこう見なせる、というふうに色々と分けたほうがよい。政権与党はそうした定量の見かたを示してはいなかったから、定量の視点が欠けていた。持とうとはしていなかった。

 じっさいにミサイルは日本に向かってはこなかったのだから、もともときわめて厳しい安全保障の状況はなかったと見ることができる。そうした状況があったけどミサイルは日本に向かってこなかったのではなく、なかったからミサイルは日本に向かってこなかったということである。これはあと出しじゃんけんの見かたではあるから、卑怯と言えば言えるけど、それは置いておけるとすると、定性の危機をあおっておいて、ほとんど意味のないミサイル訓練なんかをしていたのは改めて省みられる。

 しゃがんで頭を手でおおったり、近くにある頑丈な建て物に身をよせたりするミサイル訓練はやらないよりはましということかもしれない。それをうら返せば、やってもだめなときはだめなものだろう。国民にそんなことを中途半端にやらせるのではなく、さまざまな前提条件や境界条件をとり、色々な見かたを定量で示したほうが有益だった。政権与党はそれをせず、ミサイルが日本に向かってきかねない、たいへんだぞ、という定性の前提のみをもっぱらとっていた。

 ミサイルが日本に向かってこないように、定量として少しでもその確率を下げることに努めるという視点をもっていたとは見なしづらい。その逆に確率を上げていたようなふしさえある。最大限で異次元の圧力をかけると言っていたのがある。確率を少しでも下げるのに努めるとすれば、圧力をかけるのは逆効果としてはたらくのがあるから、それをしないようにすることもできただろう。しかしじっさいは圧力をかけることの一辺倒だった。