誰であっても構造によって嘘をつくというのにしては、あまりにも(それにしても)ひどいような気がしてならない(ゆでがえる現象になっているようだ)

 首相が嘘をついたのは、囚人のジレンマによる。その構造によって首相は嘘をついたのだという。評論家の人はそう言っているけど、ちょっとうなずくことができそうにないものだという感をもった。

 森◯学園や加◯学園のことがらは、首相に特有のものであり、個別のものである。それを一般のものと見なすのはできづらい。一般のものとして、首相が嘘をついてしまう構造があるのだとしても、それとは切り離して見ることができる。首相や夫人は、森◯学園や加◯学園とじっこんだったのであり、これは広く国民一般の点からはとくになくてもかまわなかったことである。首相や夫人が学園とじっこんだった(である)こと自体が、もともと中立性に反していると言えば言えるものである。

 首相は嘘をついてはいないという視点はわきにおいて置けるとして、首相が嘘をついたということでここから先の話を進められるものとしたい。首相が嘘をついたとできるとすると、それが囚人のジレンマの構造によっていようが、またはいなかろうが、いずれにせよ駄目なことである。何によっているのかはそこまで重要とは言いがたい。首相が嘘をついて、それによって公文書の改ざんまでつながってしまったのであれば、その嘘は許されてよいものではない。きびしく言えば、首相が嘘をついた時点で駄目なのであるが、それにくわえて、公文書の改ざんまでつながったのだから、なおさら駄目である。

 囚人のジレンマというのは、与党と野党のお互いの利益のつな引きみたいなものとして、あるのかもしれないが、そうではなくて、国民のほうを見なければならないものだろう。顔の見えない国民のほうを見なければならない。それが難しいからといって、簡単にあきらめてしまい、顔の見える特定の国民のほうを向いてしまっている。どこそこ会議とか、どこそこ学園とか、どこそこ学会とか、どこそこ団連などである。そこからさまざまな問題が引きおこされてしまっている。顔の見えない国民はおき去りになっているのであり、ゆゆしきことだ。

 囚人のジレンマの構造があるからといって、嘘をついてしまってもしかたがないのだろうか。囚人のジレンマの構造があるのだとしても、それが嘘をつくことに関わるのかどうかはいぶかしい。それは置いておくとしても、嘘をついてしまわざるをえない構造というのは、たしかにあるものだというふうには見られる。しかし、そうであるからこそ、野党や反対勢力からの批判を政権与党はきちんと受けとめることがいるのではないだろうか。きちんと受けとめるのではなく、それを逆にはねのけてしまい、抑圧しているようだから、おかしくなってしまっている。受けとめるのではなく、はねのけたり抑圧したりする強引さは、いまの政権に特有のまずさである。

 誰が首相であってもついてしまう嘘はあるだろうが、それにつけ加えて、そこに重なるようにして、首相に固有の嘘があるのであり、その二つを見なければならない。いっしょくたにしてしまい、たんに構造によるだけなのだとするのにはうなずきづらい。切り分けるようにしたほうがよい。首相に固有の嘘というのは、つかなくてもよい(よかった)嘘を首相はついたということである。国民の利益にはならない嘘をついたということである。首相にとってはつかざるをえない嘘だったのかもしれないが。首相が嘘をついてまでも、もしくは嘘を大目に見て見のがしてまでも、政権をそのまま保つことが、国民にとっての利益になる、ということが嘘(イデオロギー)なのである。少なくともそれは反証されて批判されることがいるし、疑うことができる。