個人攻撃となることはやめてもらいたい。首相にたいする個人攻撃はやめるようにして、それで総裁選にのぞむことを求める。自由民主党の参議院の幹事長は、総裁選に出る石破茂氏に、それをじかに訴えるという。
たしかに、首相にたいする個人攻撃の、その中でもていどのきわめて低いものを行なうのであれば、あまり生産性が高いものにはなりづらい。しかし、石破氏が言うことを、首相にたいする個人攻撃だと決めつけるのは、石破氏が言っていることを不当に矮小化することになるのでのぞましくない。
首相にたいする個人攻撃はやめるようにというのは、首相が個人攻撃をされるいわれがないのならともかく、いわれがあるのなら行なわれるべきだろう。たんに、個人攻撃はやめるようにというのは、個人攻撃をしていると見なされる人への非難にしかなっていない。首相にたいする個人攻撃だからやめろというのは、十分な理由になっていない。表現の自由と自己決定権がとれるようにするのがいる。
個人攻撃をしていると見なされる人(石破氏)は、これこれこうだからこうだというふうに首相にたいして個人攻撃をするのであれば、それは個人攻撃をしているのではなく、問題を指摘しているのである。それにたいして首相は応答責任の義務をもつ。首相は責任者であり権力者だからである。
すべてとは言えないにしても、石破氏が言っていることの主となるものの中には、いまの首相による政権がかかえる負のことがらを指し示しているものがある。たんに、首相にたいして個人攻撃をしているとは見なせないものである。
構造の問題をとらえることがあるのがよい。石破氏が総裁選でかかげる、正直、公正というのは、構造の問題をとらえているものの一つだろう。政治が、不正直と不公正になるとどうまずいのかや、どうおかしくなるのかは、構造の問題に関わっている。
政治が不正直と不公正になり、権力者が嘘をついても許される。大目に見られる。まわりの者は権力者をもち上げてとり立てる。こうなるとまずい。嘘は本当だ、とか、悪は善だ、とか、格差は平等だ、なんていう、黒と白が反対になることがおきてしまう。
黒と白が反対になるようなことを止めるには、いま現実にとられている合理性をいったんカッコに入れることがいる。参与(コミット)ではなく離脱(ディタッチ)することが必要だ。離脱として、いまの首相による政権にたいしていいえ(ノー)を言うのがあるとよいのがある。はい(イエス)と言ってもよいわけだけど、それだと参与にはなっても離脱にはなりづらい。いま現実にとられている合理性のおかしさを見るためには、いまの現実の合理性からしたら非合理になるものを、それも一つの合理性としたり、いまよりもよりよい合理性としたりすることができるものだとするのを試みるようにする。その試みをしないと、いま現実にとられている合理性のおかしさ(非合理さ)を見ることにはつながりづらい。