安定といっても、定常ではないので、乱雑さ(エントロピー)のためこみと吐き出しはおきざるをえないものだろう

 そこまで大さわぎしてとり沙汰するほどのことではない。そうであるのにもかかわらず、大さわぎしてとり沙汰してしまっている。大げさに騒いでしまっているのだ。そのことにより、政治が不安定になっている。これはのぞましいことではない。

 たしかに、本当はさして大さわぎするほどのことではないものなのであれば、それを大げさにとり上げるのはやりすぎになってしまいかねないものである。政治が不安定になるよりも安定していたほうがよいとすることができる。不安定よりも安定をとるのは、とんちんかんなとらえ方であるとは言えないものである。このとらえ方は、日常をよしとするものと言えそうだ。

 日常をよしとするのを世界であるとすると、それとは逆になる反世界のあり方がある。日常にたいする非日常である。世界が光だとすると、反世界は闇である。昼と夜といったようなものだとできる。昼だけをとることはできづらく、夜がめぐってくることを避けづらい。

 昼の世界をよしとするのは、夜の反世界をよしとしないことであり、反世界をうとんじて遠ざけることになる。うとんじて遠ざけたとしても、消えて無くなるわけではない。

 秩序が保たれて安定しているのであっても、よい安定であるのか悪い安定であるのかというのがある。安定しているのが必ずしもよいものであるとは言い切れそうにない。安定していなくて不安定なのが必ずしも悪いことだとも言い切れないものだろう。不安定であるのが悪いこともあるし、そうではなくてよいこともある。不安定だけど活性化しているということがある。よいか悪いかとして、場合分けをすることができる。

 安定による世界を一つの極であるとすると、それだけではなくて、もう一つの極がある。もう一つの極として不安定の反世界がある。二つの極によって、振り子のように両極のあり方となる。この両極のあり方をとるとすると、安定しているときは、片方の極に振り子が振れているのをあらわす。片方の極に振り子が振れれば振れるほど、もう片方の極へ向かう力がたくわえられる。きっかけさえあれば、もう片方の極へ振り子が振れることになる。

 安定による世界という一つの極があるとして、それがあることによって、もう一つの極である不安定の反世界を生む。一つの極があることで、もう一つの極ができあがる。二つの極となることで両極になる。その両極のあいだを行ったり来たりする。行ったり来たりがおきていなくて、片方の極に振れているのだとしても、そこにとどまりつづけるのはできづらい。もう片方の極に向かう力はたくわえられているので、きっかけさえあればそちらへ振れることになる。

 不安定がよくないというよりは、不安定にならずにすむのにもかかわらず、いたずらに不安定にさせるのがよくない、というのは言えるだろう。そう言えるのはあるが、害があるのなら、そのうら返しの利があるというのがある。安定の利には、うら返しの害があるのがいなめない。不安定になるのは害があるが、利もあるのだとすると、その利を見ることができる(害を見ることももちろんできるが)。不安定に害があるとしても、利などあるのかというふうに言うことはできるが、一つには、安定している世界のときには見えなかったもの(気づかなかったもの)が反世界において見られる(気づける)ようになるというのはあるだろう。