寛容性と相対性(絶対的なものではない)

 寛容性をもつのは、非寛容なものにもそうであることがいる。非寛容なものにも寛容でないとならない。はたしてこうしたことが言えるのだろうか。寛容であるとは、非寛容ではないことはたしかである。そのうえで、寛容とはこれこれのことであるということだから、定義をもっているわけであり、分節されていると言ってよい。無分節なわけではない。

 非寛容なものにも寛容であるのだと、無分節になってしまうおそれがある。定義がなくなってしまうというか、意味が消失してしまうようなふうになる。そうすると、寛容であることの意味がなくなってしまうことになる。意味がなくなってしまうのだと元も子もない。悪い意味での修辞(レトリック)におちいってしまう。意味を拡大してぼやけさせてしまうせいである。

 野球でいうと、寛容さをもつのは、ストライクの範囲を広げることだろう。そのようにして範囲を広げたとして、ボールまでをなくしてしまう。全部をストライクの範囲とする。そのようにしてしまうと、野球のスポーツそのものが成り立たなくなってしまう。ボールがあってのストライクということがいえそうだ。

 何が重要なのかを改めて見ることができる。寛容であることを重要であるのだと見なすのであれば、寛容と非寛容は異なるものなのだと分けることができる。これを分けないのであれば、寛容であることは重要ではないということになりかねない。寛容であることを重要であるのだとすると、それをよいものだとすることができる。それとは区別される反対の非寛容を悪いものだとすることがなりたつ。寛容もよくて、非寛容もまたよい、とはなりづらい。抽象論としてはそうしたことが言えそうだ。

 場合分けをすることができるとすれば、寛容であるのがよいこともあるし、また悪いこともある。非寛容であるのが悪いこともあるし、よいこともある。そのように分ける見かたが成り立つ。このように分けて見ることで、たんに、寛容がよくて非寛容が悪い、とするのを避けることができる。

 寛容性をよしとするのは、あくまでも言葉による意思疎通のうえでの話だといえる。そのなかでやりとりができて、ものごとが少しでもうまく進めばのぞましい。しかし、現実にはうまく行きづらいことも少なからずある。そうしたときにはどうすればよいのか。そこで持ち出されてくるのが、物質による力である。

 物質による力を使わざるをえないときがある。それは認めざるをえないことかもしれない。そのうえで、それはあくまでも必要最小限にとどめることがいる。それにくわえて、そうした力は使わないに越したことはないものである。使わないですませられるほどよい。そのようにして、あくまでも悪い手段なのだというのを自覚することがあるとよさそうだ。そのように自覚したとしても、欺まんにおちいるのを避けられそうにない。

 物理の力を使うときには、それを使わざるをえない理由を見ることができる。そうした理由を見ることで、必要性があることを確かめる。それにくわえて許容性があるかどうかも見ないとならない。この二つが満たされていれば、限定をしたうえでの最小の力を行使することが認められると言えそうだ。

 寛容性の中には、力による暴力がもともと含まれていると見ることができる。寛容が寛容であるためには、寛容であらざるものである非寛容が排除されていないとならない。非寛容があり、それがきちんと線引きされることで、寛容さが成り立つ。線引きするというのは、非寛容な行為である。寛容さは、非寛容な行為によって定まるものと言えそうだ。

 理想としての寛容性は、宗教でいう悟りを開いたあり方のようなものであるとすると、凡人にはそのようになることがきわめて難しい。世の中にいるかぎりでは、よほど非凡な人をのぞいては、寛容性をよしとするのだとしても、その中に非寛容をもたざるをえない。死に寛容になっては生きることができなくなってしまいそうだ。

 もともと寛容であるのであれば、寛容性を持とうと改めてすることはいりそうにない。寛容ではないから、寛容であろうとする。そうして寛容になることができる。寛容でないものが、寛容であるようになることで、寛容がその時点で生成するわけだ。うまくすればの話ではあるけど。かろうじて生成するのにすぎないものかもしれない。

 一つの原理として寛容性がある。そのように言うことができそうだ。原理ではあっても原理主義ではない。原理主義であればそれは非寛容であることになりかねず、寛容性を失うことにつながる。寛容性をもつのだとしても、教条主義になってはいけない。一神教のようにではなく、多神教のようになれればよい。寛容性は、一神教のような最高価値ではないものだろう。あくまでも仮説としてあるものとできる。仮説としての試みだ。

 寛容とは、一つの問題(プロブレマティク)であるということができそうだ。細かく非をとがめ立てするのではなく、そこは大めに見るようにする。排斥するのではなく包摂する。同質なものだけをよしとするのではなく、異質なものも受け入れる。こばんでしまわない。そのようにすることができれば、問題なし(ノー・プロブレム)として大らかに構えられる。質のちがいがあったとしても、質がちがったままでありつつ同じ輪の中に入れるわけだ。人はすべてみなちがいがあり、それと同時にみんな同じである。理想論ではあるが、そうしたあり方ができればよさそうだ。

 はたして寛容さを持てているのか。そのように自分を省みるのがたまにはないとならない。自分が寛容ではないことに寛容であってはならない。もし自分が寛容ではないのを寛容で見てしまうのであれば、それは自分が寛容ではないことをそのままにしてしまうことになる。自分が寛容ではないままになってしまう。それをいましめるために、自分を批判するのがよい。自分が寛容ではないのを自分に起因することだとして、自分の行動をよいほうへ改めて行く。

 他の一般の人にたいしては、寛容にするべきだと言っているにもかかわらず行動が寛容ではないとしても、それについて寛容な見かたができるとよい。寛容についての言行が一致していないのだとしても、他の一般の人については、一致させようとして少しづつ努めているのかもしれない。過程であり途上であるわけだ。または努力逆転の法則がはたらいてしまっているのかもしれない。もしくは、一見すると寛容ではないようではあっても、それはこちら側の目や耳の錯覚であり、よくよく見れば寛容であることもないではないことだ。他の人に寛容であるのがよいとはいっても、権力者や公人にそうであっては腐敗が横行しかねないから、あくまでも一般の人に限られる話である。違法な行為をする人も(ものによるのもあるが)何らかのしかるべき対応がとられるのがのぞましい。

 他の人から、お前は寛容ではないからけしからん、と批判されたときに、どのように受けとればよいのか。開き直ってしまうのではないとすれば、その批判の当否を見ることができる。当たっていればそれを受け入れられればよいし、当たっていなければ気にしないようにできればよい。なるべく感情が高ぶりすぎないような応じ方ができれば、寛容をもつことにつながる。

 寛容とは一つの答えではなく、問いである。そのように言うことができるかもしれない。完成しているものではなく、その過程や途上にあるものである。また、いつもいつもそうすればよいというのではなく、ときには非寛容であることがよいことも少なくない。格律(マキシム)としてはもてそうだが、普遍の道徳法則とまではできないものだろう。完全な義務ではない。

 寛容さと非寛容さのつり合いをとって行ければさいわいだ。それぞれのよし悪しがあるのを見て行ければよい。文脈を持ち替えてみることができる。動機として寛容であるようにするのだとしても、結果としてまずいことになるのもあるから、そこを組み入れることがいる。また、寛容であるだけでは不十分であるのもたしかだ。それ一つだけでものごとがうまく解決するような便利なものはありそうにない。