車の運転によって得られる効用(帰結を計算してみる)

 なぜ車を運転するのだろう。そうした疑問を見かけた。車を運転することで、自分が他の人をはねてひき殺してしまうかもしれない。そうした事故をおこしてしまうおそれを払しょくしきれない。歩行者などの他の人をひき殺してしまいかねないおそれを大きく見積もると、車を運転するのはかなり危なっかしいことである。運転しないに越したことはない。

 コインの表と裏のようにしてみると、その裏に当たるのが、車を運転することでおきかねない負のできごととなる。人をひき殺してしまうかもしれないようなことだ。その裏が大きければ大きいほど、同じコインとしてそれと一体になっている表もまた大きい。表というのは、得られる利益である。コインの裏のおそれは決して見過ごせないものではあるが、それをひっくり返してみると、表の利益の大きさに焦点を当てられる。

 コインの裏に当たる負の面については、保険に加入するとか、自分で運転するときに気をつけるとかで、負の度合いをあるていどは減らすことができる。完全にゼロにはできないことはたしかだけど、事故をおこしたくておこす人はいないわけだから、それをなるべくおこさないための目的意識をもつことができる。

 危険が大きいにもかかわらず、それと同時に、そこから得られる利益が大きいから、車を運転する。図と地のように、コインの表と裏の関係性を反転させられる。そのように言うことができるかもしれない。これは車の運転にかぎらず、他のことについても言えそうだ。原子力発電や一国の経済政策(景気浮揚対策)なんかにも当てはまりそうだ。このさい、危険の大きさを過小視して、利益の大きさを過大視することがある。そうしたふうになってしまうとやっかいだ。その見かたをたまには改める機会がないと、正しく見ていることにはなりそうにない。

 表か裏かのどちらかだけというのではないというふうに見ることはできる。表と裏についての、いろんな組み合わせの比率が想定できそうだ。文脈を持ち替えて色々とずらしてみることができる。そうすれば、一つに仕立てあげてしまわないようにできる。表だけを見るのではなく、そこに何が裏書きされているのかを見ることもなくてはならない。