反省するというだけでは抽象論(観念論)にとどまっていると言えそうである

 事件にかんする文書が廃棄された。そうしたことは、今後二度とおきないように、深く反省しないとならない。財務省の太田充理財局長は、国会においてそのように述べていた。文書管理を徹底させ、決算文書の内容を充実させるようにしてゆく。

 文書が廃棄されてしまったのを、今後二度とおきないようにする。そうするためには、まず関連した人たちの処罰が必要だろう。賞罰(サンクション)において、罪と罰がとられないとならない。応報律をとる。それを避けてしまうようだと、同じことがこれから先にくり返されてしまうこととなる。

 責任者がいて、その人がいざというさいに責任を引きうける。そのようになっていないのだとまずい。この責任というのは、たんにいさぎよく地位を他の人にゆずることばかりではない。とり沙汰されていることがらについて、できるだけその真相が明らかになるように努めてゆく。一定の区切りがつくまで十分に明らかになったところで、地位をゆずるようにする。そのようにできればのぞましい。

 たんに文書が廃棄されたことが単独であるのではなく、それと関連するもっと広い問題がある。そのように広く問題を見てみると、なぜ文書が廃棄されたのかとして、そこには色々な原因(cause)があり、結果(effect)があると見なせる。この原因と結果というのは、一つだけではなくて、いくつも想定することができるものだ。いろいろな仮説による見かたが成り立つ。

 同じことを今後二度とおこさないようにするのであれば、因果関係をふまえた議論をとるのがよさそうである。そのような議論が行なわれずに、原因となるものが放っておかれたままでは、また同じことをくり返してしまう。

 原因には近因と遠因があるという。その二つをふまえてみるのもいりそうだ。また、文書の廃棄に関わった人たちが、どういった状況に置かれていたのかも無視できない。その状況がどうだったのかがはっきりするとよい。

 権力者は人であり、人は神にも悪魔にもなれる。神だと思ってその声を聞き入れたところが、じっさいにはあとで悪魔であることがわかった。そんなふうなことが推しはかれる。神か悪魔かを見分けるのは一種の賭けである。

 特定の他者を神だと信じるとすれば、それは一つの賭けであり、あとで裏切られることにもなる。そうであるよりかは、客観の決まりを守っておいたほうが無難ではある。それに加えて、自分からすすんで悪魔の擁護者(devil's advocate)になる手もある。これは、反論を買って出るということである。うかつにしたがわない。とりあえず権力者の言うことは疑ってみるというのは、一つの定石みたいなものだと言えそうだ。

 権力者からの呼びかけに応じるとして、その呼びかけはイデオロギーであるおそれがある。虚偽である。それを聞き入れてしまうと、イデオロギーに都合のよい主体となってしまう。他律で動かされることになる。権力の奴隷となるおそれが生じる。そうして奴隷でいるのを選ぶこともできるわけだけど、そこに危険性があるのもたしかだ。事後の反省とは別に、事前についていうと、他律によって動かされないようにとの反省をはたらかせることができる。こうした自律の観点も少しもっておくのがよいかもしれない。