荒唐無稽ではないけど、仮定のうちの一つの話にすぎないのがありそうだ(もっとほかの仮定がもてる)

 武装難民が押しよせてくる。とりわけ日本海側が危ない。自由民主党麻生太郎副総理は、演説においてこのように述べていた。北朝鮮から武装難民が押しよせてくるのが危ないとしている。

 この麻生副総理の武装難民のうったえは、ちょっと問題の置きかたがずれているような気がする。まったくとんちんかんとは言えないかもしれないが、問題という点でいうと、もっとちがったふうにできそうだ。武装難民が日本にやってくるとはかぎらないので、やってこないのもあるわけだし、それを言わないとならない。そしてなるべくやってこないですむようにする。平時を保つ。かりにやってきたとすれば、そこは想定しておいて、対応すればよさそうだ。

 危機が外からやってくることをあまり言いすぎると、陽動(ディバージョン)をしていると見なさざるをえない。そうした外からの危機は、参照点をどこに置くのかでちがってくる。参照点を低くして、なるべく冷静に見ることもいるだろう。それを高くしてしまうと、冷静さが保ちづらいし、ややもすると大づかみな見かたになりかねない。

 北朝鮮からのミサイルが日本に落ちてくるかもしれないとして、その訓練のもようが報じられている。それによると、身を防ぐために、しゃがんで手で頭をおおう姿勢をみながとっている。こうした訓練は、あくまでもおきるおそれのある仮定のうちの一つによるものでしかない。もっとちがった仮定もあるわけだから、そういうのと照らし合わせてみることがあったほうがよいだろう。

 外からやってくる敵に備えて、そこに力やお金をかけるのも決して悪いことではない。そのいっぽうで、国内における経済の格差や社会福祉の不十分さをどうするのかがある。打ち出の小槌でもないかぎりは、かけられるお金は限られている。経済成長だとかの景気のよいことを言うのはともかく、そうした景気のよいことを前提にした話をカッコに入れることもあるとよい。それはそれとして、神話をできるだけ抜きにした現実をどうするのかを見てゆく。神風(順風)は吹かず、強い逆風におそわれることもある。この強い逆風は呪われた部分である。

 巨視による景気のよい話だとか、または外からの危機の話による陽動なんかがある。そうしたのとは別に、微視によってみることもいる。微視とは個人のことをさすものであり、個人に危機のしわ寄せが来てしまっているのがいなめない。そうしたのに見舞われない個人はよいわけだけど、見舞われてしまっている人に十分に救いの手がさし伸べられているのか。それが自己責任として片づけられてしまうのだと、孤立してしまう。安全網みたいなのがうまくはたらかなくなってしまっているのであれば、そうしたのがつくれればさいわいだ。