入力と思考回路と出力があるとして、出力としてそのキャラクターがあるのだとすれば、あらためて入力と思考回路を根本から見直すのがあってもよさそうだ

 同性愛者にふんした格好をする。それで保毛尾田保毛男(ほもおだほもお)と名のる。お笑いコンビのとんねるずによるバラエティ番組で、こうした内容が放映された。それが一部で波紋を呼んでいる。同性愛者を(遠まわしに)揶揄していると受けとれるからである。

 テレビ番組の中のキャラクターだから、実在の人物ではない。そのうえで、キャラクターである保毛尾田保毛男は、自分が同性愛者であるとは言っていないみたいである。あくまでもそうした噂があるとしているようだ。

 番組の中でのキャラクターである保毛尾田保毛男について、寛容な意見も一部からは投げかけられている。保毛尾田保毛男は自分では同性愛者だとははっきりと言っていないのがあるし、そこははぐらかしている。同性愛を否定しようとしている意図をもっているかは、受け手のとらえ方しだいになる。そこから、あまり目くじらを立てなくてもよいのではないかとの意見が成り立たないでもない。

 動機から見たら、同性愛を明らさまに否定したり揶揄したりするつもりはとくにない。そのようなことが言えるのだとしても、それとは別に結果から見ることもいる。番組の影響で、学校で子どもがからかわれたり揶揄されたりするなんていうのがおきているのだとすれば、それはのぞましいこととは言えない。無視されてよいことではないだろう。

 政治的公正(ポリティカル・コレクトネス)からすれば、同性愛への偏見をまねきかねないのであれば公正とはいえそうにない。同性愛者は見た目がこうしたふうであり、立ち居ふるまいがこんなふうだ、と単純化してしまうのはまずい。そのようにしてしまうと、誤解をばらまいてしまい、色々あるのが切り捨てられてしまう。

 異性愛(ヘテロセクシャル)が正常であり、同性愛(ホモセクシャル)が異常である、とは必ずしも決めつけられそうにない。少なくとも、そこには多少の留保が置けるだろう。

 異性愛であっても、性犯罪ではしばしば女性が被害者となりがちだ。なかには男性が被害をこうむることもないではないけど、それは置いておくとして、このような性犯罪がおきるのがはたして正常なありようなのだろうか。いちがいには言えないことではあるけど、力関係に差があることを示している。

 ユングの心理学では、アニマとアニムスというのがあるそうだ。男性の中の女性の要素や、女性の中の男性の要素であるという。こうしたのをふまえてみると、男性と女性とは離散的ではなく連続的だと見なすこともできそうだ。グラデーションをなしている。それにあてはめる記号が十分には足りていない。

 異性愛が正常であり、同性愛が異常である、というのは、一つの大きな物語であると見なせそうだ。その大きな物語がはたして誰にとってもふさわしいものであるのかは疑えるのがある。かりに自然であるかのように見えるのだとしても、それはつくられた神話であるおそれを否定できない。

 もとをたどれば生物は単細胞生物から多細胞生物へといったようにして進んでいった。その進んでいく中でたまたま男性と女性に分かれたにすぎない。これは必然というよりは偶然と見なせないでもないだろう。なのでそこまで絶対的な意味があるとは言い切れそうにない。性のいかんとは別に、生命としての人間は一人ひとりが同じである。そこにちがいはとくにないと言ってもよさそうだ。