結婚を宣言したことの是非

 結婚することを告げる。アイドルグループである AKB48 のグループの一員が、選抜総選挙の催しのなかで、そのような宣言をだしぬけに発したという。アイドルというのは恋愛が禁じられているそうで、その恋愛をもう一つ飛び越えて結婚をするということで、波紋を呼んでいる。宣言をした時と場所と機会もやや悪かったのかもしれない。

 結婚というのは一定の年齢を満たしていればその資格があるわけだから、それをする権利がある。権利は自由である。ただアイドルは一般人とは異なり、恋愛や結婚が禁じられているようである。これは、義務であり、一般人とはややちがう規範によって拘束されていることを意味しそうだ。そこで、内の規範と外の規範がぶつかり合い、葛藤が生じてくる。

 結婚すること自体はとくに悪いことではなく、むしろよいことだろう。しかし、アイドルにおいては、恋愛や結婚をしようとすることが非難される。非難されるから問題となる、といったことが言える。非難されなければとくに問題にはなりそうにない。

 アイドルは、恋愛や結婚が禁じられていて、その掟に縛られている。この掟があるのは、ほうっておくとアイドルは恋愛や結婚をしがちだからなのだろうか。だから掟で縛っておく。そうはいっても、何かが禁じられれば、そこに二重運動がおきてしまう。禁止と侵犯や、否定と回帰といったふうになる。アイドルにとって恋愛や結婚は、呪われた部分にあたる。呪われた部分においては、アイドルとしてそれまでに蓄えてきた過剰な活力が、蕩尽され消尽されることになる。

 恋愛や結婚を禁じる掟によって、(アイドルとファンのあいだの)社会状態が保たれる。しかしそうした状態は、片いっぽうが契約を破ることで崩れることがありえる。そうすると自然状態となる。この自然状態においては、片一方ともう一方とのあいだに意思疎通や交流が成り立ちづらい。アイドルとファンの間がらであれば意思疎通や交流は成り立ちやすいが、そうでなければ接点がもちづらくなる。そうしたことがありえそうだ。

 掟を背負っているのは、共同体主義からすると、負荷がかかっていると見なせそうである。自由主義からすれば、逆に負荷なき自己がありえる。そうしたことが言えそうだが、そもそも、恋愛や結婚を禁じる掟を破ったとして、はたしてそれがどれくらいの罪なのだろうか(または罪ではないのか)。そこはファンの人とそうでない人とでは思い入れが天と地ほどもちがうかもしれないから、はっきりとは言いがたい。

 一般論としていえば、ある集団の中においてはみんなが同じ方向を向くのではなく、別な方を向く人も出てくるだろう。みんなとはちがった方へ向く誘因がはたらく。そこは、建て前と本音だとか、義理と人情みたいなのがからんでくるところだろう。いずれにせよ、恋愛や結婚を禁じる掟というのは、基本としては他律によっているものだといえそうだ。

 仏教でいわれる空観をあてはめると、アイドルとは空だろう。とはいえ、そのように空とはっきりと言い切ってしまうと味気ないところがある。いちおうそういった役割はありえるから、仮観(または中観)をあてはめることもできる。そのさい、役割をもつ者として仕立てあげられるところがあるのはいなめない。その点については、同一さを保ちつづけるのがのぞましいとすることもできるが、そうではなくて揺らいでいってしまうのもまた人間性の一面である。