狂っていることの連続性と離散性

 狂気であるかそうでないかは、けっきょくは数の問題にすぎない。批評家の小林秀雄氏はそのようなことを言っていたという。この指摘を、政党支持率に当てはめることもできそうだ。ある政党の支持率が高く、それとは別の政党の支持率が低い。そういう結果が出ていたとする。そのさい、支持率の高い政党が正気で、支持率の低い正当が正気でない、ということは必ずしも言えそうにはない。

 支持率の高い政党がもし狂気におちいっているとすれば、それにたいして抑えをきかせるのはひどく難しくなってきてしまいそうだ。支持率の低い政党が止めに入ったとしても、全体から見てあまり支持されてはいないわけだから、たいした歯止めにはなれそうにない。

 狂気かそうでないかというのは、おそらく質の問題だと思うんだけど、それを判断するのに数をもってして裏づけることはできないのではないか。支持率が高くても(高いからこそ)狂っていることがありえるし、また逆に支持率が低くても(低いからこそ)まともだということもありえる。

 常識からすれば、支持率が低いよりかは、高いほうが少なくともましである。そういうふうに言えるではないか。このような意見もあるかもしれない。たしかに、低いよりも高いほうがましだという見かたはできそうだ。そのうえで、ましというのを、まともだというふうに言い換えてしまうことははたしてできるだろうか。

 支持率の高いか低いかというのは、一つの現象である。その現象の結果をもってして、数字が低いから劣っているだとか、高いから優れているだとかいう主張をするのであれば、その主張にはいささか首を傾げざるをえない。というのも、支持率の高いか低いかから、いろんなことを演繹してしまいかねないからだ。

 演繹による主張になってしまうと、すでに答えが決まってしまっているから、有無を言わせないみたいになってくる。これだと、議論にはなりづらいだろう。弁証法でいうと、正(テーゼ)からすかさず合にいたるといったあんばいだ。これでは、急進的すぎるのでまずい。正にたいする反(アンチ・テーゼ)が欠けないようにすることがいる。そうでないと、立憲主義を放棄することになってしまう。他者からの触発や対話(ダイアローグ)の構造は、立憲主義の必要条件であるとされる。その条件を無視してしまえば、独話(モノローグ)の構造におちいってしまう。

 なるべく、先見をとり外して見ることができたらよい。あいつらはあまり支持されていないから、軽んじてしまってもよいだとか、軽く見なしてもよい、としてしまうと、そこに先見が強くはたらいている。そうした先見をとり払うことによって、対等なかかわり合いとなる。現実にはそうするのはむずかしいだろうけど、先見とは属性でもあるので、属性から見てしまう弊害をうまくすればなくせるだろう。

 ただ反対の声を上げるだけで、有効かつ具体的な提案を何もしていないではないか。そんなことでは多くの人からの支持が得られなくても当たり前だ。そうした指摘も投げかけられるかもしれない。この指摘はたしかに当たっているところがあるとは思うけど、こうも言い換えられるのではないか。すなわち、義務を果たしていない者が、いたずらに権利だけを言うのはけしからん。

 義務と権利が等価になってはじめて、権利をいう資格が生じる。こうした見かたは、等価の原則によるわけだが、この原則は平等を保証しないこともたしかである。平等であるためには、等価の原則をとり外して、有用性から見なければならない。有用性においては、義務なき権利がありえる。なぜなら、それは贈与によるからである。自然的権利においては、抵抗や反抗することはあってよいものとされる。それは支配や抑圧や(行きすぎた)搾取といったのぞましくないありようへの反発であり抗議である。