学校で教えるべきこと

 学校で何を子どもに教えるべきか。この、べきかというのは、それぞれのひと(大人)の価値意識みたいなのが関わってくるから、なかなか一般的な合意を得るのがむずかしいところである。そういったところはあるけど、思うに、今の時代にはウェブがあるのが無視できない。ウェブで調べてしまえば、色んな意見に接することができる。たとえうわべでよいことを言っていたとしても、その裏面を知ることもたやすい。情報過密社会のなかで子どもは生きている。

 ウェブにはいろんな情報や意見が転がっているから、調べれば調べるほどに分からなくなってくることもある。だから必ずしも有益とは言い切れないかもしれない。くわえて、子どもは大人とはちがい、情報を色々調べるのにも、あれは駄目とかこれは駄目だとして、制限されているのかもしれない。そこまで自由ではないおそれがある。それを無理やりにかいくぐる楽しみもあるわけだけど。

 学校というのは一つのイデオロギー装置である。そこでは、閉じたありようがとられる。国家や政治に都合がよい従順な主体をいかにつくるかといったことを目的としている。国家や政治からの呼びかけにたいして、いかに素直に応じるのかが、評価の分かれ目だ。その呼びかけをかたくなにこばむ者は、よい評価はのぞみづらい。

 学校では、教養というのを一つの柱にしたらどうかという気がする。教養というとちょっと古くさい響きがすることもたしかであり、あまり人気がないものでもあるだろう。ここで言うそれは、一人ひとりのもっている癖を、さらに補強してしまうのではなく、うまく補正できるようなものをさす。そうした手引きに使えるのが教養だという。つまり、一人一人がついついはまり込んでしまいやすいやっかいな癖というのを、直してくれるようなものである。

 よい知識というは、教養であり、それはわれわれ一人一人が知らずうちにはまり込んでしまっている悪い癖に気づかせてくれる。ふだん気がつかない、自分の負の面に目を向けさせてくれる。こうして、癖が知らないうちに補強されてしまうのを防ぎ止められる。もっとも、そのようにうまくゆくとは限らないのもあるわけだけど。一つの柔軟体操のようなふうにして、癖を直してゆくことが、きっかけとしてはたまにはあってもよい。

 子どもたちには、何らかの単一の癖をつけさせるのではなく、それをいつでも解きやすくするようなことを説けばよいのではないか。そうした手立てをいろいろな形で持てるようにする。そうすれば、批判的思考(クリティカル・シンキング)もできやすい。距離をとりやすくなる。

 精神分析学では、無意識は(自分からではなく)他人からのほうが見えやすいという。自分で自分の無意識を見るのはできづらい。そういうふうだから、自分の癖というのは自分では直しづらいところがある。偉そうなことを言ってしまっているように響くかもしれないが、これは決して他人ごとの話ではない。そのように自戒することができる。

 より効率的な主体をいかに多く生産するのかをもってよしとするのではない。そうではなくて、癖を(補強するのではなく)補正するというのは、効率性の文脈にのらないことだという気がする。経済性が低いありようだ。しかし、そうした経済性が低くて、労力のロスが多いようなこともたまにはやらないと、質(クオリア)というのがないがしろになりかねない。質というのは一見すると非経済的だけど、それはあくまでも、狭い経済の回路には回収されないというのにすぎないわけだ。

 身体とはちがい、精神にこびりついた汚れみたいなのは、なかなか認識しづらい。であるから、その汚れが付着したままで、さらに積もっていってしまう。そうした流れを止めて、たまには清浄にするような機会がもてればよい。こうすれば、見えかたが新しくなる。これは、自我を肥大化(過大化)するのではなく、それをあえて弱めて過少化することにもつながりそうだ。