手続きによるバランス

 安全と安心はちがう。安全ではあっても、安心ではない。そういうことで、東京都の小池百合子都知事と東京都議会の議員の人たちは、元都知事の石原慎太郎氏を問いただした。議会において、百条委員会を開いたのだけど、それではということで気さくに心を開く石原氏ではなかった。それはあたり前の話でもあり、自分が標的にされているのだから、貝のように口をつぐんでしまうのも、ある面では無理もない。

 この百条委員会については、無意味な内容だったとの批判も一部ではあがっている。そうはいっても、やってみなければ分からないものでもあるだろう。やってみた結果、そもそもやる必要があまりなかったとのことが判明した、と見なせる。

 移転が計画されていて、いま延期されている豊洲新市場については、そもそも法律と条例の面では安全性をクリアしているという。それ以上の安全性を求めているのが、もめている原因だ。地中深くから水をとり出し、その成分を検査する。これはそもそも使う水ではないわけだし、過剰な対応だとの見かたもとられている。

 小池都知事は、豊洲新市場の安全性に疑問をもったわけだけど、その出発点はよかったのかもしれない。しかし、疑いすぎてしまったがために、趣旨が変わってきてしまった。そんなことが言えるのだろうか。

 安全ではあるけど、安心ではない。こうしたことは、ゼロリスクの発想から来ているものなのかな。たしかに、公害なんかの被害につながるようだと問題である。それとは別に、手続き的な正義をふまえるのも手だったのではないか。手続きとして、民主的な決め方がなされているのなら、石原氏の豪腕でものごとを進めたとは言いがたい。なので、石原氏を責めても、決めの一手に欠く。

 枝葉末節として、瑣末な部分の不正や害も、それはそれで見すごせない。しかし、それはあくまでも一部にすぎないとすれば、大きく広げすぎて全体視してしまうとやっかいだ。一斑を見て全豹を卜(ぼく)すみたいな。そうではなくて、幹となるような中心にあるものが何かをふまえたほうが、バランスはとりやすい。はたから見ているだけにすぎないが、そのように言えそうだ。

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