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計画と実行と反省

 仕事というのは、計画と実行と反省(確認)のくり返しであるという。プランとドゥとチェックである。この 3つのうち、計画をとり除くと、無計画と実行と反省になる。これは即興的なあり方だといえそうだ。あらかじめ計画を立てないで、いきなり実行にうつす。こうしたやりかたが功を奏することもあるだろう。計画どおりにものごとが進むほうが、現実には珍しいかもしれない。

 計画と実行だけになり、無反省になる。こうしたことはけっこうありがちかもしれない。このあり方だと速さが出せるからである。労力を省く点では経済的でもある。反省してしまうと、自分というものが分裂する。反省する自分と、反省される自分みたいなふうになる。こうなると、確信をいだきづらい。なので、あまり好まれるあり方ではないといえそうだ。たとえば、自分の説を他人から反証されたとしても、それを素直には認めづらい。反証から逃れようとする。

 反省というのは、メタ的な活動だというふうに言えそうである。このようにして、いったん距離をとるようにすることもたまにはいる。日ごろは当然だと見なしているものごとについて、カッコに入れるようにする機会があればさいわいだ。そうした機会がまったくなければ、無反省のままつっ走ってしまう。小さいかすり傷くらいであればよいが、そうではなくて深手となるような痛手をいきなり負ってしまうのではまずい。

 実行というのは、決して悪いことではないわけだけど、軽はずみの行動が災いとなることもなくはない。まだとり返しのつくことならよいけど、そうでないものだと不回帰的になってしまう。後悔先に立たずなんていうふうにも言われる。そんなふうに他人に言えるほどお前はいつも慎重なのかと問われると、軽率なところも多々あるから返す言葉がない。ただ、いったん行動したことは、ものによってはもとに戻すことができないものもある。パソコン操作のようにアンドゥがきかない。だから、消極的ではあるけど、たまには立ち止まって反省することもあったほうがのぞましい。労力がいるし面倒ではあるが。

 むりやりに過去を歪曲してねじ曲げてしまえば、アンドゥがきくといえばきく。しかしそれは危険なことだろう。時間を可逆的にしてしまっているし、過去を可塑的(プラスティック)にしてしまってもいる。過去を固体ではなく、液体のように流動化してしまう。こんなことが許されてしまってよいのかといえば、そうとは言えないだろう。おきてしまった過去のできごとをアンドゥしてしまうのではなく、意味づけや価値づけを変えてしまうのも手だ。

 人間は成功からではなく、失敗の経験から教訓を学ぶ。とすれば、学んだことで成長したことになる。こうすれば未来志向につなげることができる。もっとも、ことはそうたやすく運ぶわけではないかもしれない。そのうえで、われわれ一人一人も、また集団としての国も、ともに自己相似的に、法的主体としてあるとすれば、あるていどの同一性の規範を守ることもいる。そうした同一性があることで、責任をとることができるわけだ。ただこうした法と同一性の点については、異論があるかもしれない。もっと公を重んじて、公に都合のよい法にするべきだ、なんていう意見もあげられる。

 ただ、公を重んじて、公に都合のよい法のありかたにしてしまうと、自己相似的ではなく、二重基準になりかねない。というのも、私には同一性の規範をあてはめて、法的主体としての責任を守らせるが、公はできるだけ束縛がないほうがよい、となりかねない。私も自由で公も自由という両立はなりがたい。というより、公の自由とは幻想であり、私(個)の自由しか現実には存在しない。富のこぼれ落ち理論のように、公の自由が私にしたたり落ちてくるようなことはないわけだ。思想家の吉本隆明氏は、自己幻想と共同幻想は逆立する、と指摘しているようである。

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