白と黒に割り切れない場所としての東洋

 日本における、アジアにたいするとらえ方をあらためて見る。正直いって、アジアについて、すごくぼんやりとしてばく然とした知識や認識しか持っていなかった。そうした不勉強なところがあったんだなあというふうに個人的に実感した。

 日本の戦前や戦中においての、過去の歴史問題をふまえるさいには、アジアの場所(トポス)の性格を見たほうがよい。そういうことが言えそうだ。当たり前といえば当たり前であり、何をあらためてそんなことを言うことがいるのか、との批判を受けるかもしれない。生半可な知識を振りかざすな。そうした批判があるとすれば、当たっていると言わざるをえない。

 そうした部分はあるのだけど、アジアの地を、位相として、場所的(トポロジック)に見ることがいる。そのような気がするのである。というのも、まず、歴史問題では、日本にたいして、韓国や中国などの近隣諸国は反日になってしまっているところがある。しかし、このように見てしまうと、一様な見かたにならざるをえない。

 韓国や中国などの近隣諸国とはちがい、ほかのアジアの国のなかには、日本にたいして手ばなしで好意を持っている国もある。このような見かたはあまりとりたくはない。というのも、そのように見てしまうと、一様なふうになってしまうからだ。そうではなくて、日本にたいして、反発する反日でありつつ、かつそれと同時に親日でもある。こうした複雑で矛盾した心もちがあってもおかしくはない。

 複雑で矛盾したありようがあるとしても、それを認めたくはない。分かりづらいからだ。しかし、アジアとは、多様であり、いろんな要素が混ざり合っているものだという。それは、不純であるといえる。両価的(アンビバレント)だ。

 かりに、韓国や中国が反日であるとすると、ほかのアジア諸国は、その反日の部分を半分(または一部)含みもつ。そのようにとらえることができるのではないか。これは、戦時中に日本の軍に侵略されたアジアの国においてのことである。完全に反日なわけではないが、かといって完全に親日なわけでもない。過去の残虐なしうちによる悲劇を忘れるわけではないが、かといってそれだけにこだわるのでもない。

 過去の残虐なしうちによる悲劇などと言って、さもじっさいに見てきたようなふうに言うな。過去のことなのだから、それを正確に知った気になるのは精神のおごりである。そのようにも言えるかもしれない。しかし、こうした見かたには、一様にものを見ることにつながるところがあるのもいなめない。白か黒か、という見かたへの誘因がはたらく。二者選択をとる。しかしそうではなく、アジアの場所においては、白でも黒でもない、灰色という中間のありようを中心にふまえたほうがよい。非西洋的ではあるが、そのような気がする。

 中間とはいっても、それはあいまい化してごまかすことではない。負の痕跡を無視するのではないのがのぞましい。そうした痕跡は、それに接する者にたいして、呼びかける声をもつ。そうした声を聞き、了解することがあってもよさそうだ。声を聞けとはいっても、耳をつんざくような、響きと怒りはけっして快いものではない。そうした喧騒のまどわしの中にあっては、かえって現実がかき消されてしまい、しかるべき事態から逃避(回避)することになりかねない。

 声を聞き届けよとはいっても、それは虚偽的な感傷主義(センチメンタリズム)ではないのか。そうした感傷的な言辞を弄するのは、現実から離れてしまうおそれがあるため、よくないことはたしかだろう。しかし少なくとも、決してそうしたい気持ちがあるわけではない。アジアの国には、戦時中に日本の軍が残した負の痕跡が、いまも刻み込まれている。本来あるべきではない体験が傷となって記憶され、それが開かれた傷口となって記録される。これはあくまでも解釈の一つにすぎないかもしれないが、そのように見てみたい。

 どのみち、戦時中に日本軍が他国にとても悪いことをしたと言おうとも、また逆にそんなことはしなかったと言おうとも、どちらにせよ、その前提は疑うことができる。疑いに切りがなければ、水かけ論にならざるをえない。そこで、その水かけ論を止めるために求められるのが神だ。神とは、聖なる者であり、暴力によって不条理に排除された人をさす。それはできれば(他国の)他者であるのがのぞましく、でないと自己の神格化(自己正当化)や自文化中心主義につながりかねない。

 もちろん、そのように求められてできあがった神を否定することはできる。また、神を心からは信じられないこともあるかもしれない。不信が芽生える。そうしたことがいけないとは一概には言い切れない。絶対化するのもそれはそれで問題ではある。神の死の文脈においては、よくても仮象にすぎない。しかし、媒介としての神がなければ、直接的な二者どうしの意思疎通はそもそも不可能だという現実もあるという。ぶつかり合ってしまうためだ。

 そうしたわけで、アジアの場所としての多様さや複雑さや両価性というのが、重みをもつのではないかという気がする。一神教ではなく、多神教的であるものだろう。一神教であれば主体が中心をになう。しかし多神教であれば、主体の絶対性をカッコに入れられる。排斥ではなく包摂する。

 包摂だとか言っても、現実がそんな絵にかいたようにうまくゆくとはあまり考えられないのもたしかだが、主体(主語)ではなく場所(述語)による論理というのも、バランスをとる上ではありなのかもしれない。それは主と客との入れ替えの試みであり、もっとも遠いもの(無意識)と近づくことである。必ずしもきれいではない自分のなかの暗い欲望や欲動と出会う。