カジノの解禁

  カジノを解禁する、統合型リゾート(IR)整備推進法案が成立の見通しだという。カジノの解禁については賛否が分かれている。すでに国内にはパチンコなどの賭博があるため、それ以上はいらないともいえる。じっさいに、日本は世界的に見ても賭博に依存する人の割合がけっこう高い(人口比で 5%)とするデータもあるようだ。

 パチンコはすでに国内に多くあり、それを脇に置いておきつつ、新しいカジノについてだけ反対を言うのはどうなのか。カジノに反対するのなら、パチンコについても同じく反対すべきである。もしカジノについてだけ反対をするのなら、欺まんなのではないか。

 自由民主党萩生田光一氏は、それについてこのように答えている。今回のカジノ解禁法案とパチンコ遊戯(賭博)とは、とくに関わりはなく、切り離してとらえている。あらためてパチンコのもたらす射幸性については議論の場をもつのがよいだろう。

 今回のカジノ解禁法案により、賭博のもつ負の面について新たに人々の目が向かったところがある。ただそれはあくまでも副次的な効果のようなものであり、懸念のついでのようなものにすぎない。やや消極的だ。だから、賭博の依存などの問題がすこし表立ったとはいえ、さも手がらのごとくにとらえるのはどうなのだろうという気がする。

 ほんとうであれば、カジノを解禁するさいに、それといっしょにすでにあるパチンコについても、グレーではなく合法化ないし非合法化するなどして、そのありかたを一から改めることがいる。今回はそれをする気がなく、そのままになってしまったことが残念であると受けとられているようだ。

 賭博への依存についての問題では、そもそも町中で手軽に賭博ができてしまうありかたはちょっと健全とはいいがたい。たまたまはまってしまって、ふつうの庶民が財産をすって破産してしまう例もある。お金は貯めるのは難しいが、使うのはしごく簡単だ。

 パチンコなどで射幸心をそそのかされるのは、しっかりと自制がきくことが前提だ。しかし人間の脳の構造には、何かに強くはまりやすい面があるとされる。その面を意図して悪用することで商売にしているとすれば、社会のなかでのありかたそのものを抜本的に変えることがいるだろう。

 経済における景気の浮揚のためには、カジノを含んだ総合リゾート施設を建てるのも手なのかな。少なくとも、カジノを推す国会議員の人たちは、経済効果へののぞみを抱いているのだろう。今までやってこなかったもののうちで、打てる手であれば、とりあえずは打ってみるのもありである。はたして、どう賭けが転ぶのかは定かではないが、いずれ判明することはたしかである。

 どうせカジノをやるのなら、たんなる外国の真似では少しつまらない。模倣にすぎないわけである。そうではなく、半か丁かのさいころ博打みたいなのを、日本家屋の畳敷きの建て物のなかでやるのはどうかという、冗談半分の意見を見かけた。そこでは、ほかに花札なんかをやるのもありだそうだ。たしかにこれだと、裏社会ではあるが、日本の伝統をうまく生かすことができる。そうした純和風ではなくとも、和魂洋才のようにしてみるのもよい。もっとも、国際的な常識にしばられない、奔放な発想と実行力を当事者にのぞむのは無理ではあるだろうが。