労働が必ずしもよい価値をもつものではないのは、国会でのとくに与党の議員のふるまいを見ることでそれがわかる(きちんと内実のある議論をする気がないし、いやいややっていて、居眠りしている人も中にはいるし、不毛になっている)

 働き方改革の法案が、衆議院の委員会で可決されたという。この中には、高度プロフェッショナル制度があり、これは労働者に残業代なしの裁量労働をうながすものだとされる。裁量労働は、水面下で、労働者の生命をおびやかすような深刻な問題になっている。

 野党からの強い反対があるのにもかかわらず、与党(と一部の野党)は働き方改革の法案を押し通そうとしている。これを通すことによって、いったい国民にとってどのような利点があるのだろうか。

 国民にとって利点となるようにするには、働き方改革において、働くということの自明さを改めるようにするのはどうだろうか。働くということの自明さは、労働はよいものであるとすることであり、それに待ったをかけるようにするのである。働き方という内容(あり方)の前に、労働の概念である形式を見るようにする。

 労働の概念が、よいものであるとすることから、よいことはどんどんやったほうがよいということで、労働時間の歯止めをとり外すような動きにつながって行く。第二次世界大戦において、ナチス・ドイツは、強制収容所の入り口に、労働は自由にするという文句を掲げていたという。それをほうふつとさせるような方向へ動いてしまっているとしたら危ないことである。

 労働の概念に、よいという価値を与えるのなら、それをどんどん行なったほうがよいというような、最大主義のようになりかねない。そうではなくて、最小主義をとることがあってもよいのがある。最小主義をとることができるとして、その前提となるのは、労働は負の価値をもっている、とすることによる。負の価値をもっているのだから、できるだけ最小にするのがよいというわけだ。そういう働き方改革があったらよいというのが個人的にはある。

 現実としては、労働を最小主義にするのはすぐにはのぞめないものだけど、少なくとも、労働すなわちよいとして肯定するのではなく、それとは異なるまったく逆の見かたをとることがあってもよいだろう。労働はよいものだとして仕立て上げてしまわないようにしたほうがよい。基礎づけることは必ずしもできないものである。

 日本人にとって、会社の中で働くというのは、そこに守られるというのを必ずしも意味しない。会社の中ではたらいているおきての恐ろしさというのがある。おきての問題を無視することはできそうにない。会社の中ではたらくおきては、上位の法律や憲法をないがしろにするようにはたらく。個人にとって、和の拘束となる。個人よりも集団が重んじられてしまう。集団の中で弱い個人が犠牲になるという仕組みだ。そこでは弱い個人にたいして暴力つまり排除の力がふるわれる。

 昔とちがい、社会がきわめて複雑化したいまの世の中においては、労働することの意味がよくわからなくなってきている。個人が社会の中で置かれている位置づけがわかりづらい。それは個人のせいではない。しいて言えば政治(政権与党)のせいである。賃労働者に支払われる賃金についても、それは労働したことの対価として払われるのではなく、たんに生活を最低限で維持するだけの額(必要経費)が払われるにすぎないという。どこかから搾取することがないと、組織は利益を上げづらい。