政権をおとしめるべく企んでいると見なすだけなのであれば、迫害妄想におちいっているおそれもないではない(そこに目的があるのではないとして見ることもできる)

 みんなの利益につながらないことが行なわれている。一部の人たちに利益が誘導されてしまっている疑いがけっして低くない。そうではなく、ほんらいであれば、なるべくみなに利益が行きとどくようにしてゆくことがいる。そうした配慮にいちじるしく欠けてしまっているのがあるのだとすれば、そこを指摘することをせざるをえない。

 こうしたことから、疑惑をさし示す。このさい、そうして疑惑をさし示している人について、あるていど信頼をおくことがいるだろう。好意の原理で見るのである。そうすることによって、価値を共にすることができる。

 疑惑をさし示している人について、信頼をおけず、不信をもってしまう。好意の原理で見ることができず、悪意によって見てしまうことになる。こうなってしまうと、価値を共有することができないようになる。直情径行によって相手を断じてしまう。

 疑惑があったのだとしても、それをさし示すことをしない。このようであれば、権力にとって都合がよい。そうではなく、たとえ権力に煙たがられたりにらまれたりするとしても、それをいとわずに指をさす。そうして指をさすことが、毒をもつことになる。毒とは言っても、それは薬とうらはらだ。猟犬のようにして、残された痕跡をもとにして、指をさし(ポインター)、囲いこむ(セッター)。あるいは虻(あぶ)のようにしてつっつく。眠りこませないようにする。

 なにか決定的な証拠があれば、それに越したことはない。そのように言えるわけだけど、だからといって、そうした決定的な証拠がなければ、それで白としてしまってもよいものだろうか。そこが疑問である。一かゼロかの問題ではないといったふうにも見ることができる。

 疑惑をさし示している人がいるとすれば、その人が証拠をさし出さなければならない。明らかな証拠を出せないのだとしたら、疑惑をさし示すべきではない。そうした意見もある。これについては、その疑惑をさし示す人が、自分の利益を主張しているのであればそれが当てはまる。しかし、自分の利益を主張しているのではなく、みんなの利益を言っているのであれば、当てはまりそうにはない。そこのちがいは小さくないだろう。

 立証責任や挙証責任については、疑惑をさし示す人がそれを負うとも言われる。しかしこれはかならずしもそうとは言えないのがある。立証や挙証の責任については、ふつうに見れば、だれか特定の一人に帰せられるものとはいえそうにない。だれか特定の一人に帰してしまうようであれば、無理難題をふっかけてしまっているようなものだし、前提がちょっとおかしいところがある。

 前提がおかしいというのは、(立証や挙証の責任を負う)特定の一人だけが、自分の私益を肥やそうとしている、と見ることになるからである。しかし、その特定の一人だけではなく、行政にかかわるあらゆる人が、自分の私益を肥やそうとする可能性をもつ。ゆえに、特定の一人だけが私益を肥やすべく悪だくみをしようとしている、と見なすのは納得しがたい。責任のすり替えであり、非をなすりつけることになる。

 行政にかかわる誰もがみな、私益を肥やすべく悪だくみをするおそれがある。ゆえに、そうして疑われることをあらかじめ見越しておいて、そうではないと明らかにできるように、記録をとっておく。いざとなったときにそうした客観の記録を出せないのであれば、(みなが負うものである)立証や挙証の責任を無視してしまっていることになるのではないか。

 立証や挙証の責任うんぬんを持ち出すのよりも、むしろ政権は、これこれこうであるから自分たちには非がない、というべきなのではないかという気がする。記録が出せないだとか、記憶が無いだとかいって、それで非がないとするのであれば、ちょっと虫がよいことにならざるをえない。そこについてはやはり、何らかの形のある根拠や理由を示して、それだから非がない、とするのがのぞましい。これによってはじめて、何かを言ったことになる。そうした面がありそうだ。

 非がとくに無いにもかかわらず、行政をいたずらにおとしめようとして、足を引っ張っているようなのであれば、それはいただけない。そのいっぽうで、行政を神として、行政にいちゃもんをつけてくる人を悪魔と見なしてしまうのがありえる(その逆もあるが)。そうしてどちらかを神としたり、どちらかを悪魔としたりしてしまうのだと、やりすぎになる。神のような悪魔だったり、悪魔のような神だったりすることがある。そこについては、決定不能性があるのが避けづらい。国家は暴力を独占するものであり、最大の暴力組織でもある。暴力とは、うとましいと見なす者の排除にほかならない。その点も無視できないものである。

 まちがった妄想におちいっている、といたずらに決めつけてはいけない。そうした面はあるが、誇大妄想はいずれその鼻をへし折られる、といったこともいえる。これは景気の波動のようなもので、極大と極小が循環することをあらわす。景気であれば、それが浮揚しつづけるといったことは成り立ちづらい。いったん浮揚したものは、そのごに沈む。季節でいえば、春(夏)と冬との交代である。

 誇大妄想とは何かといえば、それは過剰さである。過剰さをもつがために、誇大妄想がおきて、それによって存続の危機をまねく。そうした危機とは、根も葉もないところからおきてくるものではなく、過剰な活力を処理するための必要欠くべからざるものと見なせる。

 誇大な妄想におちいっているとする論拠は何か。それは確実なものとはいえないけど、一つには、相手の全否定がある。相手をもし頭ごなしに全否定しているのであれば、そこにおいて、妄想の兆候があらわれているおそれがある。そうではなくて、逆に肯定するのであれば、相手をあるていどは冷静に見られていることにつながる。いったん肯定しておいて、そのうえでここはちがうだとか、ここはおかしいだとか、そういった批判なら溜めがあるので無難である。

 いっけんすると消極的で否定的なものではあるが、あえて自分から非や不徳を認める。そうして認めるのは、すごくむずかしいところがある。そのむずかしさがあるわけだが、それを達成することによって、膨らみすぎた誇大妄想がしぼみ、等身大に近づく。そのようなことがのぞめる。過剰な活力がうまく処理されたわけである。そうして大いに活力が消費されることによって、肺から息を吐ききったときのように、新しい空気を吸うことができる。そうではなく、息を吐ききるのを拒んでしまえば、古い空気が肺にたまったままとなる。偉そうなことを言ってしまったが、そのようなことが言えそうだ。

少数派と多数派が固定されてしまうのではなく、関係が流動的であるのが、民主主義の安定の必要条件であるらしい

 日本の各地で、デモが催された。安倍晋三首相が率いる政権にたいして、退陣を求める声が少なくなかったという。

 デモなんかをやったとしたって、それにいったい何の意味があるというのか。そうした声も、デモに参加していない人の中の一部からはあげられているようだ。たしかにそれも一理あることはまちがいない。くわえて、何か具体的な対案なり、有効な案がないにもかかわらず、ただ政権の退陣だけを求めても、説得力に欠けるといった声もあげられている。

 あらためて見ると、自分たちがよしとしている主張を、じっさいの選挙の結果に反映させるのは、一つの文化目標である。そうした文化目標があるとして、それを達成するための手段がみなに公平に分け与えられているといえるのか。それについては、完全にイエスとはちょっといいがたい。効力感をもちづらく、無力感が生じるふしがある。

 選挙では一人一票がみなに分け与えられてはいるが、それの有効性をはたしてどれくらいの人が実感しているだろうか。けっこうおぼつかないところがありそうである。そのため選挙権の棄権も少なくない。棄権するのは推奨されるものではないにせよ、それはそれで一つの合理的な行動であるかもしれないが。

 国政での小選挙区制度では、死に票が多くなってしまう。そのような負の面が言われている。死に票が多いのであれば、民意が反映されづらいということもできる。そうした点をふまえると、その負の面である、民意の反映されづらさをあらかじめ組みこんで、できるかぎり丁寧でこまかく神経の行きとどいた政権の運営がなされることがいる。理想としてはそういったことが言えるだろう。しかし現実はどうかといえば、丁寧なのではなく、力づくで押し切ってしまうようなやり方がとられているふしがある。

 デモで反対の声をあげるのなら、何か具体的な対案なり、有効な案なりを出すのがいる。こうしたことも言えるわけだが、これは保守主義の原理によっている。そうではなくて、デモをやっている人たちは、革命(革新)の原理によっていると見なせる。おたがいの文脈がちがう。そのように見なすことができる。どちらの文脈によって立つかによって、何が正しいのかがちがってきてしまうところがある。正義の複数性である。

 選挙によって選ばれたのであれば、手続き的な非があるわけではないことはたしかである。そうした非はないわけだけど、それは合法的であるといったことであり、必ずしも正当性があるのとはイコールでは結ばれない。そうした点があげられるだろう。

 決まりとして定められた法があり、そうした法にのっとって選挙がおこなわれ、それによって代表者が選出されることになる。そのさいに用いられている決まりが、いまの現実からして、そこへぴったりとそぐうものであるとは言いがたい。ちょうど(just)からずれてしまっていることがある。そのずれを無いものとしてしまうようであれば、それをイデオロギーと言ってしまってもさしつかえがない。多かれ少なかれずれがあるわけだから、そこを批判することはあってもかまわない(あったほうがのぞましい)。そうしたことが言えるのではないか。

 契約の観点から見ることができるとすれば、まずいことがおこっているのであれば、その契約を破棄することもありえるだろう。いついかなるときも契約を破棄してはならないとはいえそうにない。契約することで社会が成り立つわけだが、それ以前の自然状態があるわけであり、そこへ立ち返ることが悪といえるのかどうかは、時と場合によってくるところがある(いつでも推奨されるわけではないだろうけど)。

 自然と制度の関わりが当てはめられそうだ。はたして、自然は不平等であり、制度によって平等となるのか。それとも、自然は平等であり、制度によって不平等となってしまうのか。そうしたちがいがありえるそうなのである。そこについては、こうであると一方的に決めつけることはできづらい。どのようにも見ることができてしまうところがある。極論ではあるだろうけど、無政府主義(アナーキズム)を持ち出してみるのも、必ずしも荒唐無稽ではない部分もありえる。

 政府とは代理であり、代理によって二分化(代理者と有権者)される。二分化とは間接によるのであり、そこにずれがおきる。どんなに気をつけていても、有権者とのあいだにずれがおきるのはありえるだろう(ましてや気をつけていなかったらなおさらである)。そうしたひずみがおきてしまうのがあるから、それにたいして、耳をふさいでしまうのは適した対処であるとは思いづらい。

長いつき合いがあるのであれば、情が移るのがあるから、信じたい気持ちがあるとしても不自然ではないだろうけど、距離が近いがゆえの批判性の欠落はありえる

 二人とは、長い間のつき合いである。二十年くらいになるという。それくらい長く見てきたことから、二人が何かよこしまなことをするはずがない。不当に行政をゆがめることもない。私利私欲に走ることはないというのである。

 これは、自由民主党山本一太議員が、菅義偉官房長官安倍晋三首相について述べていたことである。山本一太氏は、菅官房長官や安倍首相と個人的に長いつき合いがあるのだという。その長いつき合いから、この二人が何か裏で悪いことをしでかすようなことは考えられない。そのように断言していた。

 正直いって、ちょっと甘い見かたなのではないかという気がしてしまった。車の運転でいうと、だろう運転になってしまっていそうである。そうではなくて、かもしれない運転をしないとならないのではないか。人が飛び出してはこないだろう、とするのではなく、そういうことがおきるかもしれない、とするほうがふさわしい。

 二人とは長いつき合いであるという山本一太氏の事実は、まったく軽んじてよいものとは言えそうにない。とはいえ、それが確実な論拠といえるのかといえば、そうともいえそうにないところがある。性善説による惻隠(そくいん)心をはたらかせすぎなところはいなめない。

 安倍首相による政権が、経済をふくめて、きちんとした成果をこれまでに出してきたのかといえば、そこはちょっと微妙なのではないかという気がする。経済についても、国策によって国債金利が低く抑えられており、ほんとうの実力が大きくゆがめられているとも見られている。市場の調整によるのではないふうになってしまっているという。そうした点が心配である。

 政権が長期にわたって権力をにぎるのが、国の利益となる。そうした意見はまったく分からないものでもない。しかしその点もけっこう微妙なものだといえそうだ。はたして、報道の自由が少なからず抑圧されてしまうのと引き換えにしてまで、政権の長期化が国の利益となるのかはいささか疑問である。少なくとも、政権の長期化が、どこから見ても国の利益となると自信をもってはいえそうにない。

 タレントの北野武氏は、学校で用いられる道徳の教科書に、お笑いの視点から色々なツッコミを入れていた。そのなかで、色々な分野には、その分野における道徳があるとしている。上に上がってゆく者は、自然とそういった道徳を身につけるものである。そうでないと、上にはなかなか上がって行けない。

 ある分野のなかで上に立つ者が、はたして道徳を身につけているものなのか。そこはけっこう微妙な部分である。感心できるようなきちんとした道徳を身につけていればのぞましいが、現実にはそういったことは確実であるとは言いがたい。かりに道徳を公の益であるとすると、うわべではそれを重んじることがある。しかし裏では反道徳であるような私の益を追い求めていてもおかしくはない。残念ながら、そういった現実はありえるものだろう。

 まったく道徳を身につけていなければ、ある分野で上に行くことはむずかしい。そうした面はありそうだ。政治の分野については、素人から見たことにすぎないのはあるのだけど、いまの政権について、どうしても道徳とは別のことが見うけられてしまう。その別のこととは、言い逃れである。言い逃れの技術が(無駄に?)すごく長けているような気がするのである。これは自己正当化であり、中和化であると言ってさしつかえがない。そうした方向へ動機づけられてしまいすぎているのであれば、残念である(多少はしかたがないものではあるが)。

 山本一太氏からすれば、二十年もの長きにわたるつき合いがあるわけであり、そこからして、悪いようなことだったり、私利私欲を追い求めたりするようなことを、やるとは考えられない。菅官房長官や安倍首相について、そのように見なしているわけだろう。こうした見かたをとるのも分からないではないが、このように見てしまうと、悪いことをやらないのが必然だとしているに等しい。こうして、悪いことをしていないのが必然だと見なすのにはちょっと賛同できない。そこについては少なくとも、悪いことをやっていないかもしれないし、その逆にやっているかもしれないという、二つの見かたをとるのがいるのではないか。疑惑をさし示されてからの政権の対応をふまえると、悪いことを何らやってはいないとして、必然で見なすのにはどうしても無理があると言わざるをえない。

帰結主義(プラグマティズム)においては、とりあえずの事実であり、とりあえずの本質、と言えるかもしれない

 太陽は、地球のまわりを回る。これは天動説であるわけだが、そのような決まりをかりに定めたからといって、太陽が地球のまわりを回ってくれるわけではない。天動説はかつて信じられていたわけだが、いまでは誤りとして見なされ、地動説がとられている。近代では、地動説が事実であるのなら、それを主とするのでないとならない。事実でないものを優先させるのはのぞましくないのである。

 事実を重んじるのはたしかに大事だろう。しかしそのさい、事実を絶対化するのはどうだろうか。かつて天動説が信じられていて、いまではそれが誤りとなった。そしていまでは地動説がとられているわけだが、そうかといって、地動説は未来においてはくつがえされているかもしれない。何かほかの説が正しいものとして説かれていることがありえる。

 そうしたことをふまえると、いま現に事実と見なされていることであっても、それを絶対化させずに、相対化するのがふさわしいのではないか。一つの変わりうるパラダイムとしておく。事実を現状と言い換えられるとすれば、現状として見なすものが必ずしも客観的であるとは言い切れない。何らかの形でつくられたものであることが避けられず、置き換えられているところがある。観念化されているわけである。

 発話行為論では、事実(コンスタティブ)と遂行(パフォーマティブ)はきっぱりとは分けがたいものであるとされているようだ。事実を述べるにおいても、そこには遂行的なものが入りこむ。事実だけで純粋に成り立つのではなくて、そこには遂行が入りこむのであり、不純にならざるをえない。

 かりに、たがいに対立し合う、相互敵対による自然状態(戦争状態)の現状があるとできる。そうした現状があるとして、それにふさわしいように対応するのだと、自然主義的な誤びゅうにおちいるおそれがある。かくあるありようを、かくあるべしとしてしまいかねないのである。そうした誤びゅうにおちいるのだと、自滅することがありえる。

 自滅とは死の恐怖であり、人間はそうした負の経験を通じてはじめて反省することができる。それくらい愚かなところがある。愚かではあるだろうけど、負の経験から教訓を引き出すのであれば、少しはそこから脱することができる。脱することができるとはいえ、少し時が経つと、たやすく負の経験を忘れてしまいやすい。

 事実でないものを持ち出して、それによってむりやりに事実にしてしまうことはできないことはたしかである。そうではあるだろうけど、いっぽうで、事実のおかしさといったものもありえる。事実として秩序があるとしても、それがおかしなほうだったり変なほうへ行きかねなかったりするのであれば、公民的不服従をすることもありだろう。従わないことも時にはありだという気がする。これは個人による自然的権利によって裏づけることができる。

 事実でないものを持ち出すことで、事実にしてしまうことはできない。そうかといって、事実が法を超えてしまうとすると、それは少なからず危ないのがある。事実が法を超えてしまうのだとすれば、法はいらないことになる。集団が、法を超えることを正当化するためのイデオロギーとして事実を持ち出すのであれば、剣呑であるといわざるをえない。

 いかなるさいにも決まりを変えてはならないかといえば、そんなことはないのもある。手続きがしかるべきものであれば、決まりを変えるのは否定されるものではないこともたしかである。しかしそのさいにも、事実だけをもってして押し切ってしまうのであれば、ちょっといただけない。そこについても、立憲主義による決まりができるかぎり重んじられればさいわいである。少数者や弱者や、他者がなるべく重んじられたほうがよい。もっとも、そうしてしまうと、速度感が損なわれてしまうのは一種の欠点と言えるかもしれないが。

 法は英語で law だが、これは lay からきているという。lay は横たわっていることを意味するようだが、もともとあったものが発見された、との意味合いをもつ。そのように受けとれるそうである。法則なんかがそれにとくに当てはまるものだろう。それくらい重みを持つものとして見ることもできそうである。あまり重々しくとらえすぎなくてもよいだろうが、かといって軽々しくとらえすぎるのもちょっとどうだろうか。

 事実を本音であるとして、人間は本音だけで生きてゆけるかといえば、そうとは言えそうにない。嘘ではあるかもしれないが、何らかの建て前がないことには、立ち行かないところがある。嘘とはいっても、必ずしも悪いものとは言い切れないものである。結果として嘘をつくことになってしまう場合もある。そうした嘘はすべてが許されるものではなく、批判されてしかるべきものもあるのはまちがいない。そのいっぽうで、嘘をまったく無くして社会が成り立つかといったら、それをうんということが嘘になってしまう。社会から嘘をまったく無くすようにしようとすれば、ロマン主義的な虚偽にならざるをえない。矛盾ではあるが、そうした点も言えそうだ。

 批評家のルネ・ジラールは、ロマンティックの虚偽と、ロマネスク(小説的)の真実、と言っているそうである。くわしくは分からないから、まちがってとらえているかもしれないが、このさいのロマンティックの虚偽とは、直接主義をいましめるものだろう。直接さによる現前中心主義は、たとえば自民族中心主義(エスノセントリズム)なんかがあげられる。そうしたものは、何らかの物的なものに媒介されざるをえない。ゆえに間接的なものになってしまう。そうした点を隠ぺいした上で成り立つ。たとえ間接的であったとしても、虚構によって真実をうがつ、なんていうのもありえるそうである。

強引な統治のやりかたに強く不満をもっている人が、そのうっぷんを何らかの機会に吐き出すことはありえる(適切な機会とはいえないかもしれないが)

 首相に向かって、やめろというやじを投げかけた。選挙の演説中に、そうしたことがおきた。そのやじの主体を、プロの活動家であると見なす。そうしたフェイスブックの記事に、安倍昭恵首相夫人は、いいねのボタンを押した。朝日新聞がそれを報じていた。

 このフェイスブックの記事は、安倍昭恵夫人ではない、ほかの誰かが書いたものらしい。これと同じようなことを、作家の百田尚樹氏は、外国特派員協会で記者会見を開いたさいに述べていたようである。それで質疑応答のさいに、日本の一般の記者から、百田さんはじっさいに現場の秋葉原に足を運んでいたのか、との質問を受けていた。その質問にたいして、現場には足を運んでいない、と百田氏は答えていた。二次情報をもとにしていたわけだろう。

 はたして、秋葉原での選挙演説中に、首相に向かってやめろというやじを投げかけたのは、本当にプロの活動家だったのだろうか。その真相は明らかにはなっていないだろう。そうであるにもかかわらず、プロの活動家にちがいない、なんていうふうに見てしまうと、属性を当てはめることになる。属性をもとにして、そこから推しはかるようなあんばいだ。

 やじの行為の背後に何らかの人格を見いだしてしまうのは、汎霊論(アニミズム)によっているところがありそうだ。そうした属性や人格を実体であると見なしてしまうと、必ずしも現実を見ることにはならない。現実におこったのは、やじという表出であり、そこで立ち止まることもできる。そこで少し立ち止まることによって、属性や人格を当てはめてしまう前の、人間としてとらえることにつながるのがある。

 選挙妨害であるとすれば、法に触れてしまうところがあり、そうして法に触れるようなことをするのは、いかがわしいプロの活動家にちがいない。そのように見なすことがありえる。たしかにそのように見なすことができるが、法に触れるようなことをしない人は善で、触れるようなことをする人は悪だ、と決めつけてしまわないこともできる。決まりがあるのだとしても、そこから多少は逸脱してしまうのは、人間にはつきものだ。ようは、その逸脱にたいして、何らかのレッテルが貼られるかどうかが一つの分かれ目となる。

 逸脱にたいするレッテルを貼るさいに持ち出されるものの一つが、プロの活動家といったものだろう。そうしたレッテルを貼ってしまうこともできるわけだが、それが貼られる前の、表出として見ることもできる。そうした表出は人の口から発せられるものであり、自発性があるものであるから、何らかの考えの結果であるととらえられる。その考えをむげに切って捨ててしまうのはどうかなという気がする。そうした点で、(よほど頓珍漢なものでないかぎりは)表出されたものにも尊重される意義があると言えるのではないか。

会場に闖入してきた人をいなせたのは、寛容さが持てたからだろう(闖入してきた人よりも優越していたのによる)

 自分を支持するのではない人が、闖入してきた。そこでその闖入してきた人をじゃまであるとして非難するのでもおかしくはないが、逆にその人のことを認める対応をとった。たとえ場ちがいではあれ、自分とはちがう代表者を支持するその人にも、表現の自由はある。その自由を尊重しようではないか、と聴衆に呼びかけた。

 これは、2016年の 11月に、アメリカの会場で演説をしていたバラク・オバマ元大統領によるものである。オバマ氏のこの対応は、表現の自由をできるかぎり尊重するものとして、とっさに対応したものだといえる。場ちがいなところへ、自分を支持するのではない人が来た。その人がほかの代表者への支持を訴えたわけだけど、それについて、公共の福祉にはとくに反しないと見なした。

 ひるがえって日本では、さきの東京都議会議員選挙の選挙戦において、安倍晋三首相のやじへの対応がとりあげられている。やじを投げてくる人たちにたいして、こんな人たちには負けるわけにはゆかない、自分たちはそうした汚いやじをこれまでにまったくしたことがない、なんていう趣旨のことを首相が述べた。

 首相についてはひとまず置いておいて、オバマ氏について見てみると、長期的な利益をふまえているととらえることができる。表現の自由をできるだけ尊重するのは、長期的な利益にかなっているのだ。民主主義はまちがったほうへ暴走することがあるが、これは自由主義によって歯止めをかけられるのがよいとされる。そして、平等の点でいうと、たとえ元大統領とはいえ、それは一つの役割にすぎず、表現の主体としては他の人とも等価に近い。かけがえがないのではなく、どちらかと言うとかけがえがある。そうした、兄弟性による連帯のありようをとっていそうである(少なくともうわべにおいては)。

 安倍首相について見てみると、短期的な利益をとってしまっているところがありそうだ。それが見うけられるのは、たとえば憲法違反だとする声があるにもかかわらず、一部から問題視されている法案を力づくで通してしまうところに見うけられる。あとは、自分に近しい者を引き立ててしまう縁故主義も目だつ。自分に近しく、思想も共通している人を引き立ててしまうのは、短期的な利益をとっていると見なすことができる(ある程度はやむをえないものではあるが)。

 自分に近しく、思想も共通している人には、賞が与えられやすくして、罰が与えられにくくする。いっぽう、自分に遠くて、思想が共通していない人には、賞が与えられないようにして、罰が与えられやすくする。こうしたありかたがとられているとすれば、中立性がいちじるしくないがしろになっており、恣意的なふうになっている。選択的賞罰(セレクティブ・サンクション)によっているためだ。

 民主主義にはよっているかもしれないが、それがまちがったほうへ暴走してしまうさいの歯止めとしての自由主義については、ちょっと分が悪くなっているところがありえる。自由主義は日本には不要だ、なんていう題名の本も出版されていたのを見かけた。いまは流れとしては保守主義のほうがやや分がよさそうである。

 選挙戦において、安倍首相にやじを投げかけた一部の聴衆がいた。このやじを投げかけた人たちは、組織的活動家だなんて言われてもいる。いやそうではなく、ふつうの一般市民の声にほかならない、とも言われている。その真偽は置いておくとして、安倍首相の対応からひもといてみることができるとすると、やじを投げかけた一部の人たちをふくめて、首相と聴衆とは、いわば父と子のようになっていそうだ。一部の子が父に歯向かったからこそ、父(とその側近)はそれをよしとはしなかった。けしからんことだと見なした。これが一部ではなく子の全体にまで広がることを恐れた。そうしたことが言えるのではないか。

 ほんらい、民主主義においては、オバマ氏のありかたのような、兄弟性による連帯がとられているほうがのぞましいとされる。こうしたありかたが日本では現にとられているかといえば、残念ながらそうではないと言わざるをえない。そのようなふうに言えそうだ。そうした点をふまえると、民主主義とはいっても、そのありようが少なからず変質しているところがあるかもしれない。大衆迎合主義なんかもあるから、その点に多少は気をつけておくこともあればよさそうだ。

かりに獣医学部をどんどん新設するにしても、日本獣医師会の意見をまっこうから否定したり、まったく反論に耳を貸さなかったりするのは、おかしい気がする

 あきらかに、政権にたいする抵抗勢力ではないか。自由民主党菅義偉官房長官は、会見でそのように述べた。抵抗勢力と見なされたのは、日本獣医師会の人たちである。政権は獣医学部をどんどん新設することを新たに目ざし出したが、日本獣医師会はこれに釘をさしている。

 政権にとって日本獣医師会抵抗勢力にあたるようだ。この日本獣医師会は、官僚組織にも置き換えることができそうだと感じた。あくまでも素人から見たことにすぎないのだけど、おそらく日本獣医師会のほうが、専門的に活動しているだけに、獣医の分野の実態をより詳しくとらえられていそうだ。これは、政治家よりも官僚のほうが、何かの問題についての情報量を多くもっていることが少なくないことに少し似ている。

 政権がやろうとしていることについて、抵抗してくる勢力だ、と見なしてこと足れりとするのでよいものだろうか。そこが疑問である。肝心なのは、政権がやろうとしていることである、獣医を増やすか、それともそれを押しとどめるか、だけではない。それとは別に、まず一つの規則として、できるだけ嘘をつかないことがいる。話し合いの過程で嘘をついてまでして、そこまでしてもやらなければならないことなのだろうか。

 話し合いの過程での嘘とは、たとえば不正確な引用があげられる。相手側が言ってもいないことをでっち上げてしまったり、またはねじ曲げてとりあげてしまう。そうした不正確な引用は、ふいにやってしまっていても駄目だし、ましてや意図してやっているのであれば、ごう慢であると言わざるをえない。政権は、日本獣医師会が言ったことや思っていることを、勝手に自分たちに都合のよいようにとりあげてはならない。日本獣医師会も、政権のことをねじ曲げないようにする。

 たんなる既得権益にすぎないのであれば、それを改めることがいるのはたしかである。それはたしかにあることは言えるけど、そのいっぽうで、ことわざでは餅は餅屋とも言われる。獣医の分野については、政権は餅屋ではない。そこは日本獣医師会のほうが餅屋に近いだろう。ゆえに、餅屋(に近いもの)からの意見をまっこうから否定してしまうのは合理的とは言いがたい。

 たとえ餅屋だからといっても、認識や判断にまちがいがないかといえば、そうとも言い切れないこともたしかである。視野が狭くなっていることはありえる。その危険性はあるにしても、だからといって頭ごなしに切って捨ててしまうのはいかがなものだろうか。頭ごなしに切って捨ててしまうようであれば、一歩まちがえると、恐怖政治のようにもなりかねない。はやばやと相手を見切ってしまうのではなく、いったんは相手の文脈にすり合わせるようにして、それから決断を下すのでも遅くはない。そうしたほうが、自分たちの文脈に凝り固まってしまうよりかは、まちがいが少ないのではないかという気がする。

 二つの文脈があるとして、どちらかが正しくどちらかがまちがっていると見なす。そうしてしまうと、きつい見かたになる。摩擦がおきてくる。これは白か黒かの単純弁証法のようなありかただ。敵か味方かみたいにして、相互敵対状態をまねく。悪く言えば、こうした敵対状態は、いわばなぐり合いのようなものである。物象化してしまっている。

 きついのではなくて、ゆるい見かたをとることもできる。ゆるい見かたのほうが摩擦が少ない。いたずらにぶつかり合ってしまうことを防げる。もしできるのであれば、摩擦が少ないやりかたのほうがのぞましい。あとは、むやみに相手を屈服しようとするのではなく、対立点があるのであれば、それを明らかにして、開かれたところで論じ合うようにできればよさそうだ。

 文脈どうしがおたがいに不毛にぶつかり合ってしまうのは、いっぽうの相手を不浄なものと見なすことによる。そうして不浄と見なすのではなく、けがれくらいにとどめておくのがよい。けがれと言っても、それは必ずしも否定的なものではないそうだ。それは否定的媒介または否定的契機であり、そうしたものを抑圧したり抹消したりしてしまわないで、創造を高めるために活かす。

国どうしの関わりにおいて、認知の不協和がおき、それを解消しようとするさいのやり方

 国の中で、禿げ山が多かった。そこへ緑を多く植えて、自然を豊かにした。社会基盤が不十分だったのを、色々と近代的な設備を整えた。経済についても、成長させて発達させて、よいほうへと進める。その他、教育なんかについても、近代の観念の大切さを広めた。

 かつての韓国にたいして、日本はこのようなよいことをした。よいことをしたのだから、感謝されてもよい。しかしそうではなくて、逆に恨まれてしまうようなあんばいだ。このようになってしまうと、認知的不協和がおきてくることになる。

 簡単に言うと、このようになる。日本は韓国に色々とよいことをしてあげた。しかし韓国はそれを感謝することがない。それどころか、恨んでくるところがある。こうなっていることから、認知的不協和がおきてくるわけだ。そこから、その不協和を解消するほうへと進んでゆく。

 すぐに不協和を解消するのではなく、あえて立ち止まってみることもできる。なぜ、認知的不協和がおきてしまうのかというと、いくつかの可能性があげられそうだ。まず、日本は韓国によいことをしたのではなく、実はしていなかったのがありえる。よいことをしたとする事実はないのである。それを、あったことのように言っているおそれがある。

 ほかの可能性として、日本は韓国によいことをした。そうした過去の事実がある。とはいえ、それだからといって、その事実をすぐに一般化することはできづらい。すぐに一般化してしまうのは早とちりだ。ふつう、自分が他に何かよいことをしたのだとしても、それはすぐに一般化されるものではない。限定化されるのがふつうである。

 日本が韓国へよいことをしたのだとしても、それはあくまでも、された側である韓国のほうが、これはよいことだったな、と感じるのでないとあまり意味がない。した側である日本がいくらよいことをしたと見なしていても、した側ではなくて、された側に評価の主導権があることはいなめない。された側が、これはありがた迷惑だったなだとか、よけいなことをしてくれたもんだな、と受け止めたのだとしたら、それが本当に近いのではないだろうか。

 日本にとってよいことを、かりに国益であるとする。そうであるとして、日本が韓国によいことをするのであれば、日本にとっての国益を捨てるのでないとならない。国益をかえりみないで、それをまっ先に得ようとはしない。このようであれば、韓国にとってよいことをするための必要条件が満たされやすい。

 日本が韓国へよいことをしてあげたとするのは、その見かたが日本の国益になってしまうところがありそうだ。そのような見かたをしてしまうと、日本の国益のために、韓国を利用することになりはしないだろうか。たとえば、日本が親で、韓国が子であるとすると、親の満足のために、子を利用してしまうようなふうである。そうしてしまうと、子が親に同質化されてしまう。

 日本が韓国へやったことが、よいことなのか、それともそうではないのか。この点については、少なくともちょっと決めがたいところがあるのではないかという気がする。あくまでもよいことをしたのにほかならない、と決めつけてしまうと、それは日本が自分たちを正当化することになる。しかし、韓国はそれを不当なものにほかならなかった、と言ってくる。そのどちらがふさわしいのかもあるし、それとは別に、上からの演繹でなしに、下からの帰納によって残されたさまざまな痕跡を見てゆくことがあればよさそうだ。

 よかれと思って、日本が韓国へ色々とよいことをしてあげた。これをまず認めるのだとすると、そもそも日本はなぜ韓国へそのようなことをしたのだろうか。よいほうへ向かわせようとしたからなのだろうか。その点については定かではないが、日本は韓国をよいほうへ向かわせようとしたのだから、日本は韓国にたいして倫理的な責任を少なからずもつのではないか。そうした責任がまったく無いとするのはちょっと納得できがたい。

 当為(ゾルレン)として、韓国は日本に感謝すべきだ、とするのは分からないでもない。しかし、実在(ザイン)として、韓国が日本を恨んでいるのだとすれば、その非の内のいくらか(あるいはすべて)を日本が負っていると言わざるをえない。この点については、ちょっと賛同を得られづらいおそれがあることはたしかだ。そのうえで、日本が韓国に介入したことが過去にあり、その結果として現に韓国がかくあるようになっているのであれば、そのかくあるようになっている原因(の一端)が日本にある、と見ることができる。これはあくまでも、たんなる解釈の一つにすぎないことはまちがいがないが。

どうなっているかの実在と、どうするべきかの当為は、2元的に分けて見ることもできる

 消費税の増税をするかしないか。目の前にはそうした矛盾がある。これについて、毛沢東が言ったとされる矛盾論を当てはめてみることができるのではないかという気がする。毛沢東は、目の前にある矛盾の、さらにその背後にある主要矛盾を認知せよ、といったのだという(元都知事の石原慎太郎氏が説明していた)。それでいうと、消費税の増税をするかどうかの矛盾があるとして、その背後には、人々がもつ将来の社会にたいする不安の心理があるのではないか。

 そうした将来の社会にたいする不安の心理を、まず認知するようにする。そうすることで、目の前の矛盾のさらに背後にある主要矛盾を認知することに近づける。将来の社会にたいする不安の心理の中には、政治家にたいする根強い不信感もありえる。そうした根強い不信感はみなが持っているものではないかもしれないが、いわば音楽でいわれる通奏低音のようにして全体に濃い負の空気として漂っているのがありえる。

 戦前や戦中のときのように、知らしむべからずよらしむべし、とするのだとあまりのぞましくはない。耳に快かったり、気持よく響いたりするようなことを言っているだけでは、実態を知ることにはつながりづらい。耳に不快だったり気持ちよくなく響くことであったとしても、それをもってしてすぐに売国だとか反日だとか決めつけてしまっては早計だろう。そこについては、加速度によって脊髄反射をしてしまうほど早まらずに、たまにはあえて遅速度によって別の角度からも見ることができればさいわいだ。

 日本国憲法でいわれる国民主権からすれば、主権をもつのは国民であり、国民は経営者であるとも言えそうである。経営者であるとすれば、その判断をするのに情報が色々あったほうがよい。わずかなものだったり、偏っているものだったりすれば、判断が狂ってしまう。まんべんなくおり混ぜてある情報があることで、判断の狂いを少なくできる。完全とはゆかず、限定されていたり限界があったりするとしても、その点をふまえられればよい。

 過去にこうなったから、これから先はこうなることがありえる。そのように見なすことができる。しかしそのさい、過去にこうなったとする読みとりが、必ずしも正しいものとはかぎられない。それはいわば大きな物語のようなものであるといえる。そうした大きな物語が通用しづらい現状があることも無視できない。そのため、大きな物語を持ち出すさいに、それを前提とするとして、その前提を完全に信じないで疑うことがあってもよい。

 過去にこうなったというさいの読みとりは、現実の次元のことがらである。そうしたことがらについて、読み誤ることがありえる。あんがいそうした誤りはおきやすいものだろう。それにくわえて、これから先にこうなるといったことについては、それを断定してしまうようだと、一神教のようになってしまう。しかしそうではなく、多神教のようなあり方であってもおかしくはない。一神教のようなあり方だときつくなるが、多神教のものであればゆるさがある。ゆるいほうが深いといったところもありえる。

 いっけんすると耳ざわりのよい理論があったとして、それをうのみにしてしまうようだと、一神教のようになる。たいていはある理論にはよいことだけではなく悪いこともあるはずだ。であるなら、よいことだけではなく悪いこともなるべく包み隠さずに示すのがよい。

 まるで理想のような理論があったとする。それは非の打ちどころのないものだ。そういった理想郷のようなものを、いざじっさいに当てはめようとすると、皮肉なふうになることがありえる。これは歴史上において少なからず見られたものである。そうした負の経験から教訓を得られるとすれば、理論の非の打ちどころのなさをうのみにするのではなく、それと実践とを分けて相対化するほうがのぞましい。実践によって裏切られることをあらかじめふまえておく。そのようにふまえておくのは、労力をよけいに使うので、まわり道になるところはある。予想どおりにゆくとして、裏切りをふまえないほうが、労力をかけずにすむ。そうした点が言えそうだ。

選挙戦の中で、色についてが少しだけ気になった

 緑の色を基調として、選挙戦をたたかう。都民ファーストの会はそのようにしていた。この緑の色を使うのは、公平性を欠くのではないかという気がする。公平性を欠くのがあるわけだが、そもそも、ほかのどこともかぶっていなければ、とくに問題があるわけではないのもたしかだ。とはいえ、ほかが遠慮しているだけなのかもしれない。とすれば、先に選んでしまったほうが有利になる。先行利益みたいなのもありえる。

 都民ファーストの会が緑の色を自分たちの色であるとしたことで、今回の東京都議会議員の選挙に大勝したのだと言ってしまえば、それは言いすぎになるだろう。色のよさを競って選挙がおこなわれたわけではない。いわば余剰であり、つけたりのようなものである。しかし、ちょっと見すごせないところであるような気もする。

 公平性を期するのであれば、都民ファーストの会は緑の色を自分たちをあらわすものとして、使うべきではなかった。そのように言うことができそうだ。いわば早い者勝ちのようにして、緑の色を自分たちをあらわすものとして使うのは、ほかの党に少なからず不利になる。自分たちに少しでも有利になりさえすれば、ほかの党のことはかまってはいられなかったのかもしれない。もしくは、結果論でいえば、都民ファーストの会こそがどこよりも緑の色をいかんなく使いこなせていたとも見なせる。ほかの党では、使いこなすとしてもちょっと役不足になりかねない。

 色の力で勝った、とは必ずしもいえないかもしれない。そのうえで、逆にいうと、都民ファーストの会以外のほかの党は、色の力で負けたとすることができるだろうか。それもちょっと言いすぎかもしれない。選挙の結果については色々な要因がからんでいるものだろうから、たんに色だけで決まったとすることはできそうにない。

 緑の色についての物神性(フェティシズム)みたいなのもあるかもしれない。そうした呪力みたいなものがはたらいている。緑の色がよい意味をあらわすものとして見なすからこそ、党をあらわす色として使っていたのであり、それは物神視していることをあらわす。それにくわえて、都民ファーストの会が緑を選びとることによって、あらためてそこに価値が生じてくる。緑への欲望がおきるわけである。

 都民ファーストの会が、自分たちをあらわすものとして、緑の色を使った。しかしこれを逆から見れば、緑の色が、都民ファーストの会を使ったといったところもあるかもしれない。こう言うと、ちょっと変なことを言っていると受けとられてしまうおそれがある。そのうえで、緑の色が都民ファーストの会を使ったというのは、緑の色にふさわしいように、都民ファーストの会が自分たちからふるまったところもありえる気がするからだ。緑の色に似つかわしくはないものとして、都民ファーストの会はふるまいはしなかった。

 心理においていえば、そこには効果または効用みたいなのがはたらくことがありえる。その効果や効用の作用は少なからず選挙の結果にも影響を与えたかもしれない。とはいえ、都民ファーストの会がみんなにとって見なれたものまたはありふれたものとなれば、新しみがなくなってくるため、緑の色も陳腐に映ってくるようになることがありえる。経済学でいわれる、限界効用逓減の法則がはたらくわけである。

 ボクシングでは、たしか挑戦者の側は青コーナーで、受けて立つ側が赤コーナーになっているようだ。挑戦者は相手のコーナーの色である赤を見て闘志を少しでもみなぎらせる。受けて立つ者は青の色を見ることで冷静にたたかう。そうした意味あいがあるそうだ。こうしたふうに色が決められていれば、理にかなっているところがある気がする。