終止符を打つか、打たないか、の単純な二元論は適したものとは言えそうにない(結果論からすれば、よい結果が出ればそれはそれでのぞましいが、それとは別に帰結や過程を見られる)

 ロシアのプーチン大統領と共に、北方領土などの問題に終止符を打つ。必ず終止符を打つ。首相はそう言っている。

 首相が言っているのを見てみると、あたかも終止符を打つことによい価値があるかのように響く。しかし肝心なのは、たんに終止符を打つか、または打たないかではなく、どう終止符を打つかや、どう終止符を打たないかにあるのではないか。

 どう終止符を打つかの、打ちかたのいかんによっては、悪く出ることがある。どう終止符を打たないかの、打たないあり方のいかんによっては、悪く出ないことがある。

 終止符を打てばよいというのではないし、打たないのは悪いというのでもない。終止符を打たないで棚上げにしつづけるのも選択の一つだ。

 戦略が見えてこないことには、評価しづらいのがある。出発点としてどういう戦略を持っていたのかがある。落としどころの到達点(目標)はどこにあるのかや、そこにいたるためにどういう手段があって、そのうちのどの手段を用いたのかがある。

 変化することそのものに価値があるのだとは言えそうにない。現状維持(ステータスクオ)が必ずしも悪いというのでもない。場合分けをしてみると、変化することにはよいのと悪いのがあり、現状維持にもよいのと悪いのがある。

 戦略をとって、到達点にいたろうとする。はじめの出発点から到達点に進んで行くさいに、その一歩一歩において、細かい小さな目標があるのが必要だ。この一歩では何を目ざしていて、どう出ればよくて、どう出れば悪いのか。よく出たら次の一歩はどう動くかや、悪く出たら次の一歩をどう動くかがある。

 大きな全体の戦略や、その中の部分の小さな目標はどうなっているのだろうか。小さな一歩一歩の行程(過程)において、進んだり、引き下がったりする判断は、どのように行なわれてきたのかを見られたらよい。たんにいままで進めつづけてきましたというのではあまりにもばく然としすぎだ。

 出発点から進んでいって、到達点である目ざす地点にたどり着ける確率はどれくらいなのだろうか。はじめに見こんでいた確率は数値でいうとどれくらいなのか。その確率は、出発点においてはこうで、一歩進んだときにはどう変化したのか。変わらなかったり、または悪くなったりすることがある。大よそでもよいが、確率の数値が、出発点から一歩進むごとにどう変動したのかを定量で示してもらえるとわかりやすい。

 埋没費用(サンクコスト)の錯覚がおきることをあらかじめ見こしておいて、たとえ進めている途中であったとしても、引き下がったほうがよいとなればそうする決断があるのは有益だ。ものごとにおいて一番むずかしいのは撤退(引き下がること)だから、見切りをつけるのは一つの意味のある決断だ。たんにいままでずっと進めつづけていて、進めつづけていれば何とかよい方向に向かうだろうとか、よい結果が出るだろうというのでは、神風神話のようなものだろう。そうした神話におちいっていないのであればよいが。

 神話は置いておくとして、うまくことが運んで、よい結果が最終的に出るのであれば、それはそれで悪いこととは言えそうにない。これは結果論によるものだが、こうした結果主義には危ないところがあるのは無視できそうにない。

 あらかじめ、国民の全体にとってどういうふうになれば効用が最大になるのかや、どういうふうになれば効用は最低になるのかの帰結を見ておく。その中間にある、効用がほどほどによいのやほどほどに悪いのがある。かなりよいのやかなり悪いのがある。それらのどこに落としどころとなる到達点を定めるかを見すえて、そこから逆算して歩を進めて行く。

 この道しかないとして一点にだけ賭けるのではなく、危険性にたいして保険(リスクヘッジ)をかけてなるべく危険性を分散しておく。結果論だけに頼るのでないのであれば、効用にもとづく功利計算ができるのがある。