首相は人権と多様性を目ざすのは当然としているが、これをうのみにすることはできない(十分にやる気をもって目ざしているとはとうてい見なせない)

 人権と多様性が尊重される社会を目ざすことは当然である。これは政府と与党の方針でもある。自由民主党安倍晋三首相はこう言っている。自民党の議員が性の少数派について生産性がないと言ったのを受けてのものである。

 人権と多様性が尊重される社会を目ざすのは当然だと首相は言っているが、当然だというと、それを目ざすのができているかのようなふうに響く。それができていないのがあり、自民党の議員が性の少数派のことを生産性がないと言ったのにあらわれている。これは人権と多様性を尊重できていないのによるのだから、目ざすべき当然のことができていない。

 働き方改革では、高度プロフェッショナル制度が含まれているが、これを国会の中で、政権と与党はご飯論法や信号無視話法を当然のようにして使って成立させた。過労死の遺族は高度プロフェッショナル制度に反対の声をあげていたが、それにまともに向き合おうとはしていなかった。反対の声を聞き入れないで、耳をふさいでいた。人権や多様性に関わることが、政権と与党によってないがしろにされたのはいなめない。

 自民党の総裁選では、首相とそのとり巻きは、自分たちを支持する者はとりたてるが、そうでない者は干すのだとしておどしている。これは力関係の嫌がらせ(パワー・ハラスメント)だという声が、おなじ自民党に属する石破茂氏からあげられているが、こうしたことを当然のように行なっているのは、人権や多様性を尊重することになっていない。

 自民党の議員が性の少数派について生産性がないと言ったのがとり沙汰されているが、そのことについて自民党の幹事長は、大げさに騒がない方がよいと言っている。発言者が影響力を持った人かどうかをもっと静かに考える必要がある、としている。大げさに騒がないほうがよいというのは、問題としてとり上げるのをよしとしないものである。

 自民党の幹事長は、当事者には当たらないためか、大げさに騒がないほうがよいと言っているが、それでは人権と多様性を尊重することはできづらい。たとえ多数派が当事者にならないのだとしても、少数派がどうかということが大切である。ここはやや偽善に響くところがあるかもしれないが、自民党の議員がきっかけになったことを見るさいに、誰が当事者なのかというのを見ないとならない。当事者に当たる人たちにとっては大きなことだからである。

 発言者が影響力をもった人かどうかを見るのがいると自民党の幹事長はしているが、影響力の大小は、その発言者が政治家であるというだけで十分に影響力が大きいだろう。政治家のはしくれであるのなら、多数派だけでなく少数派もおもんばかるべきであるのは疑いがない。それができていないことには、人権と多様性を尊重するのはできづらいのがある。

 自民党の議員がきっかけであるのにもかかわらず、とり沙汰されていることを矮小化しようとするところが自民党の幹事長には見うけられる。いちおう首相は、やっといまごろになって、人権と多様性を目ざすのは当然だということを記者に言ったのはあり、そのことはとくに悪いことではないが、遅きに失していて、反応が鈍い。もっと早く言うべきなのがあるし、表面をすくっただけの皮相なものであるのはまぬがれない。もっとふみこんで、大きなことがらであるとの認識をもつのがのぞましい。