選挙に価値を置きすぎなような気がしないでもない(選挙とそれによる結果にそんなに価値が置けないのが個人的にはあるので)

 衆議院を解散する。その大義は、国民が判断をするので十分だ。元大阪市長橋下徹氏は、そのようなツイートをしていた。解散をすることにより、政権与党の長である首相は危険さを引きうける。野党は勝てる機会を得られる。

 たしかに、与党をになう首相は、解散によって、危険さを引きうけるだろう。また野党は、勝てる機会を得られるし、その機会を得るのを目標にしているのもありそうだ。しかしそれは、与党にとって有利になり、野党にとって不利になるような状況においてなされるのが適切とは言いがたい。与党の長の思いつきによる胸三寸で選挙をいつやるのかを決めるのだと、国民にとって益になるとは見なしづらい。

 数で比べたら、野党よりも与党のほうがより多くの議席を持っているのだとしても、それだからといって与党のほうがより優先されてよいのだろうか。順序(priority)として一番にあるのが与党であるとして、何から何まで優先されるわけではないだろう。国民に益になるような価値を生み出せればよいわけであり、さまざまな国民からの声をなるべく広く反映させられるのがのぞましい。

 与党と野党が固定されずに、流動性があるようにして、お互いにずれて行く。そうして相互流通するのだとよい。相互の関係をこばんで分裂してしまうのであれば、お互いが自分たちのよいところだけを都合よく宣伝するのに終始してしまう。または相手の悪いところをついてこと足れりとなる。これだと一方的であり不毛だ。水かけ論の詭弁で終わってしまう。

 国民から選任されている点では、与党も野党も同じなわけである。野党は数では劣るとはいえ、一部の国民からの負託がなされている。その一部の国民からの負託がないがしろにされてよいとはいえない。十分に考慮されてしかるべきではないか。ちょっと甘いことを言っているかもしれないけど。

 橋下氏がツイートで述べている意見は、結果論に重きが置かれていると見てとれる。それはそれで一理あるかもしれないが、さらに動機の面からも見ることがあるのがのぞましい。たしかに、結果はふたを開けてみないとどうなるのかはわからないものだ。その確実でなさがあるにしても、結果論でだけ見ないとならないといったことはない。動機がきわめておかしいのであれば、それを指摘して批判するのはあってよいものである。内面の動機のおかしさをおしはかるのはいろんな解釈がなりたつ。

 たしかに首相が解散を決めて選挙を行なうのは、危険さを引き受けることではある。しかしそれであるのなら、解散と選挙をしないでも危険さを引きうけることはできる。国会の議会の中で、野党からの批判を正面から受けとめるのも、危険さを引きうけることにほかならない。わざわざ選挙をして六〇〇億円のお金をかけないですむのだから経済的だ。国会の中だけでなくても、たとえば記者からの自由な問いかけに答える場を臨時で設けるなどをすることもできる。

 どうしても、首相が(左派の)野党と正面から向き合うのが嫌だから、解散と選挙の手に打って出たと思えてならない。これはあくまでもたんなる個人の邪推にすぎないのはある。また、(左派の)野党のあり方がまったくもって正しいとも言えそうにない。それに、開き直ってしまうとすれば、解散と選挙の手に打って出ることのいったい何がいけなくて、何がおかしいのだ、と言ってのけてしまえる。そう言いのけてしまえるのを全否定はしないけど、傲慢さがあるのもまたいなめないのはあるだろう。