国と宗教との融合

 第二次世界大戦への責任を問う。日本の戦争についての、他国への責任である。このさい、当時の日本人全体としてくくるのではなくて、宗教にかぎって見てみる。すると、当時の宗教者はおおむね、まったくといってよいほど、戦争に加担したことにたいする責任をとっていない。もちろんなかには例外もあるだろうけど、そうしたふうに見ることができるそうである。

 なぜそのようになってしまったのかというと、ひとつには、宗教が骨抜きにされてしまったことが挙げられるようだ。ふつう宗教といえば、なんらかの固有の神さまを崇めるものだろう。しかし戦時中にはそれが国体の思想として、天皇を崇めることにとって代わられた。天皇は現人神として、国においては、神さまと同等の扱いとなっていたせいである。

 日本の伝統宗教には、現世利益を重んじるような、現世主義が見られるのだという。この傾向もまたあやうい。現状追随主義となったり、現実に順応することをもってしてよしとしたりしてしまう。それによって、全体化や管理化をうながしかねない。集団化してしまうことで、個がいちじるしく抑圧される。支配的な権力が幅を利かせ、他律化してしまうのだ。

 国家と宗教とが癒着すると、よからぬ悲劇や失敗をもたらしてしまう。その点についてよく自覚しておくことがいるのかもしれない。できるだけそれらが癒着しないように気を配っておくことがいる。昔のように祭政一致になるのではなく、政教分離するように努める。そこがなし崩しになりつつあるような気がするんだけど、もしそうだとすると危ない傾向だといえる。健全な恐れみたいなものを持つことも多少はいるのではないか。距離がゼロになるのではなく、最低限の距離を保つことがいる。

 今からかつてをふり返って、一方的にその非をなじったり、罪をとがめることを言っても、公平とは言えそうにない。あとからふり返ることではじめて意味づけが定まるところがあるから、まさに渦中のただ中におかれている人は、ものごとのありようがうまく見えづらい部分がある。だから、個々の人を断罪してもあまり意味がないかもしれないが、全体の誤った傾向をふり返ることはいるだろう。

 宗教を一くくりにするのはまちがいの元だし、そこばかりを責めるのだといたずらな悪玉化につながりかねない。そうしたきらいはあるが、戦時中に国家と癒着して(悪い意味で)溶け合ってしまったことにたいする無反省ぶりが見受けられるとすると、それは興味深いことだという気がする。これは宗教のみならず、日本人一般のありかたを象徴しているのかもしれない。無反省だというのは、あってしかるべき反省や分析が排除されていることを示す。その隠ぺいを明るみに出すことがいるのかもしれない。