クレームの是非

 クレーマーが、ものを禁止に追いこむ。最近そういうことが立て続いているという。たしかに、モンスタークレーマーなんていう言葉もあるみたいだ。ほんらい、自分で何とかすべきことを棚に上げてしまい、なにか自分以外のほかのもののせいにするのだとしたら、そこに問題がまったくないとはいえそうにない。(ものにもよるが)順序があべこべだろう。

 しかしなかには、(クレームである)けちをつけることが功を奏することもある。たとえば、東京都は教育委員会が、生徒の学校のプールへの飛びこみを禁止した。これは生徒が犠牲になる事故があったためになされたものである。
 もともと、水深が浅いプールもあるのだから、そうしたいちばん危険な条件のところに基準を合わせたほうがよいため、一律に禁止するのをもっと早くからやっておいてもよかったくらいだと感じる。誰かが犠牲になってからでは遅いといわざるをえない。

 何にでもけちを付けてしまうと、禁止が多くなったり規制がおきてしまったりする。なので、安易にけちを付けるのはいかがなものか、とすることもできる。ただ、この点については少し難しいところがあることもいなめない。というのも、何かとけちを付けるのはどうなのかというのであれば、だったら何でも自由に好きに、つまり管理なしにのびのびと生きさせてくれてもよいのではないだろうか。

 規制などにより、自由をもともと奪われてしまっているのではないか、と感じるのである。しかしここは、鶏と卵のような、どちらが先なのかはよく分からないところでもある。一般的には、保護と観察(干渉)は切り離せないものだ。守ってくれるだけとはゆきづらい。守ってくれるのと引き換えに、監視されるのも(嫌ではあるが)受け入れざるをえない。

 けちを付けるのが必ずしも正義ではないだろう。いっぽう、だからといってけちを付けるのがあながち悪でもない。ここには、統治の問題がかかわってくる。統治として、自己責任をもち出すこともできるが、これだと構造の問題点や不備をないことにしたり軽んじたりしてしまう。そうした構造そのもののもつ問題や不備があらかじめなければ、未然に防げる失敗もある。

 けちを付けるのがなんとなく腑に落ちないのは、けちを付けるだけだからなのかもしれない。文句を言うことなら誰にでもできる、といったふうになる。たしかに文句を言うだけならあまり生産性があるとはいいづらい。そのうえ、禁止されるものが増えるとすれば、できることが少なくなっていってしまう印象をおぼえる。無理が通れば道理が引っこむふうだ。

 この点については、そもそも人間はなにか一つのことをやると、ほかのことができなくなるところがあるためだろう。けちを付けるのならけちを付けるのに専念して集中してしまいがちとなる。できれば、並列的にものを処理してゆくのがいいのかもしれない。そうではなく、縦列的に、ひとつずつやってゆくようだと、しつようにけちを付ける人がいるとものごとが立ち止まって進まなくなる。押し問答がおきるのだ。たとえば政治では、消費税の増税などがあげられる。これは社会構造の要因がありえる。

 何から何にまで、目につくはしからけちを付けるのであれば、健全とはいえない。とはいえ、まったくけちを付けないようだと野放しになる。ちょうどよいあんばいはないのだろうか。おそらく、けちを付けることにかんして、その正常な度合いといったものを失ってからだいぶ久しいのかもしれない。そうした点では、多くわれわれは倒錯したなかにおかれているのだろう。けちを付けるのは手段だが、それが目的化する。そのなかで、正当なけちが付くものもあれば、いちゃもんにすぎないものもある。同じけちの範ちゅうのなかでの価値のちがいだ。