民族への差別

 なぜ民族差別はいけないのか。そうした問いを見かけた。これはもう少しいえば、なぜ民族差別をこちらがされているのに、あちらにやり返してはいけないのか、といったところがじっさいには関わっていそうである。民族差別をこちらがやることを正当化できるのかどうかだ。

 自分がかりに日本人だとして、日本人は劣っているだとか、間違っているだとかいわれたら嫌な気持ちがする。愉快ではない。なので、他の民族からそのように悪く言われたくないから、こちらもまた他を悪く言わないようにする。しかし、これだと、相手の側からこちらを(一方的に)悪く言ってきているのに対してはあまり強い説得力をもつとはいいづらい。

 あくまでも一国においての功利主義の立場をとることができる。ふつうに見たら、国内にいる他の民族の人たちは、その国を嫌いなのにわざわざやってくるとは考えづらい。かりに嫌いなのにわざわざやってきたとしても、そこに定着するのはなおさら現実的とはいいがたいところがある。

 そこにやってきたり、または定着するのであれば、多少なりとも好きでないとできないことだろう。もし嫌いであれば精神的なストレスを受けるので。ただし、これはあくまでも解釈にすぎないことはたしかではある。そのうえで、多少なりとも好きでやってくる(きた)人たちに対しては、拒むのではなく歓迎するほうが、全体の効用が上がることは帰結として導かれる。

 少なくとも、国内にいる他民族の人たちに対して民族差別をするようだと、全体の効用が下がってしまう。なので、民族差別はやめたほうがよい。一応そういうふうにはいえるだろう。もっとも、これはしかるべきとする道徳の視点や、公平さや、好きや嫌いといった感情の面を無視しているところはいなめない。道徳や感情(好み)で押し切られれば、くつがえってしまう。

 とくに公平さが欠けることによる不満足は無視できそうにない。これはやっかいな問題だ。たとえば全体が10であるとして、それが皆に平等に行きわたるのであればよい。しかしどこかに偏りがおきているとなれば、自分のとり分が減る。それでも、あくまでも建て前としては平等だとするのが価値の中立性だ。その建て前がもはや通用しなくなりつつあるのだとすると、制度を変えるしかないのかもしれない。部分的な立て直しか、世直しである。

 民族差別と悪口とを混同するのはどうなのかなと感じた。民族差別は悪口でもあるが、悪口は民族差別では必ずしもない。この 2つをいちおう区別しておくのがいい。なし崩しにすると不明瞭になる。この 2つでは、単位がちょっと違ってくるところがある。民族差別であれば、民族に単位がしぼられている。いっぽう悪口だと、個人に単位がおかれることもある。

 感情の両価的な面をふまえるのはどうだろうか。ヘイトは憎んでいるのであるが、それは愛の裏返しの可能性もある。愛あっての、それゆえの厳しい言葉なのかもしれない。あるいは願望憎悪として、憧れている。そのようにもいえるが、これだと分裂ぎみとなり、矛盾するところもある。いさぎよくない。人間は、そのような認知の不協和に耐えうるものではないのかもしれない。それに耐えるためには、まじであるよりは、ネタとして相対化したほうがよいのかも。

 民族差別とは、決まり文句のようなものだろう。それ自体には、なにかきわ立った創造性があるわけではない。とはいっても、だからといって軽んじていいものでもないのだろう。少なくとも、一定以上の力があると見なければならないところがある。その力は、主観的には正であれ、客観的には負であることもありえる。負の力ではあっても、結果としてうまく転がることもありえるかもしれない。歯切れは悪いけど、そこがなんとも言い切れないところだろう。

 いや、歴史の教訓として、そのような負の力がもたらした大惨事を忘れるべきではない。過去の経験から得られた知見を軽んじるべきではないのだろう。ふたたび同じ過ちをくり返すようでは、学習したとはいえない。

 欲得とか利害がからんでくると、冷静さを失いがちになる。そうすると、動機論的な忖度によってものを見てしまうようにもなりかねない。なので、なるべく動機ではなく結果や帰結からものを見てゆくようにするのがよさそうである。じっさいには難しいところがあることもたしかだし、甘い見方であるといわれればそうかもしれないのだけど。

 個人的には、厳格主義的に見るよりかは、多少混乱はしても自由による秩序といったほうがよいかなと感じる。そのほうが楽しそうなので。邪(よこしま)ではあるが、いい加減さやずる賢さといったものがけっして嫌いではない。純粋な人間観(民族観)にたいする偏見もあるだろうか。

 評価とはなかなか難しいものだ。ある民族にたいする国際的な評価や評判が落ちたとしたら、どうしたらよいのだろうか。作家の村上春樹氏は、このように言っている。あるものが不当に過少評価されている、つまり正当に評価されていないとする認識こそが、むしろ過大評価なのだ。さらに、基本としてあらゆるものが過大評価されている時代でもあるとしている。ここのところは劣等意識などのかね合いもあるから、あらためて見ることがいるだろう。(出典『THE SCRAP 懐かしの一九八〇年代』)