責任と心情

 責任か心情か。この二つの倫理のありかたがあるという。社会学者のマックス・ウェーバーによるとらえかただ。いったいに日本では心情倫理に傾きがちなところがある。そうではなくてもっと責任倫理によらなければならない。そうした意見も投げかけられている。これは経済学者の池田信夫氏が言っていたことである。

 いっぽう、そういうふうに二元論とするのではなく、いわば車の両輪のようにして、重層的に見てゆかなければならない。これは作家の佐藤優氏が言っていたことである。車が一つの車輪しかなければ安定して動かないように、どちらかの倫理のありようだけでは立ち行かない。そういうふうに言えるそうである。

 政治家が、もし自分のよいと思っていることや正しいと思っていることを貫こうとすれば、心情によることになる。いっぽう、そういった内面の思いは置いておいて、自分の言動がどのような影響を周りにおよぼすのかを重んじれば、責任によることになる。そうしてみると、心情よりも責任を重んじるべきだ、とするのにも一理ある。

 むずかしいのは、いくら責任を重んじよとはいっても、事前に自分の言動が与える影響をふまえるのはできづらい点があげられる。水面に石を投げ入れる前に、もし石を投げ入れたらどういう波紋が広がるかを思いえがくのは、確実ではない。じっさいに石を水面に投げ入れてみないと、どうなるのかはわからないわけである。

 そうしてみると、少しずつ様子をうかがうようにして、瀬踏みしていったほうがよいだろう。そうではなく、過激な言動をほうりこむようだと、衆愚政治(ポピュリズム)になりかねない。これは心情に大きく傾いていることを意味する。そうしたありかたはできるだけ慎んだほうがよい。ただ、ときには痛快さを求めてしまうのがいなめないから、むずかしいものである。