言論弾圧だと言われるのがあるとして、それが本当におきたのかどうかを念のために確かめてみる(言論弾圧の語の意味も確かめてみる)

 あることが、言論弾圧に当たるかどうか。このさいの言論弾圧には、顕在と潜在があると見られる。

 顕在とは、言論の機会が与えられていて、ある人が言論をしていたのが、途中で何らかのことがおきてできなくなることである。

 潜在とは、もとから言論の機会が与えられていない。発言をするのに抑圧がかかっている。黙ることや忖度(まわりの空気を読むこと)を強いられる。

 顕在と潜在を足し合わせると、言論弾圧の語はそうとうにくくりが大きい。そのすべてをもれなく見て行くことはできづらい。

 くくりが大きいというのは、言論弾圧の集合(外延)が大きいことをあらわす。くくりが大きすぎると弊害がある。プラスやマイナスのさまざまな価値のものが中に混ざりこむ。それを避けるために、くくりを小さめにして、定義(内包)を限定するとわかりやすくなる。

 定義がどうなのかを確かめるのは、議論がかみ合うようにするためにいるものだ。定義がずれていたりまちがっていたりすると、議論がかみ合わなくなってしまう。

 ある人が発言していたのが、途中からできなくなる。もしくはしなくなる。それを言論弾圧だというふうに見なす。こう見なすのは、正しいか、もしくはまちがっているかの二つのおそれがある。必ずしも正しい(言論弾圧である)とは限らない。確証(肯定)の認知の歪みがはたらいていることがあるから、反証(否定)で見ることもいる。

 発言が途中からできなくなったり、しなくなったり、機会を奪われたりするのを、言論弾圧だと見なす。これは、おきたできごとにたいして、言論弾圧という抽象の語を当てはめている。おきたできごとは具体である。具体と抽象がずれていることがあるから、それを確かめないとならない。

 ずれているのを確かめるために、場合分けをすることができる。おきたできごとは具体である。それに言論弾圧という抽象の語が当てはまることもあるが、当てはまらないこともある。当てはまるだけではなく、当てはまらないこともあるから、それを見ないとならない。当てはまらないのであれば、具体のできごとと抽象の語の当てはめがずれているのをあらわす。

 具体のおきたできごとは結果(現象)である。その現象にたいして、言論弾圧だという抽象の語を当てはめるのは、仮説にとどまっている。正しい仮説かまちがっている仮説かははっきりとは決めがたい。決定的な結論だと性急に言うことはできそうにない。

 具体のおきたできごとは結果であるが、例えばそれが、ある人が途中から発言ができなくなったことだとしよう。その結果がおきたのを、言論弾圧だと見なすのは、仮説である。この仮説は正しくはなく、まちがっていることがある。ちがう仮説をとることができる。

 ちがう仮説としては、こうしたものがとれる。発言の内容が、その場の決まりに反していたということがわかった。言っている途中か、もしくは言ったあとで、発言者が自分の発言の非に気がついて、自分から発言をいったん止めるようにした。他の人から反論されて、その反論の内容のほうが正しかった。こういったものがあげられる。

 おきたできごとである具体において、それがおきた原因が、発言していた人の外にあるのと内にあるのがある。外にあれば言論弾圧のことがある。内にあればそうではないことになる。

 言論弾圧だと言うのは抽象の語を用いるものだが、それを当てはめるのとは別に、実証として具体のおきたできごとを見ることがいる。そうしないと実証にもとづかないことになってしまう。

 実証に十分にもとづかないで、抽象の語を当てはめると、大事なところを捨象して、まちがって象徴してしまいかねない。具体のおきたできごとと抽象がずれていないかを確かめて、ずれていたらそのままにするのではなく、修正(補正)するようにするのがのぞましい。

 言論というのは形式であり、その中にはさまざまな内容のものがある。言論弾圧という語もまた形式である。この形式のところを改めて見ることができる。この形式は抽象によっているので、具体のできごとはどうなのかを確かめてみるのは有用だ。そうすることで、形式の用い方(用語の選択)が適したものなのかを改めて見ることにつながるし、敷えん(パラフレーズ)することにもつなげられるので役に立つ。

軽いもの(流行)と重いもの(不易)の雑種性(ハイブリッド)

 軽いものと重いものがある。軟派と硬派がある。この二つのうちでどちらがより重要なのだろうか。

 軽いものには値うちはない。重いものにこそ値うちがある。軟派なものはにせものであり、硬派なものが本物だ。こう見られるのがある。

 軽いものや軟派なものは軽薄であるとして、これを流行のものだとできる。これにはまったく何の値うちもないのだとは必ずしも言うことはできそうにない。

 重いものや硬派なものは不易だとすると、これだけが重要なのではなくて、軽いものである流行もまたあったほうがのぞましい。

 不易(重)と流行(軽)のどちらか一方だけではなくて、両方があるのがモダニズムであり、モダニティであるのだという。軽いのだとしても、ただそうであるばかりではなく、重いものも合わせ持っていることがあるから、単眼ではなくて、複眼になるように見て行くことができればよい。

日本のほうが韓国よりも民主国家として一日の長があり成熟しているのだとは見なしづらい

 韓国がきちんとした民主国家になるまでは、まともに相手にしてはならない。きちんとした国になることはとうていのぞみづらい。テレビ番組にたずさわる人はそう言っている。この意見には個人としてはうなずくことができそうにない。

 日本と比べて、韓国は民主国家になってまだ日が浅い。日本に比べて韓国は民主国家として未熟である。日本には一日の長がある。はたしてそう言えるものなのだろうか。

 韓国はまだ民主国家になってわりあいに日が浅いからこそ、むしろ民主的だという見かたも成り立つ。そう見なせないことはない。というのも、権力の循環がおきるからだ。両極性がある。

 民主主義というのは、それが成り立った時点から形骸化がはじまる。国民がしっかりとした民主主義にたいする意識をもっていなければ、どんどんと形骸化は進む。それで専制主義や独裁主義になって行く。横すべりする。いまの首相による日本の政権はまさにそうだと見られる。

 韓国に比べて、日本は民主国家に早くからなったと言っても、そうだからといって日本が成熟しているとは言いがたい。むしろいまの時点における日本の政治のあり方は腐敗しているのではないだろうか。

 日本よりも韓国のほうが儒教の色合いが濃いが、儒教の中には民主主義のあり方が含まれているという。民を生かすというものだ。民を以って尊しとなすと孟子は言っているという。これをくみ入れると、韓国はそうとうに古くから民主主義のあり方の下地があったということができなくはない。

 日本がさもえらそうに上から目線で韓国のことを見て、韓国のことを下に見るのは個人としてはどうも納得することができない。対等ですらなく、視点のとり方によっては日本のほうが下なのではないだろうか。

政府や役人の思わくでは、国民のあいだの不公平や社会の中の不正が改められることは見こみづらい

 年金の支給の時期を遅らせる。そうすることで受けとれる年金の額が増える。年金の額が増えるということで、支給の時期を遅らせる方向に国民をもって行く。

 年金を支給する時期を七〇歳くらいまで遅らせると、これだけの多くの額がもらえるようになる。七〇歳くらいまで現役で働くことができるようにして行く。いまの首相による政権はそうしたことを打ち出しているという。

 年金のあり方そのものが不可解なのがある。国がつぶれるのではないかぎり年金は大丈夫だということだが、政権や役人のひどいていたらくをくみ入れると心配だ。これまでの(今のもそうだが)政治の失敗によって、それまでは積立方式だったのが、いつのまにか途中から賦課(ふか)方式に移ったのだという。社会保険料の負担の重荷が若い世代にとくに(そのほかの世代にも)多くのしかかってしまっている。

 七〇歳くらいの高齢になっても働きつづけられるようにして行くのであれば、労働のあり方を抜本的に見直さないとならないのではないか。

 いちばん深刻なのは、労働の法律がきちんと守られていないことで、人間としてのまっとうな働き方を労働者ができていないのがある。これができていないのがあるのは無視することができそうにない。高齢になるまで、長きにわたって働きつづけることは難しいことになるからである。

 すべての世代にわたって、すべての労働者が人間としてのまっとうな働き方ができるようにして行ければよい。それを十分に保証することによって、安心して高齢になるまで長きにわたって労働者が働きつづけることができるようになる。いまのあり方では、恵まれた一部の人を除いて、ほとんどまったくと言ってよいほどのぞめないものだろう。

 労働に価値を置きすぎないようにすることと、労働時間の短縮と、労働の分け合いは、個人としてはぜひとも行なわれてほしいものだ。

 労働者の権利が十分にとられることがいるのは、もともと不利な立ち場に置かれやすいのを穴埋めするためだという。不利な立ち場に置かれやすいのを是正して、権利が十分にとれるようにして行く。

 権利がとれるようにする決まりを守るというのは、その大もとにある憲法で決められたことを守り、現実のものにして行くことをあらわす。いまの首相による政権のあり方は、ひどくそれがないがしろになっていて、損なわれてしまっている。社会もまたそうなっている。

自分が人間であるという前提条件をとらないようにしてみる(じっさいに社会の中では許されるものではないが)

 自分は人間ではなく、猫である。こういうふうにとらえるとちょっと楽になるのがある。人間ならこうであるべきだとか、日本人であるのならこうであるべきだというのがあるが、猫であるのならそれが当てはまらなくてもあるていどはしかたがない。

 実存主義では、実存は本質に先立つと言われる。本質主義では、本質は存在に先立つとなる。この本質には、国家や民族などが当てはめられる。本質ではなく実存が先立つとするのが実存主義によるものだ。

 形式(外見)は人間だとしても、実質(内面)は猫なのだとすると、人間と言うべきか、それとも猫と言うべきか。実質は猫だといっても、勝手に自分で自分をそう見なすのを試しているだけのものだから、本当にそうだというのではないが。

 とくに猫である必要はないものである。動物性(アニマリテ)を持ち出してみることによるものだ。人間の不自然さや非人間さがあり、動物性の自然さや人間さがある。動物性の人間さというのは、動物性であることによってかえって人間が過ごしやすくなるということだ。

 人間は自分たちが平和であるために戦争をすることがあるが、動物は人間のように兵器の武力による殺りくやせん滅や戦争をしない。人間が動物化すると戦争に行きつくのではなく、人間が人間化すると戦争に向かう。平和ということでは、猫の生活が第一というのがあるように、動物性は捨て置くことができないものだ。

議員の定数を増やしたほうがよいという説も言われている

 これまで政権をにぎってきて、議員定数を一議席でも削減してきたのか。野田佳彦元首相は、首相にたいしてそう迫った。首相はそれをかわし、旧民主党の時代に一議席でも削減したのか、と切り返した。

 国会の議員定数を削減するのは、まったくと言ってよいほどできておらず、参議院の議員の定数は増えているくらいだと野田元首相は指摘していた。

 国会の議員定数については、それを削減することがよいのだという前提条件のほかに、むしろ増やしたほうがよいのだという見かたもとれる。増やしたほうが国民の声を国会にうまく反映しやすくなる。

 数を減らすか増やすかとは別に、国民の声がきちんと政治に反映されていない問題があげられる。国民の声と権力をになう政治家とのあいだに大きなずれがある。大きなずれがあるのを何とかするために、できるだけ国民の声を正しくすくいとれるような選挙の制度に改めることがあるとよい。それが行なわれないのであれば、国民にたいして有効なことを行なってくれる政治をのぞめそうにない。どんどんと悪い方向へ進んでいってしまうことが危ぶまれる。

自己責任論と共有地の悲劇

 ある人が集団の中でかたよった形で大きな負担を負う。それでその人は苦しむ。これは共有地の悲劇がおこっていることをあらわす。

 この人が集団の中でかたよった形で大きな負担を負って苦しんでいるのは、はたして自己責任であると言えるのだろうか。

 ある集団の中にいる人がとれる行動として三つをあげられる。忠誠(我慢)と退出と発言(抗議)である。忠誠はその集団のあり方に自分を合わせてみるものだ。適合させてみる。退出はその集団の外に出て行く。発言は集団の中で集団のあり方に抗議することをさす。批判をする。

 小さいのや中くらいの集団であれば、その中のある人が共有地の悲劇におちいっているとして、そこから外に退出することはわりあいにできやすい。しかし、学習性無気力におちいっているとそれができづらい。それで外に退出しないのはその人の自己責任であると見なすのは適したことだとは言えないのがある。その集団の統治のあり方がおかしいと見られる。

 小さいのや中くらいのではなく、大きい集団であれば、その外に退出するのはよけいにできづらい。外に退出しないことを自己責任だと言うことはできないものである。大きい集団の中である人に共有地の悲劇がおきているのであれば、それはよい集団とは言えそうにない。改められるのがのぞましい。

 大きい集団の中で、ある特定の地域に共有地の悲劇がおきているとすれば、それは改められることがいる。放っておいたままにするのは駄目なことだろう。放っておいたままにして、ある特定の地域にたいして、自己責任論を言うのはふさわしいことだとは言えそうにない。負担の必要性がねつ造されているとすれば、それは不要なことなのだから、できるだけ負担を無くす方向で改められることが求められる。

日本政府や外務相が言っていることは、日本にとって都合のよいことではあるが、まだ決定的な結論とまでは言いがたく、仮説の段階にとどまっているのではないだろうか

 韓国は日本にたいして、お互いに知恵を出そうと話しているという。しかし日本としては、一〇〇パーセント韓国の責任において考えることだと外務相はしている。

 徴用工の戦後補償において、お互いに知恵を出そうと韓国は日本に呼びかけているという。それなのに、まったくそのことに耳を貸さないのは、外務相の職務の放棄ではないか。外と対等に交わることを止めてしまっている。

 〇パーセントか一〇〇パーセントかとすると二分法になるが、そうではなくて連続的に見なすあり方が成り立つ。連続的に見なすようにすれば、韓国だけではなくて日本にも責任があることになる。

 大きな論点としては、日本が過去に朝鮮にたいして行なった悪いことがある。朝鮮を植民地として支配して、同化政策を行ない、日本のやり方を一方的に朝鮮に押しつけた。それで戦争に巻きこんだのがある。総論としては、日本の国がかつてやったことにたいする非や責任はまぬがれない。

 韓国に一〇〇パーセントの責任があり、完全に黒だ(悪い)とするのは、判断として正しいものだろうか。必ずしもそう言うことはできないものだろう。人間の合理による判断には誤りはつきものだ。

 かりに韓国が一〇〇パーセントまちがっているのであれば、もめごとはおこるものではなく、誰が見ても納得できることになる。しかしそうはなっていないのが現実だとすると、相手が一〇〇パーセント悪くて、一〇〇パーセント責任を負っているとするのではないようにしたい。

 お互いに知恵を出し合おうと韓国は日本に呼びかけているのだから、やりとりを行なうようにして、お互いの主張を調整し合うようにするべきだ。

 日本が主張することは一〇〇パーセント正しいとは言えるものではない。主体としての日本は完ぺきに正しく、客体としての相手は完ぺきにまちがっているとするのではなく、間主観的にやって行くほうが、外と対等に交わることになる。

上下関係がとられていると、民主的で有益な話し合いはできづらい

 民主的で有益な話し合いが、国会において行なわれていない。これは民主主義が形骸化していることをあらわす。

 民主主義とは何か。それは下剋上である。評論家の小林秀雄氏はそう言っているという。上は上であり下は下であるとはならないようにすることがいるものだろう。

 上は正しく、下はまちがっているとすると、優劣関係になってしまう。そうではなくて、上と下との差をつけない並列関係にするのがのぞましい。

 いまの国会では、民主的で有益な話し合いが行なわれていないが、これは上と下に差がついてしまっていることによっている。優劣関係による差別的な秩序がとられているのだ。

 上が大きな力を持ちすぎるのはいけないことだし、その逆に下が大きな力を持ちすぎるのも必ずしもよいことではない。

 民主主義においては、自由と平等があることがいるが、これがひどくないがしろになっているのは無視することができないものだ。党の中で、党がよしとする画一のあり方にそむく者に冷や飯を食べさせるのは、自由や平等がいちじるしく損なわれている。これを平気で行なっているのがいまの与党である自由民主党にほかならない。

 党の中で、自由と平等が損なわれているのを改めたらどうだろうか。権威主義にはならないようにする。大きな党と小さな党のあいだにも、あつかいになるべく差がつかないようにする。

 国会において、民主的で有益な話し合いが行なわれていないのは、大したことではないとは言えそうにない。軽んじることはできそうにない。

 アメリカの市民は、大統領に向かって、こうした声を投げかけているという。Words have meaning.(言葉の力を軽視するな)。これはそのままいまの日本の首相や与党にも当てはまることだろう。

 アメリカの市民が大統領に向かって投げかけた声は、そのままいまの日本の首相や与党にも当てはまる。共通性があることになる。この市民からの声が当てはまるわけは、政治において市場原理主義がとられていることによる。市場原理主義によって、売れれば勝ち、選ばれれば勝ち、となっている。お金を多く稼げば勝ちで、そうでなければ負けだ。

 売れれば勝ちとか選ばれれば勝ちという市場のあり方は表のものだが、その裏には不正や抑圧や腐敗や搾取が横行する。裏には汚いことや悪いことがおきている。その負のところに照明を当てることは必要だ。

 市場のあり方は優劣関係になるものだが、これは数の大小などをもとに、優と劣に差をつけるものだ。そうではなくて並列関係にすることが、民主主義をとることにつながる。優と劣を固定させるのではなく、流動させたりひっくり返したりするとよい。優と劣は強と弱だが、これは強い者にすがる権威主義のあり方だ。それとはちがい、みんなともに弱いというのが民主主義ののぞましい形だろう。

国会の中で民主的で有益な話のやりとりが行なわれているとは見なしづらい

 民主主義の基本はわが国の古来の伝統である。聖徳太子のころよりのものだ。敗戦後に連合国から教えられたものではない。自由民主党の議員はそう言っている。

 いまの日本の政治は、民主主義というよりも独裁制専制主義に近いのではないか。権威主義になっている。そう感じられてならない。

 民主主義はどこでおきたかといえば、古代ギリシャ都市国家(ポリス)ではないだろうか。そこで直接民主主義が行なわれたという。古代のギリシャでは言葉にたいする信頼がとられた。そこから色々な文化や学問が花開いたという。

 自民党の議員は、民主主義の基本はわが国の古来の伝統だという。伝統というのはしばしばねつ造されるものだ。たいていは伝統というのはわりと最近になってつくられたものであることが少なくない。民主主義は、日本が近代になって西洋から輸入したものであるのはたしかだろう。

 民主主義と言うからには、民(の生活)を大事にしないとならない。権力をになう政治家は言葉によって嘘をつかないようにしないとならない。それができているのかといえば、ほとんどできていないのだと見うけられる。少なからぬ民の生活は不安定なのがあり、それが自己責任として片づけられてしまっている。権力をになう政治家は嘘を平気でついている。

 国家の公を重んじて、民の個人の私をないがしろにしてしまうようでは、民主主義とは名ばかりということになる。形だけのものだ。

 首相をはじめとする与党の政治家は、大衆迎合(ポピュリズム)に走ってしまっている。大衆に迎合することで表面においては安定しているようだが、その裏の潜在としてはひどく不安定になっている。

 多数派と少数派が流動に入れ替わるようであればよいが、そうではなく固定してしまい、入れ替わりがおきづらい。多数派と少数派が流動で入れ替わらないと、安定することにはなるが、停滞することにもなる。腐敗がおきやすい。

 小きざみに小出しで不安定さを吐き出すのがのぞましいが、それが行なわれないと、民主主義がうまく働いていないことになる。ちょくちょく不安定さが外に吐き出されれば、あとで大きな不安定をまねかないですむ。しかしいまの日本の与党による政治では、民主主義が実質として失われていて、不安定さがこまめに外に吐き出されていない。あとで大きな安定の崩壊がおきるのが危ぶまれる。

 たとえ認めたくないことであっても、みんなに関わる政治のことがらにおいてはとくに、事実は事実としてそれを認めるのであればよい。そうではないのがいまの与党には見うけられる。民主主義は日本に古くからあった伝統だなどということを与党の議員は言っているが、これをどう信用しろというのだろうか。

 与党の政治家が事実を重んじるのではなく嘘をついてしまうのは、日本はよい国だという叙情主義(センチメンタリズム)に流れてしまっているせいだろう。日本はよい国だという叙情主義によって、でたらめがまかり通ることになる。与党の政治家にはこれをつつしんでもらいたい。叙情主義をとらないようにして、国内の一部の人にしか通じない嘘やねつ造を言うはやめてもらいたいものだ。