表現の中身において、規則や規範が関わってくるのがある

 表現の自由は、制限されなければされないほどよい。制限されるのはよくないことだ。はたしてそういうことが言えるのだろうか。

 表現の自由は制限されなければされないほどよく、全面的に自由であるほうがよい。これは表現の自由における自由の価値を最高のものだと見なすものだろう。もっとも重要な価値の一つではあるにせよ、自由を唯一にして最高の価値と見なすことができるとは見なしづらいところがある。

 一神教のように最高価値をとることはできず、価値の多神教になるのがある。自由の価値よりも、ほかのものがより高い価値をもつことがおきてくる。ほかのものをより高いものとしたほうが、現実にそぐうようになることがあるから、そうしたときには、ほかのものをより高いものとしたほうがふさわしい。

 人間は社会的動物であり、社会の中にいる。社会の中では、人どうしの関係がとられている。ある人が自由を用いて、自由に表現をしたとする。そのことによって、ほかの人に負の影響がときにおよぶ。つねにそうしたことがおきるわけではないだろうけど、そうしたことがおきることがある。

 ある人が自由を用いることによって、関係性があるほかの人に向けて、よかれ悪しかれ波及の効果がはたらく。ほかの人に負の影響(迷惑など)やしわ寄せのようなものがかかることがあるのは無視できそうにない。

 表現の自由によって、宗教の神の風刺画を描く。この神を信仰しているほかの人がそれを見たら、いちじるしく気分を害するようになる。気分を害してしまうのは、その神を信仰している人にとっては、その神にたいする聖の価値が高いものであることをあらわす。神を風刺する自由よりも、聖の価値のほうが高いあり方が、その人においてはとられている。

 テレビ番組では、表現の自由ということで、どんな内容の番組であっても放映してよいものだろうか。これは人によってとらえ方がさまざまにあるものであり、色々な意見や見かたがとれるものではあるだろう。色々に見られるのはたしかだが、表現の自由ということで、どんな内容の番組であっても放映してよいということになったら、社会が悪くなってしまうことがおきてくるのが危ぶまれる。子どもにたいする教育において、子どもに悪い影響がおよびかねない。

 子どもの教育については、それぞれの家庭の中で、子どもによくないものだと親が判断したら、子どもにテレビ番組を見せなければよいというのはある。すべての親がそうするとは限らないから、テレビ番組を見る子どもはいるとすると、すべての子どもに悪い影響がおよばないとは言えそうにない。

 すべての子どもがそろって悪い影響を受けるのではないかもしれない。子どもにたいする悪い影響を防ぐのだとしても、父権主義(パターナリズム)になるのは避けられないのがある。父権主義では、子どもの意向よりも、親の意向が優先されることになる。父権主義をとらず、子どもの意向を全面的に認めるべきかはわからない。子どもはテレビ番組などにたやすく影響を受けがちなのはありそうだ。大人であってもそうしたところはある。悪いものを模倣(真似)してしまう危なさである。

 いたずらに表現の自由を制限(規制)することはのぞましいことではない。よい表現か悪い表現かというのは、決めるのが難しいのがある。かりに悪い表現だったとしても、色々な表現が行なわれる中で、批判されることなどを含めて、よいものが生き残り、悪いものはすたれて行く。うまく行けばそうなるだろう。

 表現の自由は、どんな表現かという中身を保証するものとは言えそうにない。その中身については、よい表現か悪い表現かというのを客観では決めづらいのがある。よいか悪いかはともかくとして、表現であるということは言えるものである。

 表現の中身について、人に向かってとやかく言える分際ではないのはまちがいがない。それはたしかだが、表現の自由というのは、もっとも重要なものの一つではあるにせよ、さまざまな大事なものの中の一つであるのがある。表現の自由さえあれば、ものごとがすべて何の問題もなくうまく行くものではない。

 悪貨は良貨を駆逐してしまうことは現実におきてくる。やっかいなものだ。そこについては、何が悪貨で何が良貨かは決めがたいのがあるのはたしかだ。この決めがたさは、あるものの価値が高いか低いかを決めるのは受け手の主観によるのが大きいのがある。

大阪市は、サンフランシスコ市に建てられた従軍慰安婦の像について、たんに像を否定するだけではなく、メタ認知をすることがあればよい

 大阪市アメリカのサンフランシスコ市との姉妹都市の関係が、大阪市によってとり消された。サンフランシスコ市に従軍慰安婦の像が建てられたことを大阪市はよしとはせず、姉妹都市の関係をとり消すことにふみ切った。

 姉妹都市の関係は解消されてしまったが、大阪市によるこの意思決定は正しかったものだとは個人としては見なしづらい。この意思決定を大阪市がすることによって、何かものごとが具体的に解決したとは言えないだろう。一九五七年からつづくという姉妹都市の関係を保ちながら、問題の解決を時間をかけて探って行くことはできたはずだ。

 大阪市の文脈と、サンフランシスコ市の文脈とがぶつかり合う。それによって紛争がおきる。それで姉妹都市の関係がとり消されることになった。たとえ姉妹都市の関係を大阪市がとり消したとしても、それによって紛争が根本から解決したということにはならない。解決に役に立つ手段だったということはできづらいものである。

 サンフランシスコ市に従軍慰安婦の像が立てられたことで、大阪市長は、信頼関係が崩れたということを言っている。信頼関係が損なわれたところはたしかにあるのだろう。それが損なわれたのは、文脈どうしがぶつかり合うことになったのをあらわす。そうなったとしても、溜(た)めをもつことができればよい。

 溜めをもつのは現実には難しいことは少なくない。信頼関係が損なわれたさいに、そこですぐに切れてしまわずに、いったんカッコに入れられれば溜めをもてる。たがいの文脈をすり合わせるようにする。

 文脈どうしがぶつかり合っているとしても、その全体はとりあえず置いておくとして、部分としては折り合えることがある。部分における論点については相互に了解をもてることはある。部分の論点としては、個人の人権や、(単一ではなく)複数の歴史の文脈を尊重することなどがある。

 全体は置いておくとして、部分として折り合うようにするためには、象徴にしてしまわないようにすることがいる。象徴にしてしまうと、従軍慰安婦の像について、日本から見たら歴史としてまちがっているとなり、そのすべてを丸ごと否定してしまう。丸ごと否定するのではなく、部分としては認められるところがあるのであれば、そこについては認めるようにすることができる。

 従軍慰安婦の像が建てられた理念の一つである、女性の被害の防止や権利の向上や戦争の悲惨さの記録などについてはよしとすることができるものだろう。その論点については、大阪市とサンフランシスコ市のあいだに合意がとれるのがあり、そこから信頼関係をとって行くことはできる。

 歴史の論点については、大阪市長は歴史の真実ということを持ち出している。サンフランシスコ市が従軍慰安婦の像を立てたことは、(日本から見た)歴史をねじ曲げているものだという。歴史の真実のために、日本が国として立ち上がってくれるのであれば、サンフランシスコ市とやり合う意思があることを示している。

 歴史の論点として、歴史の真実というのを持ち出すのであれば、大阪市長が言うように、日本にとって有益になるものを前提条件(大前提)にするのはおかしい。歴史の真実を持ち出すのであれば、日本にとって甘いものではなく苦いものであるのをこばまないというのでないと、日本にとって都合がよいものである。

 たとえ日本にとって都合が悪く(甘くはなく)苦いものであったとしても、それが歴史の真実であれば受け入れるというのでないとならないものだろう。日本にとって都合がよくて甘いものしか受け入れるつもりがないのであれば、歴史の真実というのを持ち出すのはやめたほうがよい。閉じた物語にならざるをえない。閉じた物語である内向きの自己了解にとどまるのではなく、開かれたあり方による相互の了解ができるようになればよい。

すべての権利ということはできないかもしれないが、中にはかなり重要なものも含まれているのだから、それは慎重に聞き入れられないとならない(現実には軽んじられてしまっている)

 権利を声高に叫ぶ。それをよくないことだと文部科学相はしているようだ。権利ばかりを声高に叫ぶのはのぞましいことだとは見なせないということだろう。この見なし方には個人としてはうなずくことができそうにない。

 声高に叫ぶというところは置いておくとして、権利を言うのと言わないのとを対比することができる。この二つを場合分けしてみると、権利を言ってよくなるのと悪くなるのがあげられる。権利を言わないでよくなるのと悪くなるのがあげられる。

 権利を言わないでいてものごとがよくなって行くのかといえば、そうとは言えそうにない。権利を言わないで黙っているのは、あり方に賛成しているものと見なされてしまうのがあるので、それによってものごとがどんどん悪い方に進んで行くことがある。

 権利を言うことによって、必ずものごとがよい方に進んで行くとは言えそうにない。しかし、言わなければよくならないというのがあるから、あり方を改めるために、権利を言うことがいることは少なくない。言ってよくなる見こみはあるだろう。

 ものごとをよくして行くという目的があるとすると、その手段として、権利を(声高に)言うことは有効なものである。いっぽうで、権利を言わないという手段は有効かというと、そうとは言えそうにない。言わないで黙っていれば、あり方に賛成していると見なされてしまい、そのままでよいのだとか、あり方を悪い方に強めることの背中を押してしまいかねない。

 権利を言う人よりも、言わない人のほうが多い。そんな中で、権利を言う人は目立つのはある。多くの人が権利を言おうとしないのがあるとしても、そのあり方がよいとは必ずしも言うことはできない。多くの人がとっているあり方が正しいとは限らないのがある。

 権利を言う人がいてもよいし、言わない人がいてもよい。権利を声高に叫ぶなどして言うことは、義務なわけではない。言わなければならないものではないので、言ってもよいし言わなくてもよいものである。個人の自己決定に任されている。

 権利を声高に叫んでいる人がいるとして、その結果にたいする原因を、その叫んでいる人に当てはめるのがふさわしいとは必ずしも言えるものではない。原因はその叫んでいる人にあるのではなく、その人をとり巻く外の状況にあるという見かたが成り立つ。外の状況が原因になり、その悪い原因がそのままになっているので、権利をうったえることになる。

 声高に叫ぶ人をとり巻く外の状況に原因があるのは、他による義務が果たされていないことによるのがある。権利と義務は対応していることがあるので、他による義務が果たされていないことにより、その人が権利を言うことになるとするとらえ方が成り立つ。親が子どもを養う義務を果たしていないとすると、子どもの権利が損なわれてしまう。子どもの権利が損なわれるのは、親が義務を果たしていないことが原因となっている。権利と義務が連関していることになる。この例では、親に特殊な事情があることは現実にはあるかもしれない。

キャラクターの表現の自由と、キャラクターについての(感想を言う)表現の自由

 ノーベル賞を解説する NHK のサイトに、女性のキャラクターが使われている。このキャラクターは性的な身体性を強調して描かれているととらえられるので、識者から疑問が投げかけられている。

 疑問を投げかけている識者は、表現の自由という文脈において、NHK のサイトにある女性のキャラクターの負の面をとり上げている。表現の自由の文脈において、この女性のキャラクターはどうなのかということだ。

 この識者による疑問の投げかけは、一つの意見として悪くないものではないかと個人としてはとらえられる。NHK のサイトにある女性のキャラクターに負の面があるという識者による疑問の投げかけは、それ自体が一つの表現(言論)ということができる。表現の自由の中で、この識者が感じたこと(思ったこと)をあらわしているものだ。

 女性のキャラクターについてを見てみると、外示(デノテーション)と共示(コノテーション)があるとすることができる。外示では、魅力的に描かれている女性のキャラクターだとできるが、共示では、それが暗に意味しているものがあるとできる。間接的に、魅力のある女性とはこういうものである、という意図や思想のようなものをあらわしていると受けとれる。そこに問題があるということは見かたによっては言えるだろう。

 女性のキャラクターの描かれ方が、どういうものであればふさわしいのかというのは、難しいものがあるかもしれない。どういう描かれ方であればふさわしいのかは、どういうものであるべきかによる。どういうものであるべきかの規範は、一方的な押しつけになると反発がおきることになる。相互に了解ができればよい。

 興味のない人に、少しでも興味をもってもらう、という目的があるとして、その手段として、魅力的な女性のキャラクターを必ずしも用いることがいるのかどうか。誰に(誰を対象にして)興味をもってもらおうとしているのか。不快感や嫌悪感を示す人がおきてくることにたいする配慮はあるのか。不快感や不満感をもつのは人それぞれの好みによってくるものではあるが、そうした人がおきない手段があるのであれば、なるべくそれを用いるのも手だろう。

文科相の言う Justice を、権力者とそのとり巻きに当てはめてもらいたいものだ(現実には不正義になってしまっている)

 現行憲法を信奉する人がいる。その人は、犯人とえん罪の被害者についてこう見なす。百人の真犯人を逃しても、一人のえん罪被害者を生み出してはならないとする。しかし私は、一人のえん罪被害者も出してはならないし、一人の真犯人も逃がしてはならないと考える。それが Justice だ。文部科学相ツイッターのツイートでそう言っていた。

 決めぜりふのように、それが Justice だ、と文科相は言っているが、あくまでもそれは理想論ということだと受けとれる。現実論として、真犯人を逃さないことと、えん罪の被害者が生まれないようにすることとの、どちらをもとれず、どちらかしかとれないことがある。時間や能力などの制約があることによる。どちらかしかとれないことにたいする答えにはなっていない。

 それにたいする答えとして、現行憲法を信奉する人と文科相が言っているあり方がとれる。百人の真犯人を逃すというのはやや言いすぎだが、真犯人を逃さないようにするのと、えん罪の被害者を生まないようにするのとの、どちらをとるのかということになれば、えん罪の被害者を生まないようにすることを第一にとることが正義(Justice)になる。真犯人を逃さないようにすることも正義ではあるだろうが。

 現行憲法を信奉する人と文科相が言っているあり方は、無罪推定の原則によるものであり、これによってえん罪の被害者を生まないようにするのは、現実においてふさわしいものだろう。一般人についてはそうだが、権力者については話がまたちがってくるのがある。

 いまの与党である自由民主党では、権力者の疑惑について、身内に甘いあり方がとられてしまっている。権力者の疑惑について、権力者やそのとり巻きが真犯人(張本人)であるのを見のがしてしまっているとすると、それは文科相の言う Justice に当たるものではなく、逆の不正義になる。上に甘く、下に厳しいというおかしさだ。身内に甘くするのではなく、厳しくするようにして、権力者やそのとり巻きが追及から逃れるのをさせないようにして、権力にたいするチェックを十分にやってもらいたいものである。

教育勅語に普遍性があるとは言いがたい

 教育勅語の中には普遍性がある。普遍性をもつ部分がある。文部科学相はそう言っている。これには素直にうなずくことはできそうにない。普遍というよりも特殊なものだろう。

 普遍性があるのであれば、教育勅語で説かれていることが、世界に広く採用されていないとならない。世界で広く採用されているのかというと、そういう話は聞いたことがないから、そうはなっていないものだと言うしかない。

 普遍性があるとすることができるためには、普遍化の可能性を達することができないとならないのがある。一つの格律(マキシム)があり、それがまったく一人の例外もなくすべての人に当てはまるのであれば、普遍な道徳の法則ということになる。例外があるのであれば、普遍だとはできないことになる。

 教育勅語の中には普遍性があるという文科相の言うことは、それが一つの物語になっているものだろう。神話であり、文科相によってとられている先入見を含んだ遠近法(解釈)にすぎない。物語としてある一つの地域には採用されるかもしれないが、広く世界にまでおよぶものだとはできづらい。

 普遍性をもつとは言いがたく、特殊なものというのがある。手段として教育勅語を持ち出すことがいるのかというと、その必要性はきわめて低いものだろう。不要だということもできる。手段として受け入れられるものだとは見なしづらい。

 手段としては、さまざまにある複数の物語に多く触れるようにして、一つだけを絶対化しないようにできればよい。単数の一つの大きな物語だけを絶対化してしまうと閉じたあり方になるが、それを避けるようにして、開かれているようにできれば、一つのことをまちがって最高価値としないですむ。

巨悪ではないものを巨悪だとしてしまうのはまずい

 性の少数派は生産性がないと言った自由民主党の議員は、巨悪への追求に挑みつづけている。この議員は、さまざまな巨悪にたいして戦いを挑んでいるというのだ。この見かたにたいしてはうなずくことができそうにない。まったく逆であり、巨悪にすり寄ってしまっている。

 せっかく与党に属しているのにも関わらず、与党のど真ん中に巨悪がいることを見のがすのはのぞましいことではない。与党のど真ん中にいる巨悪は、いちばん追求されるべきものだろう。そこに挑まないようでは、巨悪を追求するうえで一番やらなければならないことをやらないでいることになる。

 いまの与党の政権が巨悪だというのは、あくまでも個人による見かたにすぎず、もっとほかのちがった見かたがさまざまにできるものではあるだろう。ほかのちがった見かたができる中で、自民党の議員は、与党のど真ん中にいる権力者たちや、日本という国を、善として見ていることから、その善にそぐわないものを悪としているのにちがいない。

 巨悪というふうに言うのは差し控えたほうがよいかもしれない。この巨悪ということに含まれる難しさは、巨悪は巨善に転じることがあるのがあげられる。巨善は巨悪に転じることもある。巨善は純粋な正義ということだが、正義によってつっ走ることで悪に転落することは少なくない。

 巨悪というふうに言うのは誇張を含むために危ないところがあるので、なるべく用いないようにして差し控えるようにしたい。それを差し控えるさいに、相対的な善というふうにとどめるようにすると危なさを避けやすくなる。自民党の議員は、自分がよしとすることを、絶対的な善とするのではなく、相対的な善としたほうがよいのだと言いたい。そうすることによって、巨善である純粋な正義によってつっ走り、悪に転落してしまうことを少しは防ぎやすくなる。

 巨善は超越的なものだと言えるのがあり、そのいっぽうで、相対的な善であれば世俗的なものにとどまる。国家の善という(まちがった)超越の巨善を持ち出さないようにして、相対的な善によるようにして、さまざまな善の構想が人によって抱かれるのを許す。人によってさまざまな相対的な善があるのをよしとすることができたほうが、現実に根ざしたものになる。現実に根ざすのではなく、超越の巨善を持ち出してしまうと、教条(ドグマ)による前近代的な反動の動きによることになる。

許容しがたい悪さと、そこから浮かび上がってくるよさ(許容しがたい悪さのもつ効用)

 何がよいものなのか。それを知るためには、ひどく悪いものを知るようにする。これはひどく悪いなというのを知ると、何がよいものなのかを知るための一つの手がかりになる。

 政治において、これはいくら何でもひどいなという悪いものが、現実におきてしまっているのではないか。そのさいのよいか悪いかについては、人によって受けとり方がちがうものだから、それぞれでちがっていてかまわないものではある。あくまでも個人としての受けとめ方に限定されるのはあるが、そうとうに悪いことがいまの国の政治において行なわれてしまっているのがあると見られる。

 暫定の結論にすぎないものではあるとして、いまの国の政治がそうとうに悪いのだとすると、その悪さというのは、じっさいに害があるのをわきに置いておけるとすると、よさを知るための役に立つ。うまく行けばよさへの気づき(覚醒)をうながす。たんに、いまの首相の替えとなるようなめぼしい人が見あたらないという話とはまた別のことである。

 いまの国の政治が悪いといっても、具体で見て行かないとならないのはあるし、全部が全部だということではない。悪いところがあり、それがあまりにも目にあまるものだというのはある。とても信頼できるものではない。そこについてを過大化することはできるが、そうではなく過小化する人も中にはいるだろう。それは受けとり方の自由である。程度の問題のところはある。その程度がかなりひどいものだと個人としては見なしたい。

 独立してよさをよさとして認めるよりも、悪いものと対比するとよさを認めることができやすい。いまの時代のよさがあるとして、そのよさを独立としては認めづらいことがある。そのさいに、悪いものと対比するといまの時代のよさを認めやすくなる。悪い時代として、戦争のときがある。反対のものがあることで輪郭がはっきりとしやすい。

 よさと悪さを対比することによって、いまの時代によさがあると認められるにしても、だからといっていまの時代に悪いところがないということにはならない。とくに、いまの国の政治は悪くなってしまっていると見なしたいのがある。その点については、ありがたやとはしたくはないものである。時の権力からの呼びかけにすなおに応じてしまい、現状に追随することによってゆでがえる現象がおきかねないからである。

 いまの国の政治には悪いところは少なくないから、それを見つけて行ければよい。さまざまな問題があり、それらが軽んじられていて、隠ぺいや抹消がされている。そうした隠ぺいや末梢がされているものは、秘匿されているものであり、じっさいに政権が言っていることと、表と裏の関係になっている。表だけではなく、裏も見て行ければよい。

TAG と FTA の記号

 TAG は FTA とはちがうものだ。政権はそう言っている。政権は FTA の語を使うのが嫌いなようで、それで TAG という語を持ち出したと一つには見られている。

 FTA は Free Trade Agreement(自由貿易協定)の略だという。TAG は Trade Agreement on Goods(物品貿易協定)の略だという。

 政権は TAG は FTA とはちがうと言うが、相手であるアメリカは FTA だと言っているという。言っていることがお互いに食いちがっている。FTA だと言うのを避けるために、政権は国内に配慮して、FTA であるのを TAG であると言い換えたという見かたがとられている。

 TAG と FTA はたんに言い換えただけのものであるとすると、記号表現(シニフィアン)は異なっているものの、語句として指し示している記号内容(シニフィエ)は重なり合うものだということだろう。記号表現はちがうが、意味するところの記号内容にさしたるちがいはないというわけだ。

いまの首相による政権がもっとも苦手としていることの一つが対話だろうから、政権の助太刀をする与党の議員が対話を重んじると言ってももうひとつ信ぴょう性がない

 沖縄県知事選では、玉城デニー氏が知事に当選した。落選した有力な候補者で、与党の自由民主党公明党が支持していた佐喜真淳(さきまあつし)氏は、国との対話をうったえていたようだ。

 佐喜真氏の応援にかけつけた自民党小泉進次郎議員も、対決から対話へといううったえを投げかけていたもようだ。

 国との対話や、対決から対話へということであるのなら、それが他国との対話や、他国との対立ではなく対話をする、というのでもあってよいはずだ。

 対話を重んじるというのであれば、沖縄県に多くある米軍基地は基本としていらないことになる。軍事ではなく対話でものごとを何とかして行くことができれば、軍事の基地はなくてもかまわない。それでもいるのだとするのは必要性のねつ造となる。

 対話をするのがよいとしておきながら、沖縄県にある基地の負担をとり除こうとせず、負担を押しつけたままにするのは、矛盾したふるまいだろう。