議会においてのど飴をなめることに、そこまで重大な問題があるとは言えそうにない

 のど飴をなめていた市議が懲罰を受けたという。その市議は、口にのど飴を含んで市の議会に登壇したそうで、他の市議から批判が投げかけられた。八時間ほど議会の進行が止められた。

 のど飴をなめていた市議は、謝罪をすることをこばんだために、懲罰の動議が発せられたという。問題となった市議を除いて全員が動議に賛成して可決されて、市議は議会から退席させられたそうである。そのごの議会への出席が禁じられているようだ。

 のど飴をなめていた市議は、のど飴をなめていたことについて、議会が行なわれる中で、せきを出して他の人に迷惑がかからないようにしたと言っている。これはもっともな理由である。ちなみになめていたのは龍角散のど飴だという。のど飴をなめていたことにたいする批判がおきたが、それにたいする弁明の機会を与えられなかったことが不服だとしている。

 この市の議場では、市議が飲食をすることについて、何か定めとなる規定はとくにないとのことだ。

 市議がのど飴をなめていたことは是か非かがある。それについて見るさいに、市議がのど飴をなめていたことに問題が有るかそれとも無いかというのがある。のど飴をなめていた市議は、問題が無かったとしているが、それに批判を投げかけた人は、問題が有ったとした。たとえのど飴をなめていたとしても、話し合いにとくに支障があるとは言えないから、問題は無いと見られるのではないか。

 のど飴をなめていた市議は、ただたんになめていたというのではなく、体調が思わしくない中でのどの調子が悪かったのだろう。のどの調子が悪くなるときはある。個人のそれぞれで、のどの調子が悪くなりづらい人もいればなりやすい人もいる。のどの調子が悪い人がのど飴をなめるのは、その必要性があるので、許容できるものだと一つには見なせる。

 のど飴をなめることによって、他者に物理的な危害が加わるわけではないから、やってはいけない最低限の義務に反しているとは言えそうにない。ある人がのど飴をなめることによって、他の人に加害が加わるものだとは言えそうにない。

 のど飴をなめることが必要な人は、じっさいになめて批判が投げかけられた市議のほかにも、少なからぬ人がいるとおしはかれる。じっさいになめて批判が投げかけられた市議だけが、のど飴を必要とするわけではないだろう。そうすると、のど飴をなめることを認めるのは特権とは言えそうになく、権利に当たりそうである。みんなの効用が高くなることが見こめる。人によっては、のど飴をなめていたり口に含んでいたりするのはけしからんということで、その人の効用が損なわれるのはあるかもしれない。

 のど飴をなめて批判を投げかけられた市議は、罰として、議会への出席が禁じられてしまっているという。のど飴をなめていたくらいでこれほど重い罰を受けるのはつり合いがとれていない。不当な懲らしめになってしまっている。

 もしのど飴をなめていたのが駄目なのであれば、議会が開かれている途中ではなく、終わったあとで注意すればよかった。議会の途中でやりとりの流れを止めてまでもとり沙汰するほどのことではない。もし駄目だというのであれば、議会が終わったあとに注意をして、次からやめるようにとするのでもかまわないものだろう。

 のど飴をなめていた市議にたいして、それを批判した他の市議たちは、裁こうとしてしまっている。そうではなくて、問いたずねるのがふさわしい。社会関係として、一方的にならないようにして、双方向で文脈をすり合わせるようにできたほうがよかった。社会の中がぎすぎすとして殺ばつとしているのを映し出しているできごとだととらえられる。

韓国や中国の製品をつくる技術力が高くなっているので、日本はものを売るのに苦戦しているのだろう

 日本のテレビが売れないのは、技術力が落ちたからでなく慰安婦問題のせいだ。自由民主党の議員はそう言っているという。

 海外のホテルのテレビは、かつてはソニーパナソニックが多かった。それが慰安婦問題などの活動のためにサムスンや LG にとって代わったとしている。中国や韓国が、組織として慰安婦問題などの活動をして日本の評判を落としているからだとのことだ。

 議員は、日本のテレビが売れないのは(技術力が落ちたからではなく)慰安婦問題のせいだとしているが、日本のテレビが売れないことと、慰安婦問題とのあいだには、そうとうな飛躍がある。開きが大きくて間が空いているので結びつきづらい。

 日本のテレビが売れないことと、慰安婦問題とは、それぞれに単独の問題だととらえられる。慰安婦問題を単独として見てみると、それは韓国や中国が悪いのではなく、日本が悪いのだというのがある。慰安婦問題は日本が悪いのだから、日本のテレビが売れないのは日本が悪いことになる。

 日本のテレビが売れないという結果があるとして、それは慰安婦問題が原因なのだと言えるかは疑わしい。結果と原因の前に、この二つに相関関係(共変関係)があるとは見なしづらい。テレビが売れるかどうかと、慰安婦問題とは、相関しているものではないだろう。ほかのさまざまなことが複雑に関わっている。

 慰安婦問題というのは、テレビが売れないことの一つの答えになるものとは言いがたい。答えになりづらいのは、慰安婦問題とは何かということで、その観念(語句)をどこまでもさかのぼることができるのがある。色々な文脈を含みもつものであり、複数の文脈を見ないとならない。

 テレビが売れないという結果は一つの現象だろう。その現象の原因として慰安婦問題があるとするのは陰謀理論によっている。韓国や中国などの陰謀勢力が悪いとするものだ。これは原因を韓国や中国などの陰謀勢力に当てはめているものだが、そうではなくて、(テレビが売れない)原因を日本に当てはめられる。人(他国)のせいにするのがふさわしいことだとは見なしづらい。日本をとり巻く外の状況が原因だというのはできるが、それは慰安婦問題とはちがうことである。

反論するさいの一方法(あまりよい手ではないかもしれないが)

 主張 A と主張 B がある。自分は主張 A をよしとしていて、主張 B をよしとしていない。なんとか自分のよしとする主張 A を通して、主張 B を退けたい。

 自分がよしとする主張 A をうったえる。主張 B を退けようとする。それでも主張 B はしぶとくてなかなか退かない。主張 A と主張 B との水かけ論になってしまう。膠着の状態になる。

 自分のよしとする主張 A のことはとりあえずわきに置いておく。それで、自分のよしとしないものである主張 B に焦点を当ててみるようにする。これを退けたい。そのために、主張 B を批判するようにする。

 主張 B を批判するさいに、主張 B はおかしいとか、駄目なんだ、とすることができる。頭から否定してしまう。それでも主張 B はしぶといので退かないことがある。いったい主張 B をどのようにとりあつかえばよいのか。

 こうすればもっとものぞましいという答えは、そうとうに頭のよい人(それなりに頭のよい人)なら分かるだろうが、残念ながらそれはよく分からない。さしあたっての手として、主張 B について、それはおかしいだとか、駄目なんだ、ということをひかえるようにしてみる手を打つ。

 主張 B について、疑問形にしてみるという手がとれる。疑問形にしてみたところで、主張 B を退けることにはならない。直接に退けることにはつながらないが、揺るがせることはできるだろう。

 二分法をとるようにして見ると、主張 B を疑問形にしないのと、疑問形にするのとの二つが成り立つ。この二つをそれなりに大きなちがいがあるとしてみる。じっさいには大きなちがいはないが、気持ちとして大きなちがいがあるものとしてみる。客観によるものではなく、主観によるものである。

 主張 B を疑問形にするのとしないのとでは大きなちがいがある、と主観ではとらえられる。疑問形にすることを画期的なものだと見なす。客観としてはそうではないが、主観としてはそのようにしてみて、差異があるように見なす。

 差異があるように見なすことができるとすれば、受信と発信のちがいだとできる。疑問形にしないのは受信(受動)である。疑問形にするのは発信(能動)である。そのちがいがある。疑問形として発信する(疑問を発する)という能動だ。水準の高い疑問を発するのではないが。

 主張 B はどうなのか、というふうに(何々か、の)疑問形にしてみる。必然として主張 B を肯定できるというのではなく、可能性として肯定とともに否定もできる、となることが見こめることがある。もし主張 B を部分的にではあっても否定できるのであれば、それをわずかに退けることができる。それで自分の主張 A をうったえることにつなげられる。

SNS で脅迫を受けているという危機と、雑誌の記事で発言したことで他から批判が投げかけられているという危機の二つがあると見られる

 脅迫を受けている。SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)からのものである。それについて警察に届け出を出している。SNS で脅迫をしたとされる容疑者が逮捕されるまでは、何も答えられないことになっている。記者にたいして国会議員はそう言う。

 自由民主党に属するこの議員は、SNS で殺害をほのめかす脅迫を受けているという。そのきっかけとなったのは、雑誌の記事で、性の少数者は生産性がないと(議員が)言ったことにあると見られる。

 SNS で議員に脅迫をしたとされる容疑者が逮捕されるまでは、何も答えられないことになっている。議員はそう言っているが、容疑者が逮捕されないかぎりは何も答えないということだろうか。そうであるとすればおかしいと言わざるをえない。

 SNS で脅迫を受けていることは、あくまでも SNS での話だと見られないではない。SNS を通しての脅迫であるそうだが、つぶやくことでわりと簡単にそういったことができてしまうのがある。SNS を通してのものは、現実のものごとに影響をおよぼすのはあるが、現実の一部分として SNS があると位置づけられる。

 SNS は置いておくとして、脅迫一般として見られるとすると、その脅迫が本当のことがあるし、そうではないことがある。ある人が、脅迫を受けたとして、それによってその人がその脅迫されるきっかけとなったことをやめなかったとしても、必ずしも脅迫されたことが現実に引きおこるとはかぎらない。一〇〇パーセント引きおこるとはかぎらず、圧をかけただけのことがある。

 ある人が、あることを言い、それにたいしておどしを受けたことがあるという。遠まわしの婉曲のおどしである。町を出歩くと身の危険があることをその人にほのめかす。それでもその人はそのおどしを無視して、町を出歩いて、言ったこともひるがえさないで通す。それで何ともなかったという逸話がある。

 そうした逸話があるとしても、一般化することはできないかもしれない。脅迫がじっさいに行動にうつされて、現実に引きおこされることはある。そこへの注意はいるだろう。これは脅迫にまつわる一つの問題である。この問題を何とかするために、議員は、容疑者が逮捕されるまでは答えられないというふうにしている。しかしそうすることで、もう一つの問題が持ち上がる。合計すると二つの問題がおきる。

 自分が SNS で脅迫を受けていることについて、それに対応するのは、あくまでも一つの問題にとりかかっているのにすぎない。それにとりかかることで、もう一つの問題が持ち上がってくる。そのもう一つの問題についてがないがしろになってしまっている。議員は、一つだけではなく、二つの問題をかかえていて、この二つのものを共に何とかすることがいる。二つで一つの問題だというのが成り立つ。

 自由主義の社会であることから、たとえ気に食わないからといって、他者に危害を加えることはあってはならない。SNS でそれをほのめかす脅迫をするのはやめるようにするのがのぞましい。それが一つにはある。それとは別に、雑誌の記事で発言したことがあるので、それについて議員は一方的に言いっぱなしで終わらせるのはまずい。何か言えることはあるはずだし、それであるから言ったのがある。

 議員が雑誌の記事で言った話題については、議員一人だけではなくて、ほかの色々な人たちがとり上げている。その話題についてほんの少しであっても触れたなら、SNS などで脅迫を受けることになるわけではないだろう。ほかの人たちが話題としてとり上げて平気であるのなら、議員一人だけがとり上げられないのだとは見なしづらい。

 じっさいに SNS で脅迫を受けているのがあるにしても、それをきわめて重いものととらえることはできるが(それも必要なことではあるが)、それはそれとして、話題にまったく触れられなくなるというのはちょっとおかしい。話題がおかしいものであるわけではないからである。

見切りのできていなさがある(居座りつづけている)

 首相は、見切るべき大臣を見切れていない。適していない大臣の代表は、いまの財務相があげられるが、財務相を見切ることができていない。

 首を切って別の人に変えるかどうかは、首相による自分なりの考えがあるのだろう。そこは人によって色々な見かたがとられているのもまたある。

 首相は財務相を含め、適していないと見られる要職の者を変えるつもりはないようだ。何が絶対に正しいかは客観としてはっきりとは言いがたいものだが、危機管理の点から言うと、危機の認識ができていないために大臣などを見切れていないのだというのがある。危機を抱えこんでしまっていて、外に出せていない。入れ替えるべき人(長)を入れ替えていないことによる。

五輪の二面性(光であるだけではない)

 アマチュアリズムをよそおった労働詐欺だ。二〇二〇年にもよおされる東京五輪では、ボランティアの参加を募っている。このボランティアには、識者から、労働詐欺だとの批判の声が投げかけられている。

 ボランティアには交通費として一日一〇〇〇円までが与えられる。それ以外のお金はとくに支払われないようだ。費用は自己負担が求められている。一〇日間くらいの日数の拘束だったのが、批判を受けて、日数がやや短縮される見通しのようだ。昼食は与えられるという。

 批判の声が投げかけられているのにたいして、東京都の小池百合子都知事はこう言っている。ボランティアの待遇は過去大会にそこまで劣るものではない。何をもってブラックと言うのかわからない、とのことだ。

 ボランティアに参加するのは、参加する人の自由な意思によるのだから、それでよいではないか。外野がとやかくつべこべとうるさいことを言うべきではない。テレビ番組の出演者はそう言っているのがある。

 たしかに、テレビ番組の出演者が言うように、ボランティアに参加するのは、その人の自由な意思によるのはある。参加する人が満足するのであれば、それでよいという見かたは成り立つ。しかし、話をそれで終わりにしてしまうことはできそうにない。

 テレビの出演者は、五輪のボランティアに肯定の見かたを言っているが、それについては、五輪をテレビで放映して仕事としてお金を稼ぐ側に立った意見だととらえられる。中立な意見だとは言えそうにない。

 ボランティアは、五輪のためのものであり、五輪についてを見ることができる。五輪のもよおしは、光そのものということはできづらい。商業主義になってしまっているのがあるので、光そのものということはできず、光と闇があるということができる。二面性がある。ひどく言えば、闇だけだという見かたも成り立つ。これはかなり極端な見かたではあるかもしれないが。

 二面性ということでは、理想論と現実論に分けて見られる。理想論としてはのぞましいボランティアのあつかい方があるが、現実論としてはそれは難しい。そのほかに、規範と事実に分けることができる。規範としてはのぞましい形であるべきだが、(価値を抜きにした)事実としてはお互いの合意によるものだとできる。

 五輪が、誰のための、何のもよおしなのかが、もうひとつはっきりとしてこないのはいなめない。五輪の必要性がよくわからないのがあり、そこから、待遇のそれほどよくないボランティアの必要性もはっきりとしてこない。費用を自己負担させてまでボランティアを行なわせることが、人によっては受け入れづらいものになっている。五輪という光にたいする闇として、ボランティアの待遇のおかしさがある、と批判を投げかけるのは、的はずれなものだとは言えそうにない。

アベ(安倍)政治を許さない、を許せないか

 アベ政治を許さない。このかけ声(スローガン)はよくないものだ。もっとのぞましいかけ声にすることがいる。そういうことが言われていた。

 個人として言わせてもらうと、このアベ政治を許さないというかけ声は、ほぼ一〇〇パーセントといってもよいくらいに共感や納得をすることができる。まさにその通りだとか、まさにそうだよなというふうに受けとれる。

 アベ政治を許さないというかけ声をよしとするのはおかしいのではないかとか、愚かなことなのではないかという声もあるだろう。その声には一理あることは確かである。とくに(とりわけ)賢いかけ声だとは言えそうにない。

 かけ声として投げかけられるアベ政治を許さないとは、お笑いでいうとツッコミのようなものだろう。ボケはいまの首相やそのとり巻きである。ツッコミの文句としては、あまり長々しいのだと弱くなってしまう。なるべく短めの文句で言ったほうが決まりやすい。

 なぜアベ政治を許さないのかの理由を言うことがいるのはある。しかし、あえて言わないという手もある。言わずもがなというのがある。言わなくてはわからないのはあるが、たとえ理由まで言ったからといって、すべての人がそれにうなずいてくれるものではない。理由が気になる人は、自分で調べてみることができる。

 理由を言わなければ、よしとしてくれる人の数を増やすことにはつながらないところはあるかもしれない。それはあるのは確かだが、たとえじっさいに言うのではないにしても、人が何かを言ったりやったりするときに、何の理由もなしに行なうとは考えづらい。個人によるものだとしても、何らかの理由があるものだろう。政治は多数決によるのがあり、多数決では少数派は犠牲になる。すべての人を満足させるものではなく、不満を持つ人が出てくるのは避けづらい。

 最善の手段ではないのはある。そうかといって、最悪の手段でもないだろう。それなりの手段なのではないか。人によっては、アベ政治を許さないのかけ声が許容できない人もいるだろう。許容できないで不快に感じる人がいるのは、人それぞれの好みになってくる。

 なぜアベ政治を許さないのかの理由ではないが、なぜアベ政治を許さないのかけ声をよしとするのかの理由としては、いまの首相による政権を許容できないことによる。なぜ許容できないかというと、いまの首相による政権が、個人として許容できないようなことをするからである。

 いまの首相による政権を許容するかしないかは、人それぞれによってちがう。だから、許容せよとかするなとかとは言うことはできそうにない。個人として許容しないという人がいて、許さないというふうにかけ声を言う人がいてもよいのではないか。それを言うのは、自由主義においては、他者に危害を加えるものではないから、かりに愚行だとしても、自己決定に任されることととらえられる。

 肝心なことは、アベ政治を許さないというかけ声にあるのではない。これはたんなる手段にすぎない。かけ声がさし示すところのものである、いまの首相による政権(のやっていること)が許せないものだというのが大切なところではないか。そこの切実さがある。アベ政治を許さないというかけ声を投げかけることになる原因は、いまの首相による政権にある。そう見なせる。

 いや、そうではなく、かけ声で言われていることは本当のことではない。いまの首相による政権は許せるものである。そうした人がいてもまったくかまわないものであり、それは人それぞれの自由な判断に任されているものだろう。

 政治のあり方としては四つのものがあるという。そのうちでいうと、アベ政治を許さないのかけ声は、悲憤型や熱狂型に当てはまると見られる。つり合いのとれた均衡型だとは一概には言えそうにない。そのほかのあり方としては、内幕情報屋型(新聞記者や公務員など)と政治的無関心型があるという。この四つの型は、政治の情熱の強弱と、政治の知識と技能の高低とで分けたものだとされる。

論文と言うことにたいする引っかかりがある

 論文なんだから論文で応えよ。言論で応えよ。評論家の人はそう言っていた。

 自由民主党の議員は、性の少数者は生産性がないという発言を、雑誌の記事で行なった。評論家の人が言うには、これは論文に当たるのだという。そして自民党の議員の発言を擁護する雑誌の企画が組まれた中で、評論家の人があらわしたものも論文に当たる。

 自民党の議員の発言や、それを擁護する企画を組んでのせた雑誌は、批判が投げかけられる中で、休刊されることになった。雑誌の記事の中で、偏見や認識の不足があったことを雑誌を発行する会社の社長は声明の中で認めている。

 自民党の議員の発言や、それを擁護する評論家の文章は、論文だということだけど、そうではないという見かたも成り立つ。もし論文ではないのであれば、論文で応えることはいらないことになる。

 論文というのは、決まりをもつものであり、それにふさわしい形式と実質を備えていないとならないものだろう。主張にたいする根拠や論拠が示されていることがいる。それらを備えたものは論文に当たるが、そうではないものはその中(集合の中)には含められそうにない。

 批評とは何かを論じるさいに、文芸評論家の川村二郎氏はこう説いているという。学問があり、エッセイがある。その二つの円の重なり合うところが批評である。

 論文というからには、学問による正しさをふまえていなければならないものだろう。自民党の議員の発言や、評論家の人の文章にはそれがあるとは見なしづらく、基本的な知識の誤りが指摘されている。それは雑誌を発行する会社の社長が声明を出した中にも示されていた。記事の中に偏見や認識の不足があったとしている。

 自民党の議員の発言や、評論家の人の文章は、分類で言えば、論文だとは言いがたい。ふつうに解釈したさいの論文という言葉のストライクゾーンからは外れている。ストライクゾーンを目いっぱいにまで思いきり広げて、とにかく言葉で書かれてさえいれば論文だとするのであれば、そう言えるかもしれない。

 雑誌に発表されたものを論文だとするとしても、雑誌に発表されたものがすべて論文だというわけではないだろう。雑誌といってもぴんからきりまでのものがある。何が論文ではないのかをはっきりさせてもらわないと、論文に当てはまる集合が大きくなりすぎることになりかねない。

出版社であるくらいだから、投げかけられた批判や、おきたことについて十分に読解(理解)してくれればよい(ものごとをうまく読解していないで雑誌の記事がつくられたことから、まちがいや批判がおきたのだととらえられる)

 週刊誌が休刊にすることになった。この雑誌はもともと売れ行きが伸び悩んでいたという。雑誌が売れなくなる中で、野党や朝日新聞や性の少数者などを叩くといった、右寄りの方向へ向かっていったようだ。

 この雑誌では、自由民主党の議員による、性の少数者には生産性がないという発言を載せた。それへの他からの批判を擁護する企画を新たに組んだところ、それにもまた批判が寄せられた。それで休刊にいたった。これにたいしては、言論弾圧なのではないかとの声もあげられている。

 言論弾圧というよりは、もともと雑誌の売れ行きが伸び悩んでいて、販売数が減っていたようだから、じり貧だったのがある。それで右寄りの方向に向かったのがあり、その方向に向かったことで内容が偏るようになった。その偏りが目にあまるものだったのがある。

 この雑誌で、性の少数者は生産性がないと言った自民党の議員は、セクシャル・ハラスメントについてもこう言っているという。セクハラの概念が日本に入ってきてから社会がおかしくなった。それに国際連合が一役買っている。受ける者の主観にすぎないのがセクハラだ。セクハラの言葉が日本に持ちこまれることによって、どれだけ日本の会社社会の国益を損なってきたかと思うとぞっとします、とのことだ。

 このセクハラについての見なし方は、事実とはちがうものだろう。もともと日本には会社の中などでセクハラが横行していたと言われている。セクハラという言葉がある前から日本にはセクハラの行為が横行していた。セクハラという言葉が日本に持ちこまれるようになって、それまでは認知されていなかったものが、おもて立って問題とされるようになる。以前に比べればセクハラが行なわれるのは多少はましになった。それくらい、以前はひどかったということだろう。

 セクハラという言葉によって日本の国益が損なわれるのではなく、セクハラの行為によって国益が損なわれている。セクハラなどのハラスメントは法としては違法のものであり、やってはいけないことだとされている。個人がもつ人格権を侵害するものだ。省庁は、会社などの組織にたいして、セクハラを予防するように対応をうながしている。組織が全体としてセクハラ(その他のハラスメントを含む)をおこさせないようにしないとならない。

 出版の自由や言論の自由は大事なものであるのはまちがいないが、それはそれとして、とりわけ自民党の議員は、雑誌に載せた自分の発言にたいする批判に応えることがいるだろう。批判に応えないで雲隠れしているのは、国会議員としてはおかしな対応であり、言いっぱなしにするのはいただけない。

 出版社は、雑誌を休刊にして終わりにするのではなくて、雑誌の企画や記事が偏ったものになった流れやいきさつをふり返ってたどるようにすることがあってほしい。どういうわけで、偏見や認知の不足による記事が雑誌に載ってしまったのかを明らかにする。

 今回の雑誌の休刊を、出版社は失敗情報として知識化するように動いてくれればよい。はたから見て、なぜ雑誌に批判が寄せられて失敗したのかということの原因として、陰謀理論によっているのがあげられる。雑誌をつくる人たちは陰謀理論によっていた。雑誌では野党や朝日新聞や性の少数者などを批判する記事を載せていたが、それらの批判の対象について、正しく理解していないままに発言をする。そのことから、偏見や認知の不足の表現になった。

 雑誌の記事で言ったことを送り手(自民党の議員)が言いっぱなしにしているのは、批判の対象となる陰謀勢力が悪いというふうに最終的にはできるからである。最後には陰謀勢力のせいにできる。そうではなくて、雑誌に批判が寄せられたことの原因として、雑誌をつくった人たちや送り手に原因があるとできるのだから、そう見なすのがあってほしいものである。

 雑誌が休刊になったことは、言論弾圧だというふうな見かたもできるかもしれないが、それとは別に、この雑誌をつくる人たちや記事の送り手は、事前においても事後においても、陰謀理論によっていた。批判する対象への理解の不足がおきていた。それが失敗をまねいたのだとして失敗情報だととらえることが一つにはできる。

 どういうあり方であればのぞましかったのかと言えば、陰謀理論によらないようにできればよい。陰謀理論によってしまうと、自分の言うことにたいして反証(否定)をとらず、確証(肯定)をするだけになる。そこから、そんなにおかしいかとして、雑誌では他からの批判を受けつけない態度をとることになった。これは反証逃れであるととらえられる。

 じっさいには行なうのは難しいところもあるが、このようにできればのぞましい。たんに言論や出版の自由をたてにして、それをもってしてよしとするのではなく、社としてどういう倫理観をもっているのかを示す。少数者にたいする憎悪表現(ヘイトスピーチ)をしないといった倫理観を示すことができる。もしそれをもっていればの話ではあるが。必要があればあり方を修正して、一方的ではなく双方向のあり方をとる。

 お互いに批判のやりとりをして、それを受け入れるようにするような、開かれたあり方であればよい。失敗したのであれば、それを情報化して、再発の防止の策をとるようにする。それをせずに、閉じたあり方になってしまうのはまずい。閉じたあり方になるのは、いまの首相とそのとり巻きの悪いところを真似てしまっているものだ。

 陰謀理論によって、一つの文脈によるのだけだと、正しい理解になることにつながりづらい。一つの文脈を絶対化することにつながる。一つの文脈による一神教のあり方だと、教条におちいりやすい。それを避けるようにして、色々な文脈による多神教のあり方をとれればよい。どのような情報であっても、そこに送り手の意図が入りこむのは避けられず、完全に客観とは言えないものである。

 三つの段階に分けられるとすると、入力と思考過程と出力において、それぞれを改めて見直すことがあれば、まちがいを避けやすい。出力されたものがおかしいのであれば、入力か思考過程かのどちらかで、またはどちらにおいても、おかしくなっていることがある。入力や思考過程の偏りを改められれば、出力の偏りを和らげられる。他人のことばかりを言うことはできず、偏りがおきてしまうことはあるものだが。

農水相に圧力をかけた人物が誰なのかは、政権が自分たちで調べるのが筋である

 首相を支持しないのなら、閣僚を辞任せよ。農水相は、政権の関係者にそう迫られたという。この農水相は、自由民主党の総裁選で、首相と対立した石破茂氏の派閥に属する。

 総裁選では首相が三選をはたした。政権の関係者から圧力をかけられたことをおもて沙汰にした農水相は、閣僚から外されるという。総裁選の中で、圧力があったことを発言したことが、評価を落としたとしている。

 政権は、大臣が発言をすることで評価を落としたとしているが、評価を落としたのは大臣ではなくむしろ政権のほうだろう。パワー・ハラスメントに当たるようなことを政権の関係者がしたのがある。

 この大臣について、彼はつくり話をするような人では絶対にないと評するのは、石破茂氏である。石破氏が言うように、この大臣はつくり話をするような人ではないということだし、この大臣の発言が嘘やつくり話であるという具体の証拠はない。

 パワー・ハラスメントまがいのことをされたのはこの大臣であり、この大臣が自分の口から言わなければ、誰にも知られることはなかった。パワー・ハラスメントをしたほうが言うはずはないから、されたほうが自分の口から発言したことは、一つの証拠になる。まったくの嘘やつくり話でないのであれば。これをいちじるしく軽んじているのが、いまの首相とそのとり巻きである。

 誰がパワー・ハラスメントまがいのことをしたのかや、それが本当にあったのかを調べるのは、政権の責任としてやることがいるが、やるつもりはないようだ。このことを重んじて対応するのではなく、カツカレー(三五〇〇円ほどするらしい)をただ食いした四人が誰なのかという、どうでもよいようなことを調べているようである。

 総裁選で、首相を支持するつもりの者たちにカツカレーがふるまわれたが、そのうちの四人は首相に票を入れなかったことがわかっている。これは経済学で言われる埋没費用(サンクコスト)である。それを根にもつよりも、もっとほかにやることがあるのだから、それをやってもらいたいものだ。