野党の代表に、代わりにうみを出してもらっているのは、情けないにもほどがある(自分でうみを出さないことにはうみは出るものではない)

 ほんらいであれば、政権は七回ほど吹き飛んでいる。自由民主党の政権が不信任に値する理由として、七つの理由をあげたのは、立憲民主党枝野幸男代表である。枝野代表は演説で二時間を超えるほどのことを語った。

 産経新聞の記事では、立憲民主党をふくめて、野党にこそむしろ不信任を出したいといったようなことを言っている。これは個人としては受け入れることがむずかしいものである。ほんらいであれば、政権をになう自民党安倍晋三首相は国民に向けてしっかりとした説明をしなければならないが、それがまったくといってよいほどできてはいない。だらしがないというしかない。

 それにひきかえ、野党であるのにもかかわらず、枝野代表は自民党による政権がいかに不信任に値するのかをしっかりと理由をあげて説明している。首相とはちがい、枝野代表がなぜか(だからこそと言うべきかもしれないが)きちんとした説明責任(アカウンタビリティ)を果たしているのである。まったくのあべこべになっているのだと言わざるをえない。ほんとうであれば、首相が自分の口から、自分がいかに失敗をしでかしてきたのかを、二時間を超えるくらいに語ったらよいようなものだが、それをしないばかりか、席に座りながら枝野代表のことをそばにいる大臣とともにせせら笑っているしまつである。

税金の使いみちの優先順位がおかしいのはほかにもっと色々あるのだから、そこを言わないのはおかしい(自然災害の復興よりも、軍事の戦闘機を海外から買わされるのに膨大なお金を使っているのなどがある)

 ウェブで叩かれてるけど、大丈夫なのかと気づかう。まちがったこと言っていないのだから、胸を張っていればよいとか、そのままでよいとかと、大臣をはじめとして、上のほうの議員が下の議員に声をかける。自由民主党の中ではそうなっているようである。

 ウェブで叩かれている自民党の議員は、ツイッターのツイートで、同じ自民党の議員からはげまされたりかばわれたりしているということをつぶやいている。ここに、いまの自民党の体質がまざまざとあらわれていると見てとることができる。

 叩かれている議員は、税金の使い方というのをだし(手段)にして、性の少数者である LGBT のことを生産性がないとはっきりと言っている。それで支援する大義名分はないというふうに言っているが、これでは、税金の使い方というのを名目として、じっさいには社会的偏見(social bias)をうながしてしまっている。なので適していない発言だということができる。

 叩かれている自民党の議員は、税金の使い方ということにおいて、大義名分というのを言っているが、ここでは大義名分というのを持ち出すのではなく、実在の社会のあり方を見て行くのがふさわしい。実在の社会のあり方では、性のありようは複雑になっているものだろう。単純に男性と女性というふうには割り切れず、さまざまなありようになっている。色々な性のありようがあり、それをできるだけ尊重しようというふうにすることができる。

 生産性の有り無しというのを大義名分として持ち出しているのが、叩かれている自民党の議員による発言である。その大義名分を持ち出すのは適したものではないが、これをよしとしてしまっているのが、叩かれている議員をはげましたりかばったりしている同じ自民党の議員である。おそらく自民党は、党としてこの叩かれている議員の言っていることを肯定しているはずである。もし肯定しないで否定するのであれば、否定する意思を示す何らかの声明を出さなければならない。それで叩かれている議員にたいして注意するなり処罰するなりを行なうことがいる。

 叩かれていることについて、胸を張っていればよいとか、まちがったことは言っていないとか、そのままでよいのだとするのは、適したあり方とは見なしづらい。税金の使い方ということを言っているふりをしながら、じっさいには差別に当たることを言っているのだから、そこは批判されてもしかたがないところである。叩いたり批判したりするほうが悪いとするのではなく、双方向のやりとりによって修正をすることができればよい。それをするのであれば、胸を張れないはずだし、まちがいが含まれているのであり、そのままでよいとはならない。

生産性が低い人のほうがむしろえらい(階層秩序による二項対立を反転して見ることができるとすればのものである)

 生産性のあるものと無いものを同列にあつかうには無理がある。自由民主党の議員は、ブログの記事でそう言っている。これを根拠として、性の少数派である LGBT への支援は必要ないのだとしている。この根拠は受け入れられるのかどうかを改めて見ることができる。

 生産性があるか無いかというのは、関係によって決まるものであり、絶対的なものではないというふうに見られる。相対的なものにとどまっている。あるものさしから見て、生産性があるか無いかというふうに見られるのはあるかもしれないが、そのものさしが絶対に正しいというわけではない。生産性があるか無いかというのは、二つに分けているものであり、大ざっぱなものである。揺らいでいるものでもある。

 人間に生産性があるものと無いものとがあるというのは、一つの大きな物語だということができる。ある人間が、生産性をもっていて、何かを生産したのだというのは、一つの大きな物語にすぎない。この大きな物語をとらないようにすることができる。西洋の思想では作者の死というのが言われているのがあり、作者と作品は切り離して見ることができる。作者の死があるので、作者はいないものだとする見かたが成り立つ。たんに作品(生産物)があるだけである。

 生産性があるか無いかではなく、排斥してしまっているかどうかを見ることが重要だとする見かたが成り立つ。何かを排斥してしまっているのだとすると、それのうえに成り立つ生産性に大きな意味はあるのだろうか。労働でいえば、低賃金の労働者から搾取して成り立つ経済の豊かさに何の意味があるのだろう。

 生産性があるか無いかではかるのではないようにしたい。たまたま運があって生産性が高い人だけではなく、たまたま不運に見まわれて生産性が低い人をどれだけ排斥しないですむかというのができればよい。排斥しないようにするのがよいのがあり、そうするためには、固定化して見ないようにすることができればよい。

 たまたま運があって生産性が高い人がいるとしても、それはその人の独力の力ではなく、さまざまな人の力があってはじめて成り立っているものだろう。さまざまな人の力がなければ、生産性が高い人というのは成り立たないはずだ。生産性が高い人は、それを自分の手がらにするのではなく、ほかのさまざまな人たちの助力(または存在)のおかげだとするのがよいのではないか。

 国の経済でいうと、拡大再生産は生産性が高く、単純再生産はそうではないが、どちらがえらいかというと、単純再生産のほうだろう。拡大再生産では、いらないものをたくさんつくってしまい、ごみが大量に生み出される。つくりすぎたものを捨てるようなばち当たりなことをしていて、無駄を生んでいる。化石燃料のほかに、原子力発電を用いることで、深刻な危険をまねきかねないことをしている。こうしたことを避けやすいのが単純再生産である。拡大再生産のように、自然の環境を壊してしまうのではなく、できるだけ自然の循環にさからわないような人間の社会のあり方をとれたほうがのぞましい。理想論であることはたしかだけど。

学校にクーラーがあるところもあれば無いところもあるということについての違和感がある

 学校の教室にクーラーがついているところもあれば、そうでないところもある。都道府県のそれぞれで普及がまちまちになっているようである。それがちょっとだけ変だなというのがある。

 私立と公立とでは、私立のほうが、教室にクーラーがついていることが多いという。公立は市立に比べてついていないことが多い。この差は合理的なものかというと、そうとは言えないという見かたが成り立つ。学生という点ではみな同じなのだから、学ぶ環境に差があるのではなくて、差がないようにするのでないと、不公平なのではないか。

 温帯とは呼べないくらいの気候になっているのにもかかわらず、学校の教室にクーラーがついていたりついていなかったりとまちまちになっている。これが意味するところは、日本では社会の中で、人々が生きて行くさいの生活環境への意識がきわめておろそかになっているのが見てとれる。配慮が欠けてしまっている。人間らしい生活環境がすべての人にあってしかるべきだが、その意識が政治によって十分にはとられていず、放ったらかしになってしまっている。

 生きて行くさいの環境をよくするには少なからぬお金がかかるのはあるが、それとは別に、たんにお金をかけるというだけのことではなく、子どもから大人から高齢者まで、みなが生きて行きやすいような環境を整えようという質への視点があまりとられていないのがある。質が悪ければ、できるだけ早急に改められればよさそうなものだが、そういう方向にはあまりならずに、既成事実だから(しかたがないとか当然だとか)みたいなふうになりがちなところがあるようだ。

股関節周囲炎というのはそんなに簡単によくなるものなのだろうか(よくなったこと自体はよいことではあるだろうけど)

 西日本の豪雨の被災地を視察しに行ったさいに、首相は股関節の周辺を痛めたらしい。股関節周囲炎という診断だったようだ。病院に行って診断を受けて、それを公表するのは、国家の長としては異例のことであり、普通は診断の結果や病名は公にしないのだという。

 股関節周囲炎になり、それ以上の被災地の視察はとり止めになった。診断をくだされた直後は、首相は歩くときに足を引きずるようにしてかなりゆっくりと足をかばいながら歩いていた。それがほんの数日しか経っていないのに、国会の中をすたすたと普通に歩いているのである。これは不思議なことである。それで、政治の四コマ漫画の題材にもされている。

 あれだけ痛そうでつらそうに足を引きずってゆっくりと歩いていたのが、ほんの数日しか経っていないのに、まるで何ごともなかったかのようにすたすたと歩けるようになるのかがいぶかしい。股関節の周辺というのはよくわからないが、かりに股関節が痛いのだとすると、その部位は歩くさいに衝撃がかかるし、体の中心近くにあり、上半身の体重がかかる荷重関節の一つなのだから、そんなにすぐに治るものだとは見なしづらい。医学の専門的なところはわからないのはあるから、まちがった見かたではあるかもしれないが。

 ふつうは国家の長は診断の結果や病名を公にはしないところを、股関節周囲炎というふうに公にしたのだから、それが治ったのかどうかくらい告げ知らせるべきである。治ったのならこの時点で治ったのだとして国民にちゃんと言うべきではないだろうか。国民にいらぬ心配をかけているのであるから、おかげさまで治りましたというふうに言い、まったく不必要なよけいなご心配をおかけしましたというくらいは言ってもよいだろう。

暑さについて、正常性(日常性)の認知の歪みがはたらくのがある(参照点を動かすことができる)

 昔よりも日本の夏は暑くなっているのか。日本気象協会によると、ヒートアイランド現象により、昔よりも暑くなっていると言えるそうである。昔の夏は今よりも涼しかったのではなく、それはそれで暑かったのだろうけど、一つの見かたとしては、昔よりも今のほうがより暑くなっているのだというのが成り立つ。これを問題と見なして、暑さに対応する手だてがとられるのがのぞましい。問題がないのだというふうに見なすのは、人命が関わっていることもあり、できづらい。

国家主義(ナショナリズム)によることで、生産性の有り無しという線引きが引かれてしまう(線の引き方がきわめておかしい)

 性の少数者である LGBT の人たちにたいする支援の度が過ぎる。自由民主党の議員は、雑誌の記事で、行きすぎた LGBT の人たちへの支援はいかがなものかというようなことを言っている。

 政治として支援するのには税金がかかる。それをするに当たり、子どもを生む人たちへ税金を使って支援するのは少子化の対策という大義名分が立つが、LGBT の人たちはそうではないという。生産性がないと言っている。なので、あまり支援をするべきではないとのことだ。報道機関が LGBT についてを報じることで、政治家が人気とりでそれをとり上げるようになるので、報道機関はけしからんともしている。

 報道機関が LGBT についてを報道すると、(一部の)政治家が人気とりでそれをとり上げるからよくないのだということだが、政治家というのはあやつり人形のようなものなのだろうか。政治家が人気とりでとり上げるからよくないということだが、むしろとり上げていない政治家のほうに問題があるという見かたもできないではない。報道機関や政治家がとり上げるのは、意義があるからであり、何の意味もなくとり上げているわけではないだろう。

 生産性という言葉は人間にたいしてあまり使うべきではないのはあるが、自民党の議員は雑誌の記事でそれを用いているのは神経が行きとどいたあり方とは言えそうにない。たとえ LGBT ではなかったとしても、子どもを産まなかったり産めなかったりする人はいるのだから、生産性と LGBT を結びつけるのは適したこととは言えないのがある。無条件に子どもを産むというのではなく、色々な条件が関わってくる。先進国では、教育が進んで男性と女性のあいだの不平等が小さくなれば、子どもを産む数はあるていど自然に調整されて行く。どんどん子どもが増えて行くというふうにはならないものだろう。

 日本では、子どもを産みたい人に産んでもらえるようなきちんとした環境が整っているのかといえば、そうとは言えないのがある。子どもを産んで育てるにはそれなりのお金がかかるものだが、いま日本では社会の中の階級化が進んでいってしまっているという説がある。働いても賃金が低く生活が苦しければ、子どもを産んで育てるのをあきらめざるをえない。結婚をすることもままならない。経済の格差を改めることがいる。そうしたことをやらないで、LGBT のことをやり玉にあげるのは、まちがった悪玉化をすることになる。

 自民党の議員は、記事の中で、LGBT の人たちを支援するのは、行政によるものであり、それには税金がかかるのだとしている。これはたしかにそうではあるかもしれないが、そのいっぽうで、支援というのを税金(お金)に還元してしまっている。支援というのは必ずしもお金に還元できるものではないだろう。お金を払うか払わないかというのに還元するのではなく、一人ひとりの人間がもつ自由の幅を広げるようにするための手助けができればよい。

 LGBT の人たちを支援するというふうにすると、ある人を LGBT ということで象徴化することになり、他のさまざまな面が切り捨てられかねない。象徴化するのではないとすると、人間は色々な面をもつものであり、その中の一つの面として LGBT があるとする見かたが成り立つ。色々な面の中の一つとして LGBT の面をもっている人がいて、その人の自由の幅を広げられるように手助けすることができる。他者に危害を加えるのでないのであれば、自分で自分のことを自由に決めることがあってよいはずであり、それができやすいようになればよいのがある。

児童の生命を保つためには、色々な工夫や改善をすることができる(できた)のはある(環境を整えて、細かい規則をゆるめることができるのがある)

 熱中症で小学校の一年生の男子児童が亡くなったという。この児童を含む同じ教室の小学一年生たちは、その日の午前一〇時ごろに一キロメートル先にある公園まで行き、そこで三〇分ほどすごし、学校へ戻った。教室で男子児童は熱中症で具合が悪くなり、意識がなくなり、搬送されたが助からなかったそうだ。

 午前一〇時というと、一日のうちでいちばん暑い時間帯ではないものの、夏のいまの時期だと、早朝の段階でもすでにかなり気温は高く暑い。かなり早い朝の時間帯であっても、気温が高い夏の時期に戸外ですごしていたらけっこうきついものである。夏の時期の直射日光を体に浴びると、体に熱がたまってしまうようになる。

 学校側は、あとでふり返ってみて、学校の外の公園に児童を行かせるべきではなかったとして、判断が誤っていたと省みているようだ。かりに児童を学校の外の公園に行かせるのであれば、熱射病におちいることを見こして、それを予防したり手当てしたりするための準備をしっかりと用意しておくことがいるだろう。用意がしっかりととられていないのであれば、不備があったことになる。どこにも出かけないで学校の敷地の中にいるのであっても、熱中症になる危険はあるのだから、それへの備えは十分であったほうがよい。

 熱中症で男子児童が亡くなった事件で、学校側にとんでもない落ち度があったのかどうかはわからないが、学校での教育のやり方にさまざまなまちがいがあることが災いしたのだということができそうだ。その一つには、画一化や平準化があげられる。児童の一人ひとりのもっている体力はちがうのだから、そのちがいを認めるようにして、ちがいに応じた教育ができればのぞましい。標準を前提にしないようにする。

 学校の教室という場が先だってしまっていて、児童はそれにつき従わされているようになっているのがある。教育では、そうしたことはある程度は仕方がないものではあるかもしれないが、集団主義のようになるのが行きすぎるのはのぞましいことではない。学校の教室の場が先だつのではなく、児童の一人ひとりが先だつようにできればよい。児童の一人ひとりが目的なのであり、何かの手段であるのではないのがある。学校の教室の場で、いついかなるさいにも正しい教育が行なわれているとは言えず、まちがっていることも少なからずあるだろう。学校というのは国家のイデオロギー装置の一つである。

 児童には教育を受ける義務と権利があるのとは別に、学校側は、児童の生命を保つようにして、それを損なわないようにしなければならないのがある。児童の生命を損なってしまうようであれば、不正義をしてしまうことになる。わざとではないだろうから、学校側を強く責めるのは正しくはないかもしれないが、児童にたいして不正義になるようなことをしてしまったのはあるだろう。これは学校のみならず、日本の社会の全体に言えることだというふうに見られる。色々なところで、色々なものが、まとも(ディセント)ではなくなってしまっている。

赤坂自民亭の飲み会に問題は一切まったくなかったというふうには見なしづらい

 赤坂自民亭の飲み会に出たことは、問題はなかった。この飲み会は、西日本での豪雨のおそれに気象庁が警戒を呼びかけていたさなかのことだったが、そのことについて首相は問題があったのだとはしていない。政府で万全の態勢で対応に当たってきたとしている。

 おなじく飲み会に出ていた内閣官房副長官が会のもようをツイッターに投稿していたことについては、首相は官房副長官に注意をしたそうだ。これについて、飲み会に問題がなかったのに、それをツイッターで発信したことに注意をするのはおかしいではないかという声があげられている。ツイッターで発信したことが駄目なのなら、飲み会そのものも駄目だったと見なすことができる。駄目な飲み会をツイッターで発信したのにすぎない。

 赤坂自民亭の飲み会のもようを官房副長官ツイッターに投稿したことについて、いまになって首相は注意をしたとしているが、もともとこの投稿は自分たちのことをピーアールするためのものだったのだから、それをあとになって注意するのはおかしいのであり、ツイッターに会のもようを投稿したことが悪いわけではないだろう。

 はたして、赤坂自民亭の飲み会には、問題があるのかないのかというのがあり、それは人によって異なってくるかもしれない。自由民主党財務相は、赤坂自民亭について、酒のところばかりがとり上げられているとして、会を行なうのはよいことだとしている。何も問題はないのだという。これは文脈を切りとってしまっているものであり、状況をふまえていない。

 赤坂自民亭の飲み会に参加した議員は、会について、むずかしい話は一切なしで、酒飲んでワァーというだけだと記者に言っているのだから、そんな会の必要性は国民一般にとってはとくにないはずである。酒には必要な栄養素は含まれていないが、それと会の内容は似たようなものだろう。

 赤坂自民亭の飲み会に問題がある(あった)のだとすると、その問題の所在を見るようにできればよい。財務相のように、報道機関が報じていることの逆を言えば正しくなるというようなことだと、問題の所在を見ることにはつながらない。赤坂自民亭の飲み会では、むずかしい話はなく、酒飲んでワァーとしていただけなのだから、はたから見てその必要性は高くない。

 国民のことを放ったらかしにして、自分たちは酒飲んでワァーとするのでは与党の(重要な役をになう)政治家として適したあり方とは言いがたいものである。政治家どうしのとるに足りない飲み会を放ったらかして、国民のことを第一におもんばかるべきだったのではないだろうか。

災害の復興にかけるお金の額の不十分さと、政府の経済政策のうまく行ってなさがある

 西日本でおきた豪雨の災害に、政府は二〇億円のお金を出すことを決めたとしている。このお金の額だけでは、災害の復興のためには十分ではないだろう。そこで、首相をはじめとして、赤坂自民亭に出ていた大臣や議員は、政治家としての給与の全額もしくは一部を災害の復興のために支払ったらどうだろうか。手痛いくらいの罰がなければ、また同じようなことをくり返しかねない。

 赤坂自民亭に首相とともに出ていた防衛相は、会の中で酒を飲みながら、災害の報告をそのつど受けて指示していたとしていたが、あとになってそうではなかったとひるがえした。はじめに言っていたことは嘘だったのである。まるで意味のないちんけな嘘をついたのだと見なさざるをえない。この嘘のつき方は国会での首相とよく似ている。これで国の防衛を司るのはおかしいことだ。首相は国会で、災害への政府の対応ははじめから万全だったとしているが、そうではなかったことは明白である。

 豪雨の災害に二〇億円のお金を出すのは、十分とは言えないのであり、首相によるこれまでの経済政策が成功していないことを裏打ちしていると見ることができる。もし経済政策が成功しているのであれば、もっとお金を出せるはずである。お金をもっと出せるのとともに、もっと事前に自然災害への備えにお金を使えただろう。被災者や支援者が暑い戸外や室内で苦労している中で、カジノ(総合リゾート)法案を無理をしてでも国会でおし通すこともいらないはずだ。政府がもくろんでいることが、国民一人ひとりの生活を豊かにすることにはつながっていないことを示しているのだととらえられる。