女性と母親というたとえの設定ではあるが、じっさいには(自民党の議員の人は)女性にとっての母親ではないし、女性がこうだったと言っている言い分を聞いてもいない(現実にもとづいたアレゴリーには必ずしもなっていない)

 仕事がほしいという目的で、妻子がある男性と二人で食事に行く。それでお酒をたくさん飲んで意識をなくす。それを介抱してくれた男性のベッドに、半裸で潜りこむようなことをする女性がいたとして、その女性の母親だったとしたらしかり飛ばすだろうと、自由民主党の議員の人はツイートをしていた。

 その女性の母親だったとしたらしかり飛ばすとして、そんな女性に育てたおぼえはないと言う。恥ずかしいし、情けないことであり、もっと自分を大事にしなさい、と言うとのことである。

 女性の母親だったらしかり飛ばすとのことだが、男性のほうをしかり飛ばしたらどうだろうか。もし男性が紳士のような人であれば、女性のことをおもんばかるはずであり、自分の劣情にそのまま動かされてしまいはしないものだろう。すべての男性にそれを求めることはできないかもしれないが、そうしたことができる男性もいるはずだ。

 女性とその母親というたとえで言うのであれば、女性の言っている言い分を母親は聞くことがあるのがよい。しかしじっさいには、このたとえでいえば、女性の言っている言い分を母親は聞かないで、ちがったふうに一方的に決めつけてしまっているのがある。自民党の議員の人のツイートは、女性よりも、女性に性の被害を与えたとされる男性のほうの言い分を聞いて、女性の言っている言い分はまちがいだと母親はしてしまっている。なぜ母親は、女性ではなく男性のほうの言い分を聞き入れているのかが不可解だ。

日本で排除をされたことについての応報律がある(不正義は何らかの手だてによって回復されなければならないものだろう)

 イギリスの公共放送である BBC は、日本の秘められた恥と題するテレビ番組を放送したという。この番組はドキュメンタリーであり、日本で性の被害を受けたとされる女性に照明を当てている。

 このイギリスの BBC の番組に出た女性は、日本の社会から排除されたと見てさしつかえないものだろう。この女性が、絶対にまちがいなく性の被害を受けたとは言い切れず、そこには留保をつける見かたができるのはあるかもしれないが、日本の社会がまったく正しいというのではないのがあるから、日本の社会におけるおかしさやまちがいを浮きぼりにすることにつなげられる。一か〇かでとらえるのではないようにできるとすると、まったくおかしさやまちがいがないとはできづらい。適正さよりも効率を日本の社会がとってしまっていることにたいするおかしさやまちがいを指し示すことができる。

 BBC のテレビ番組に出た女性は、性の被害を受けたのがあるとして、そこで排除されて、さらにもう一度排除されている。二重に排除されているわけだ。こうしたことがおきてしまうのは、日本の社会に創造性が欠けていることをあらわす。個人としてはそのように見なしてみたい。

 創造性が欠けているのは、被害を受けたことによるなどして困っていたり苦しんでいたりする人の声をきちんと受けとめていないためである。まともに声を受けとめていないのにもかかわらず、為政者は日本がよいとか美しい国だなどとうそぶいている。よいのや美しい国だというのも一面においてはあるかもしれないが、そのいっぽうで、創造性に欠けているのもたしかだ。これは定性によるものであり、定量によるものではないけど、数値ばかり追いかけて、その数値による効果がとられている。実質や内実は軽んじられてしまっているのは無視できづらい。

人種で差別してもよいのだというまちがった勘ちがいがされてしまいかねないので、フランスのように憲法を改正するのはできそうにない(国民的な合意があるわけではない)

 フランスでは、憲法の改正で、人種の文言をなくすのだという。なぜそうするのかというと、人種はないものだということによる。人種はないのだという合意が、広く国の議員のあいだでとられているそうだ。

 同じことを日本でやったとしたらどうなるだろう。フランスとはちがい、日本では人種の差別がかえって強まったり深刻になったりしてしまうにちがいない。日本では、国の議員のあいだで、人種というのはないものだという合意はとれそうにない。日本人という民族や人種はあるのだという見かたが、とりわけ与党の政治家において、根づよくとられている。

 フランスとはちがい、日本ではまだ憲法の文言から人種というのをなくさないほうがよさそうだ。フランスでは人種の文言を憲法からなくしてもうまく行くのかもしれないが、日本で同じことをしてもとうていうまくは行かないだろう。よくなることはなく、悪くなることが危ぶまれる。

 なるべく自民族中心主義や人種へのこだわりを弱めることができるようであればばさいわいである。その逆に、強めるような動きがとられているのがあるので、憲法の文言から人種というのをなくす段階にはほとんどまったくいたっていないのは認めざるをえない。

男性にあっただろう落ち度を矮小化してしまうのはいかがなものだろうか(努力義務をぬかりなく果たしたとはできづらい)

 性の被害にあった女性には、女性として落ち度があった。自由民主党の議員の人はツイートでそう言っているが、それにたいして、勇み足の発言だとする批判が作家の人から投げかけられている。勇み足だというのは、不用意なことを言うと、日本を攻撃する材料にされかねないということのようだ。海外の報道機関が日本を攻撃するための材料にされかねない。

 自民党の議員の人は、女性として落ち度があったというふうに言っているが、逆に、男性として落ち度があったということが言える。男性がなるべく落ち度のないようにして、手つづきをとることができていれば、性の被害はおきづらい。

 イギリスの警察は、性の被害をおこさないためのあり方を周知する映像をつくっている。その中では、性のやりとりを紅茶を飲むことになぞらえている。相手に無理に紅茶を飲ませてはならないし、相手が紅茶を飲みたい気持ちがあるのかを確かめることがいる。お酒が入っているときには、まちがいがおきかねないので、紅茶を飲むのはやめるようにしたほうがよいとしている。

 まちがいなく男性が性の暴力をふるい、性の被害を与えたのかというのは、確たる証拠がないのであれば、そうであると断言することはできそうにない。完全に有罪だとはできないのはあるかもしれないが、それとは別に、男性に落ち度がなかったとは言うことはできづらいのがある。まったく落ち度がないのをかりに数字で一〇〇であるとすれば、そこから減点されることになる。減点がなく一〇〇であるのなら落ち度はないわけだが、そうであるとは見なしづらい。

 男性に落ち度がまったくないのを一〇〇として、そこから減点で見るというのは、落ち度のないものは現実にはないというのがあるから、現実というよりも理想による論法ではあるかもしれない。理想としては一〇〇であることがのぞましいが、現実にはそれはできづらいのはあるとして、男性は点数を低めないようにして、少しでも高めて行くように努めることはできるだろう。無理難題というほどのものとは見なしづらい。

 性のやりとりというのは、男性にとって利益となるものがあるので、そこには相手に害を与えかねないという危険がつきまとう。それなりの(かなりの)利益と、それなりの(かなりの)危険さがある。お互いにとっての利益になるようにして、危険さをできるだけ減らすようにするために、手つづきをおろそかにしないようにできればよい。

食べるものを手に入れるにはお金がかかるのだから、衣食住をまかなうのに十分なお金が人々に支払われることがいるが、すべての人にそれができてはいない(安全網としての社会保障もまったく十分ではない)

 いまは食べるものに困る家はない。こんなにすばらしい幸せな国はない。自由民主党の議員の人はそう言っていた。これには素直にうなずくことができそうにはない。

 かりに、いまは食べるものに困る家はないのだとしても、それはその家やその家の中の人が、それによってすばらしいとか幸せだとかと感じることであり、国がどうとかという話ではない。たとえ食べるものに困っていないのだとしても、幸せでない人もいるのだから、客観的に見てすばらしい幸せな国であるわけがない。

 食べるものに困らないのは、生きて行くためにいることなのだから、それは満たされることがいるものである。満たされることがいるものが満たされたからといって、それですばらしいとなったり幸せになったりすることにはならない。食べるものに困らないというのが満たされていても、幸せではなく、苦となるものを抱えて生きている人は少なくないだろう。それを自己責任であるとして政治は放ったらかしにしてしまっているのではないかというのがある。

 すばらしい幸せな国ということでは、昔に比べていまはどういう点でよくなっているのかや、また逆に悪くなっているのかを見るようにしないとならない。通時でそれを見るのとともに、共時では、ほかのさまざまな国に比べて、ここがよい点だとか、または逆にここが悪い点だというのを見るようにする。よい点はあればよいことだが、悪い点がまったくないというのは考えられないので、そこを改めるようにすることがいる。そこを改めようとしないで、すばらしい幸せな国もへったくれもない。

 すばらしくもないし幸せでもない国なのだと客観で言うことができるのではないかもしれないが、すばらしい国だと感じていなくて幸せではない人がいないとは言えないのだから、そうした人の声を十分に聞き入れて受け入れられるかどうかが大事である。それがほとんどまったくできていないのがある。人々が国をありがたやとしてあがめたりうやまったりするようなことはとくに不要なことである。それをやりたい人はやるのはよいけど、ありがたやとしていれば負のことがらが片づくわけではない。国をありがたやとしていても、たとえば国の財政の赤字は消えてなくなることはなく、借金は増えつづけていっている。

 経済などの格差がまったくないわけではないのだから、どこかで笑っている人がいれば、その陰では別のどこかで泣いている人がいるはずだ。泣いている人は声を発さないことが少なくない。泣き寝入りさせられてしまう。かりに日本がすばらしい幸せな国なのだとしても、それはすべての人にとってではないのであり、偏りがあるものだろう。ひどくなれば過労死などで命を失うこともあるのだし、そうしたおきるべきではない犠牲の(隠ぺいと抹消の)うえに国の秩序は保存されている。

 食べるものにはさしあたって多くの人は困ってはいないかもしれないが、そうであるのとは別に、どうしようもなくなってしまっているのがある。政治では、立ち場のちがうもの(政治家)どうしのあいだで、話し合いがほとんどまったくといってよいほど成り立たなくなってしまっているひどいありさまである。それで権力者は平気でにこにこへらへらとしている。これが正常だと言うわけにはちょっと行かない。真面目ではなくちゃらちゃらしているふうに映る。

 自分で家庭をもちたいと思っていても、経済などのことでそれがかなわない人は少なくない。これは失政がもとになっていることではないかというふうに見ることができる。家庭を持ちたいという人が気軽に家庭を持てて、子どもを気軽に産めて育てられるようなことができるためには、十分なお金が人々に支払われていないとならない。支えられることがいる。それらがすべての人にできていないのに、すばらしく幸せな国であるわけがない。じっさいにできていないのはおろか、希望すらもつことができないありようになっている。それができていたり、希望したりするのを求めるのは、そこまで高のぞみというわけではないだろう。

社会人としての基礎力が与党の政治家の人たちに十分にあるとは言いがたいと見なせるので、心配である(すべてというわけではなく、例外はあるけど、少数だろう)

 首相に社会人基礎力はあるのか。残念ながら、まったく足りていないし、すごく欠けているのではないかという気がしてならない。これは首相のみならず、とりわけ与党の政治家の人たちに言えることではないかと個人としては見なせる。

 社会人基礎力とは、二〇〇六年に経済産業省が打ち出したものであるそうだが、とりわけ与党の政治家の人たちは、社会人ではないのだろうかと首をひねらざるをえない。打ち出したのは二〇〇六年だということだけど、その時期から劣化してしまって今にいたっていそうだ。広く身につけることを目的としているのであれば、それに失敗してしまっているととらえられる。

 社会人基礎力には、前に踏み出す力と考え抜く力と集団ではたらく力があるという。もしこれらが与党の政治家の人たちに十分にあるのであれば、森◯学園や加◯学園の問題が、ここまで時間がかかってしまうはずがない。やるべきことはすでにわかっているのだから、それをやればよいはずだけど、やろうとする気はまったくといってよいほどないようだ。社会人基礎力があればそれでよいというわけではないのだろうが、そのうちの色々な力がいちじるしく欠けてしまっているのに、どうして国のかじ取りをきちんと行なえるというのだろう。そこが個人としては不思議でならない。

犯行を行なう前に、判断停止(エポケー)のようなものがあったら、ちがう判断がとれた見こみはあるだろう

 ウェブのやりとりがもとで、人がナイフで刺されて死亡した。ナイフで刺した人は、ウェブで低能先生と呼ばれていて、ウェブの他のユーザーのことを低能などとして批判の書きこみをしていたという。サービス(はてなブックマーク)を荒らしていたことにたいして、ナイフで刺された被害者は、自分のブログでとり上げて、サービス元へ通報をしたとされる。そのことを根にもったことで、ナイフで刺したと見られている。

 ナイフで刺された被害者は、まちがったことをしたから、ナイフで刺されてしまったのだろうか。必ずしもそうとは言えそうにない。低能先生と呼ばれている人は、荒らしの行為をしていたのがあるので、それをよくないことだとしてサービス元に通報したり、そのことをブログに書いたりすることは、そこまで行きすぎたことだとは言えないものである。たんにあったことやおきたことを記事としてブログに記したり、サービス元に通報したりするのは、そんなにおかしな行為ではないだろう。

 とくにおかしな行為をしたわけではないから、刺されるいわれがないにもかかわらず、ナイフで刺されてしまったということが言える。刺されるいわれがないというのは、刺された人が行なったことは、それ自体としてはとくに問題のないことだというのがあるからである。そうではあるが、ブログに記事を書いたり、サービス元に通報したりすることによって、低能先生と呼ばれる人が、追いこまれてしまったのはあるのかもしれない。

 刺された人や、サービス元(はてな社)は、とくに悪くはないというのがある。低能先生と呼ばれる人は、犯行を行なったあとに、そのことをウェブに記していて、その中では、サービス元にも犯行を行ないに行こうとしていたとほのめかしている。しかし足がつっているのでそれをやめたとしている。さらに、改めて見れば、サービス元にはそこまでうらみはなく、恩があるというふうに述べている。

 刺された人と、低能先生と呼ばれる人のあいだには、行きちがいのようなものがあったのだと見なせる。渋滞(誤解)の現象がおきたのだというふうに見なすことができる。いかなる理由があったとしても、不慮の事故などを除いて、人を殺すことはあってはならないことであり、それを正当化することができるものではない。特別な事情を除いて、人を殺すことは不正義であると言わなくてはならない。他人ごとの偽善ではあるかもしれないが、それはあるのは確かである。

 低能先生と呼ばれる人は、一重のなにか(居場所など)に支えられていて、それがうばわれることを苦にしたのかもしれない。これは効率をとりすぎている社会の責任でもあるということができる。一重ではなく多重で支えられていれば、その中の一つがうばわれたとしても、そんなに苦にすることはなかっただろう。

悪魔の擁護者には、日本を好きなのや国を愛するのでは見こめないような、大きな効用や値うちがあるのではないか(まちがいなくそうだというわけではないかもしれないが)

 日本を好きだったり、日本の国を愛したりする。それにたいしてじゃま立てをするのは悪いことなのだろうか。そうしたじゃま立てがないあり方はのぞましいあり方なのかというと、必ずしもそうだとは言えそうにない。

 じゃま立てがないあり方がほぼできているものが現にあり、それがいまの政権与党だと言うことができる。いまの政権与党は、政権にたいする反論や異論がほとんど出ないようになってしまっている。ほとんどの人が首相を中心とする政権のほうに顔を向けている。理想としては、まんべんなく顔の見えづらい国民を広く見るようでないとならない。

 いまの政権与党のあり方は健全なのかというと、そうではないものだということができる。これは人によって色々な見かたができるものかもしれないし、もっとくわしく見て行くことができるものではあるだろう。そうしたのはあるが、集団の中で反論や異論が気安くできないのは息苦しいものである。

 日本を好きだったり、日本の国を愛したりする人を増やすのではなく、悪魔の擁護者(devil's advocate)がたくさんいるようにするのがのぞましい。悪魔の擁護者とは、反論や異論を言う人である。そういう人がいく人もいることによって、いまの政権与党のような、みんながみんな首相をおもんばかり、そちらを向いてしまうような不健全なあり方を避けるようにすることができる。幅広く色んな意見を気安く言うことができるようであることで、開かれた公共性をとることができやすい。

 反論を言ったり異議を言ったりするのは、一見すると毒となるところがあるが、それはひるがえって薬となるのが見こめる。判断や意思決定がおかしいままにつき進んでしまうことに歯止めをかけやすくなるのが見こめる。その歯止めがほとんどかかっていないで、つき進んでしまう一方であるのが、いまの政権与党であるということができる。ゼロではないにせよ、ほぼ不在となってしまっている悪魔の擁護者がいく人も集団の中にいれば、加速度がついてつき進んでしまうのを防ぎやすい。加速度がついてつき進んでいってしまうのは、イエスマンにこと欠かないせいだろう。

 イエスマンばかりに囲まれていれば、対立点をつくることがおろそかになってしまいやすい。それはのぞましいものではないのがある。たとえめんどうであったとしても、イエスとノーという対立点をあえてつくって、それで肯定にたいする反対説をとるようにすることができれば、もしかしたら肯定よりも反対のほうが適しているのだということに気がつくきっかけをとりやすい。たんに肯定をとるだけで、対立点をまったくとらないのであれば、反対をとらないことになるので、反対を見てみるというきっかけをもつことができづらい。

子どもを産むのと産まないのとで、どちらのほうが幸せかというのは、あまり意味があることではないかもしれない

 子どもを産まないほうが幸せだというのは身勝手な考え方だ。自由民主党の議員の人はそう言っている。みなが幸せになるために、子どもをたくさん産んで、国も発展して行こう、としている。貧困問題については、いまは食べるものに困る家はないとして、こんなにすばらしい幸せな国はない、と述べている。

 子どもを産むか産まないかという前に、結婚をするかしないかは人それぞれの自由である。いちおう一つの段取りとしては、結婚をして子どもを産むというのがあるので、結婚をしないのは身勝手とは言えないし、子どもを産まないのもまたそうだろう。

 子どもを産むというのは義務ではないから、産まないという権利がある。自己決定権をとるものである。そこについて、はたから干渉する父権主義(パターナリズム)をとらないほうがよい。みなが同じ環境や状況で生きているのではなく、それぞれがちがう外や内の事情をかかえているので、単純に比べることはできないものである。

 国家の上位には世界があるが、世界では人口が増えつづけている。人口が増えていることで、食料が不足するなどの問題がおきている。人間がいることで自然を壊してしまうのがあるので、人間が増えることはよいことだとは言い切れない。減ったほうがよいという見かたも成り立つ。

 国家の中では、人口が増えるのがまちがいなくよいことなのだろうか。そこには疑問符がつく。人口が増えると、競争が激しくなるので、厳しさは増す。人口が少ないほうが、競争が激しくなりづらいので、生きて行くのにゆとりをもちやすい。これは単純すぎる見かたではあるかもしれないが、人口が少ないほうが、多いよりも、競争相手は少ない。

 子どもをたくさん産むことで、幸せになったり国が発展したりするかというと、そこの結びつきはそこまで確かなものではないだろう。人口が増えることによって、すべての問題が解決したり、すべての困難が克服されたりするという、打ち出の小づちのようなことは見こみづらい。人口の総数が多いと、充実した社会福祉のサービスができづらいと言われる。そうしたサービスを受けられないでいる人も少なくない。

 子どもをたくさん産むというのは、頭数を増やすということだろうけど、頭数を増やすことよりは、社会の中で女性の活躍をうながすのはどうだろうか。教育に十分に力を注いで、男性と女性がともに活躍することができるようにする。フランスの思想家のシャルル・フーリエはこう言っているという。女性の特権(権利)の伸張はあらゆる社会的進歩の一般原則である。学者のエマニュエル・トッドは、男性とともに女性が社会の中でしっかりと活躍することができるようになることで、平和につながって行くと説いている。

 子どもを産まない幸せというのはあってもよいものだろう。それがあってはいけないとか、身勝手だというのは、子どもを産むことの幸せだけが正しいということだろうか。たしかに、子どもを産むことの幸せはあるだろうし、それは尊いことだが、その逆がまちがっているというわけではない。正しいことが一つあり、その反対のことがまちがっているというわけではないから、反対の逆だけが正しいということにはならないものである。気力がない人に、気力を出せ、というのは、たんに逆を言っているだけであり、どちらもとくにまちがっているわけではない。

 子どもを産まない人が少なからずおきているのは、都市(東京都)への一極化が強くなりすぎているからだという説が言われている。この説によることにすると、都市(東京都)への一極化を和らげるようにして、地方へ分散させて行くのができればよい。子どもを産んで幸せに生活ができるような環境を整えることによって、移住や定住ができるようにしている地方の自治体もあるという。それをもっと国が主体となってうながすようにするという手だてはとれそうだ。

働くというのは必ずしも善ではない(無駄なものをつくっている)し、善ではないよくない働き方をまず見ることがあればよい

 働き方をよくする。働き方改革高度プロフェッショナル制度は、そのためにとられているものだろう。それがほんとうに働き方をよくするのにはつながらずに、かえって悪くなることが危ぶまれている。

 働き方をよくするために、何をすることがいるのかといえば、長時間労働や、低賃金や、過労死などの負のことがらをなによりも先に見なければならない。負のことがらを率先して見なければならないのがあるけど、それを見ないで、正のことがらをやろうとしてしまう。負のことがらを見ていないので、政権与党がやろうとしている正のことがらは、おかしなものになる。

 働き方をよくするために、負のことがらを見るのは、欠くべからざるものである。長時間労働や、低賃金や、過労死などで犠牲になっている(なった)人たちの声を聞くべきである。それがないことには、のぞましい働き方の改革をとることはできづらい。

 働き方において、いちばん悪くなっていたり、いちばんおかしかったりするところを見るくらいでちょうどよい。これはいちばん悪いとか、これはいちばんおかしいというところを見て、そこからそれをどう正すのかという話になる。せっかく働き方を改めるというのであれば、深刻に悪いところやおかしいところを見ることがあればよい。それによって、きちんとした改め方につなげられる。

 働き方を改めるのは、社会の中での差別や抑圧を改めるのに通じるところがあると見なせる。社会の中の差別や抑圧を改めるのには、じっさいにそれによる被害を受けて苦しんでいる人の声を受けとめないとならない。それがないことには改まりようがない。害をこうむっている人が声を発せられるようにして、その声を受けとめられるようにする。その声を生かすような形で、改めるための手だてをとるようにする。

 上から演繹で進めるのではなく、下から帰納でやって行くのがのぞましい。下で危機におちいっている人たちの声を受けとめるようにして、そこを認識するのでないと、働き方のおかしさについての的を得た危機意識をもつことができづらい。国の危機というより前に、個人の(とりわけ弱者の)危機を見るべきである。国という全体は不真実であるということを無視することはできづらい。

 経済の市場では等価交換でものがやりとりされるが、それは表面のものにすぎず、じっさいには差別が横行する。その差別によって被害を受ける人が少なからず出てくる。労働の市場では、長時間労働や、低賃金や、過労死がおきる。あるべきではない不正や搾取がおきてしまう。

 働き方を改革するというのは、今まで行なわれてきた働き方の汚れをとり除いてきれいにするというのをあらわす。汚れをそのままにして、働き方を改めることはできづらい。汚れたままにして目をつぶって耳をふさいでいるのが政権与党だろう。そうではなく、まず汚れがあるのを認めて、それをどうするのかを見ることができればよい。

 汚れをとり除くのに適した役をになうのは、長時間労働や、低賃金や、過労死などで犠牲になったり苦しんだりしている人たちであり、その声を受けとめるのが欠かせない。働くことにおいて、中心ではなく周縁に位置づけられてしまっていて、抑圧されてしまっている人たちを、中心にもってくるようにできればよい。周縁に位置づけたり抑圧したりして犠牲を生んでいることが、国という全体においての欺まんだろう。

 能力や生産性が足りないから、低い評価を受けて当然なのだろうか。評価のものさしが単一であるのは、たった一つの角度からしか人を見ることにならないから、適した評価になりづらい。色々な角度から見ないとまっとうな人への見かたにはならないが、それよりも単一の見かたによる効率をとってしまうのが経済である。効率をとってしまうことで、適正さがないがしろになってしまう。

 効率がとられて、適正さを欠くなかで、生活苦などの苦境におちいってしまうのは、自己責任とは言えないものだろう。ひどいと過労死にまでいたってしまうこともある。過労死というのはゆるがせにはできない事件であり、働き方を改革するさいにそこをきわめて重大なこととして見なさないのは、与党に属する政治家の人たちの怠慢であると言わざるをえない。長時間労働や低賃金などについても、改めるべきものとして重んじて見ることがあればよい。

 社会としての個人と、個人としての個人というのを、切り分けられればよい。これは思想家の吉本隆明氏によるとらえ方である。社会としての個人は、経済で高い評価を得たり低い評価になったりする。そこはやむをえないものだが、個人としての個人というのはまた別に見ることがいる。個人としての個人は無条件でわけへだてなく生活の安心を得られるようにできればよい。

 個人としての個人が生活をするさいにいるものである、最低限の衣食住などの基本となる必要は、みなに行きわたるようになっていることが、よいことであると個人としては見なせる。理想論にすぎないものではあるかもしれないが、個人としての個人の領域は、無条件のものとして、経済の数値による単一の評価ではからないようであれば、おかしなことになりづらい。