日本ともののあはれ(日本という国や民族よりも、もののあはれのほうが優先されると一つには見なすことができる)

 日本人はみな、もののあはれを分有している。日本人にはどこかにもののあはれを見いだせる。愛国心や日本を愛するということよりも、そこを見るのはどうだろうか。日本人にもののあはれがあるというふうに見てしまうと、ステレオタイプにおちいってしまうのはあるかもしれない。

 心理学者のユングは、普遍の無意識があるというふうに言っているという。そこから、人類に共通して当てはまるものとして、もののあはれがあるというふうに見なしてみたい。必ずしも日本にたいする愛国心や、日本を好きであることはとらなくてもかまわないとできる。日本にたいする愛国心や日本を好きであることに限定されない。日本という国や民族にかぎらず、色々なものにたいして、もののあはれをとることができる。

新聞をとるのに協力をしないほうがよいとして、新聞を茶化している場合ではないのではないか(新聞への不信をあおるようなことは、新聞を悪玉化して排除していることであり、それで解決するものではないだろう)

 アメリカのドナルド・トランプ大統領に、ものを言えるのが、日本の首相である。財務相はそう言っていた。自由民主党は、経済でよい結果を出していて、それは数字で示されているという。自民党への支持は、若い世代で多いといい、その世代は新聞を読まないそうであり、新聞をとる(購読する)のには協力しないほうがよい、と述べている。

 財務相のなかでは、きっとこうなっているのだろう。若い世代は新聞を読まない、その世代は自民党を支持している、若い世代に支持されている自民党は正しいのであり、正しい自民党を支持している若い世代は正しい。新聞は読まなかったりとらなかったりするほうがよい。

 若い世代から自民党は支持されているだとか、若い世代は新聞を読まないだとかというのは、もうひとつ説得性が感じられないものである。一般論としていえば、どちらかといえば、若い世代は新聞を読むべきだろう。読まないのがよいことだとは言えそうにない。

 財務相は、新聞をとるのに協力しないほうがよいとしているが、これはおそらく、自民党にとってのぞましくないものをなくそうとすることを言っていそうだ。新聞がなくなれば自民党にとって都合がよい。自民党にとって都合がよいことは、日本をよくすることにそのままつながるものではなく、かえって悪くすることになりかねないのだから、日本をよくすることはまた別に見なければならない。

 新聞は社会の公器なのだから、それによって報道されるものの質を高くすることは、人々にとって益になる。直接に新聞を読むのではないにせよ、間接には新聞の情報が引かれて別のところで報道されるのがあるから、間接に新聞の情報に接しているのがある。間接には接しているのだから、新聞をとらないのに協力するというのではなく、報道の質を高めるための手だてをとるようにするほうがよい。

 新聞で報じられることが、自民党のやろうとしていることや言っていることと食いちがう。そのさいに、新聞がまちがいで、自民党が正しいとは見なしづらい。どちらも可びゅう性をもつのであり、自民党は無びゅうというわけではない。新聞を批判として見るのがいるのと同じように、自民党のやることや言うことも批判で見なければならないものだろう。

 現実におきたことを新聞は報じるが、そのさいに、現実をそのままあらわすのではなく、受けとりやすい形に加工している。現実の情報量が一〇だとすると、新聞で報じることは一〇ではなくてそれよりも下回る。下回ったのがかりに六くらいだとすると、財務相をふくめて与党の政治家の言うことは、その下回ったのよりもさらに下回っていることがある。二か一くらいで、悪ければマイナスのこともある。新聞も、ときにマイナスとして誤報をすることがあるだろうけど、大手の新聞であれば、全部が全部そうであるわけではない。

 現実の情報量が一〇だとすると、新聞で報じることははそれよりも下回るが、与党の政治家の言うことはその新聞よりもさらに下回っているととらえらえる。新聞が政権与党と一体化して大本営発表のようになっていないのであれば、政治家は新聞に肩を並べたり上回ったりすることはできづらい。新聞は情報を報じるのを専門にしているが、政治家はそうではないから、基本として政治家は上回りづらい。たまには新聞よりも上回ることがあるかもしれないが、それはほんのときたまのことであるだろうし、現実そのままのものではない。

 現実の情報量が一〇だとして、そこから差し引かれたものが新聞の情報である。その差し引かれているのは、新聞が現実を媒介していることによる。媒介しているのを、現実をあらわしていないことだとするのは、ふさわしい見かただとは言えそうにない。現実を媒介することで、現実の情報量から差し引かれるわけだが、現実を媒介せずに、直接にものごとをあらわせるものではない。あたかもそれができるかのように見せかけることはできるが、それは財務相をふくめた与党の政治家による嘘である。虚偽意識(イデオロギー)の産物にほかならない。

日本が好きだったり愛国心をもったりするのは、一つの範ちゅうであり、その中にはさまざまな価値のものがあると見なせる(すべてよい価値をもっているわけではない)

 日本が好きな人の足を引っぱるのはよいことではない。日本が嫌いな人がいてもよいとは思うが、日本が好きな人のじゃま立てをするのは駄目だという。タレントの人はテレビでそう言っていたけど、日本が好きだったり愛国心があったりするのは、一つの集合だと見なせる。その集合の中にはいろいろな人がいる。それを無視しづらい。

 日本が好きだったり愛国心があったりするのは一つの範ちゅうであり、その中にはさまざまな価値がある。すべてがよい価値をもっているとは言えそうにない。なかには悪い価値をもっているものもある。たとえば憎悪表現や差別などである。憎悪表現や差別は悪い価値であるから、そこへの批判をするのはいる。自民族中心主義が行きすぎてしまうのはまずいので、それが行きすぎないように歯止めをかけられればよい。

 憲法の改正についても似たようなことが言える。一と口に憲法の改正とはいっても、その範ちゅうの中にはさまざまな価値がある。なかには負の価値をもつものもあるのはたしかだ。負の価値をもつものとしては、とにかく何が何でも憲法の改正をする、といったものである。何が何でも憲法の改正をするのは、手段の目的化であり、のぞましいことではないだろう。そうしたものをひっくるめてしまい、憲法の改正ということでまとまってしまうのであれば、そのなかには負の価値のものが混ざりこむ。それについて批判をすることができるのがある。

 日本が好きか嫌いかや、愛国心があるかないかは、一か〇かではなく連続したものだろう。性でいうと、男性と女性は一か〇かではなく連続したものだと言える。らしさの度合いである。それと通じるところがある。一か〇かではないというのでは、好きでなければ嫌いであるとは言えそうにない。好きでないとしても、嫌いであるとは言い切れず、単色ではなくいろいろな色によるのがある。両価(アンビバレント)ということがある。

 純粋に日本が好きだとか、純粋に愛国心があるというのは、むしろおかしい。混じり気なしに好きだったり愛国心があったりするとは考えづらく、何か混ざりものがあるものである。人間は純粋なものではなく、不純なものだというのがある。もし純粋であれば天使のようなものだが、そうであるのだとすれば、法律はいらないし国や政府もまた無くてすむ。

 日本が好きだったり愛国心をもったりする人が、ほんとうに日本が好きだったり国を愛していたりするとはかぎらない。うわべで言っているだけであり、ほんとうは逆の気持ちをもっているかもしれない。ほんとうは逆なのであれば、言っていることをそのまま受けとるのではなく、その逆がほんとうのことだとして受けとることがいる。

 好きか嫌いかや、愛国心があるかないかというのは、そこまで明らかなものとは言いがたい。そのあいだの線は揺らいでいるものである。たんにうわべで言っているだけのこともあるから、そうだとすれば、好きか嫌いかや愛国心があるかないかは、そうたいしたちがいではないということになる。嫌いをうら返して好きにくみ入れられないではない。相対化することができる。東洋の陰陽の思想では、陰と陽は相対のものであり、転化することがあると言われる。

 日本は客体として、好きになられたり嫌いになられたり、愛国心をもたれたりもたれなかったりするわけだが、そうされる客体の日本は動いて行くものである。するほうの主体の人もまた動いて行く。客体と主体のどちらも動いて行くのだから、好きは好きのままだったり、嫌いは嫌いのままだったりというのは、そこまで自然なものではないだろう。主体のもつ気持ちが、ときに温まったりときに冷えたりするのはあってよいものである。一つの感情による単眼ではなく、いくつもによる複眼で見ることができたほうが、つり合いをとりやすい。

 アメリカの女流作家のウィラ・キャザーは、ひとりでは多すぎる、ということを言っているという。ひとりではすべてを奪ってしまう、としている。これは恋人のことを言っているもののようだけど、国や民族にたいしても当てはめることができる。自分が属する国や民族だけではなく、そのほかの国や民族との関わりは欠かせないものである。交流や交易をすることがいる。

 国や民族のあいだに対立がおきてしまうとやっかいだが、そのさいに、自分が属する国や民族を正しいとするのではなく、それを相対化できれば、激しい対立を避けて和らげることにつなげられる。自分が属する国や民族は、一つの物語だとできるので、物語は一つではなくいくつもあったほうが相対化することができるのでのぞましい。一つだけではなくさまざまなものにふれる方が、視点が多くなるので有益である。

十四才の女子中学生がもつ見識の高さと、かたや国の政治をつかさどる権力者のていどの低さを、つい対比してしまった(主観のものではあるかもしれない)

 平和とは当たり前に生きることである。沖縄の戦没者の追悼式で、十四才の女子中学生が、自分でつくったという詩を朗読した。その中の一節である。この詩では平和について語られているが、国の政治をつかさどる権力者よりもはるかに高い認識にもとづくものだと受けとめられる。平和ということで言えば、沖縄県にすむ十四才の女子中学生のほうが、国の政治をつかさどる権力者(やそのとり巻き)よりも、はるかに本質をついている認識をもっているのが、詩の中にうかがうことができる。

日本が好きだというのがじゃま立てをされるのが問題だというよりは、日本が好きだというのを上位におき、そうでないものを下位におくのがあるから、その不対等さを無視できづらい

 日本が嫌いな人がいてもよいとは思う。しかし日本が好きな人をとがめるのはやめたほうがよい。日本が好きで愛国心をもつ人の足をひっぱるなということである。タレントの人がテレビ番組でそう言っていた。別の出演者は、アメリカは右派も左派もアメリカ国旗を振っているのに、日本では日本国旗を振るのがはばかられるのがおかしいと言っている。

 日本が嫌いな人がいてもよいとは思うということだけど、好きか嫌いかの二分法でとらえたさいに、嫌いだと振り分けるのは必ずしもふさわしくない。日本が嫌いだから日本のことを批判するのではなく、日本のことが好きだからそうしていることがある。好きだからほめるというのをしたとして、ほめられたものがまちがいなくよくなるとは言いがたい。ほめることがあだになることは少なくない。

 アメリカの国旗は、たんにアメリカを象徴しているだけではなくて、民主主義を象徴したものでもあるという。民主主義をよしとする意思をとるためにアメリカ国旗を振っているのもあるそうだ。それに引きかえ日本国旗を振ることは民主主義をよしとすることにはつながりづらい。たんに日本という国をよしとするくらいのものだろう。なので条件がちがうので同じものとしては比べられないのではないだろうか。

虚偽の報道をしていると特定の報道機関を決めつけてしまうのは必ずしも正しいことではない

 虚偽の報道をしている。そのように報道機関のことを決めつけてしまうと、ステレオタイプの見かたになる。虚偽の報道が問題だというよりも、むしろステレオタイプの見かたのほうが問題なのではないか。どちらかだけがまずいというのではなく、どちらもまずいということではあるかもしれない。

 かりにステレオタイプのほうに焦点を当ててみるとすると、虚偽の報道ということについて、改めて見直すようにすることができる。虚偽の報道も中にはあるだろうけど、そうであると決めつけてしまうのは、臆見(ドクサ)や偶像(イドラ)によっているのがある。それらによって認知のゆがみとなる。そのゆがみは、ものさしによるから、ものさしを改めるようにすることができればよい。

 ものさしを絶対のものとはしないようにすることができれば、認知のゆがみを少なくすることにつなげられる。そのうえで、虚偽の報道が行なわれているのを批判することができれば、決めつけではないようにすることができる。報道をする方と、それを受けとる方の、どちらかというのではなくて、どちらにおいても、純粋なわけではなく、不純なものである。何らかの形の認知のゆがみが少なからずはたらいていて、それを完全にはまぬがれられない。

人間が労働から少しずつ解放されて楽になって行くのが進歩や発展だという気がするのだけど、そうはなっていないのはなぜなのだろう(これまでの歩みのふり返りが足りなかったり、不公平になっていたり、どこかおかしなところがあったりするからなのではないか)

 生産性の低い人が、残業代をもらうのはおかしい。残業代は生産性の低い人にたいする補助金であるという。経済学者の人はそう言っているが、生産性が低いから残業をして、残業代をもらうとはかぎらないものだろう。生産性が高い(低くはない)けど、残業代が出るから、それを見こして残業をやっているのかもしれない。個人の生産性とそこまで強い相関関係があるかは断定できそうにない。

 働き方改革で、高度プロフェッショナル制度を政府はおし進めようとしているが、そのなかに加わっている経済学者の人も含めて、一つの正解幻想によっているところが見うけられる。一つの正解幻想は、心理学者の伊藤進氏によるものである。正解は一つではなくいくつもあるのにもかかわらず、一つしかないという幻想におちいってしまう。

 正解は一つだとして、それによってものごとをおし進めて行くのではなく、反対となる説やちがう説にも目を配るようにするのがよい。おなじ山を登るのに、どこの道から登ろうとするのかというので、いろいろな道による登り方があってよいものだろう。ここしか道はないといっても、じっさいにはいろいろな道があるのであり、その中で適した道を選んで行けばよい。

 正解は一つしかないのだとするのは、柔軟性が低いので、基本としてまずいことだが、その正解としていることがまちがっているのであれば、なおまずいことである。正解としてとられているものに、よいことばかりがあるというのはまず考えづらい。何ごとであっても、一つの利があれば一つの害があるはずだ。これをすることによってこういう利があるが、その反面でこういう害がある、というふうに言ってくれれば親切である。そうではなく、利しかないみたいなふうに言うのだと、疑わざるをえない。何らかの意図が隠されているのではないかというふうに見られる。

 働き方改革高度プロフェッショナル制度をおし進めるのに加わっている経済学者の人は、人材派遣会社の経営にたずさわっているそうだから、そういう立ち場性をきちんとみなに示したうえで、それから自分の説を言ってもらいたいものだ。経営者の側に立っているのか、それとも労働者の側に立つのか、どちらに重きを置いているのかを明らかにしたり、もしくは、経営者の側からすればこれが正しくて、労働者の側からすればこれが正しい、というふうにしたりすることができる。それらを総合して万人にとっての一つの正解というのは強引であり無理がある。

 説を言うさいの、発言者を一つの情報の経路だと見られるとすると、その経路が客観ではなく主観なのだとすれば、言っていることをうのみにすることはできづらい。経路が主観によっているのだとすれば、それは客観とはできないのだから、説得性は下がってしまうものだろう。何かを言うさいに、その発言者である経路は、多かれ少なかれゆがんだり偏ったりしているものではあるが、そのゆがみや偏りをそのままに、何でもないようなふうにしてしまうのであれば、ゆがみや偏りがそのまま伝達情報に出てしまわざるをえない。

割り切ってしまうことによる日本的なあり方がある(よさをもつものとしてとらえられる日本と、日本的なあり方を、分けて見ることができる)

 日本をとり戻す。そのとり戻そうとしている日本は、よいものだということだろうけど、その逆に悪いものだとしたらというふうにも見られる。悪いものをとり戻すということになってしまう。悪いものなのであれば、とり戻さないほうがよい。

 日本をとり戻すというのは、日本的なあり方と言える。この日本的なあり方というのは、よいものとしてではなく悪い意味で言っているものである。日本をとり戻すというさいには、これまでしばらく日本でないものが主となっていたのを、それが駄目だというのがわかったので、日本をとり戻すという流れである。この流れはよいものだとは言えそうにない。

 非日本と日本という二つがあるとすると、非日本になっているのを改めて、日本をとり戻すとなる。非日本は駄目なものだったとして、日本をのぞましいものとして価値づける。こうして見てしまうと、非日本と日本をねばりをもって見ることにつながらない。非日本の中にもよさと悪さがあり、日本の中にもよさと悪さがある。それぞれによさと悪さがあるというふうに見られればよいが、そうではなく、どちらかを駄目なものとして、もう一方をよいものとして割り切ってしまう。この割り切りは、日本的なあり方だと言える。

 割り切ってしまう日本的なあり方は危ないものだと見なせる。できるだけ割り切らないようにして、ねばって見ることができればのぞましい。ねばらずに割り切ってしまうと、非日本を駄目だとして日本をよいとするとらえかたになる。これが危ないのは、日本をよいものとしているのが、ほんとうは悪いことがあるからである。悪いものをよいとしてしまうと、とらえちがえてしまい、悪い方へ進んでいってしまう。

 非日本を駄目だとして、日本をよいものだとするのは、二元論によるものであり、これはそれぞれを実体化するものである。日本を実体化することになるが、非日本あっての日本なのであり、関係によるものなので、実体であるとは見なしづらい。実体なきものが日本なのであり、それはとり戻しようがない。よさだけをもつ日本というのは無いものであると言えるだろう。

海外(西洋)のテレビ番組を少しだけ見たさいに、海外のほうが日本よりも優れているところがあるという印象を受けた(主観の見かたにすぎないものではあるが)

 性の被害にあった女性が、海外のテレビ番組に出ていた。それをちらっと見ただけなのだけど、司会が男性と女性で、性の被害にあった女性の話をきちんと聞いていた。

 もし日本のテレビ番組で同じことをしたらどうなるだろうか。ゆったりと間をとって司会の人が出演者の話を受けとめるというふうにはできづらそうだ。出演する人を、何らかの属性で見なしてしまう。テレビ番組を見るほうも、テレビに出演する人を属性で見なしてしまい、動機論の忖度をはたらかせる。動機を邪推してしまうのである。一人の人間として受けとめづらい。寛容性をもつことがむずかしい。色々なところに気を使わざるをえないので、開かれたあり方をとりにくく、閉じてしまいがちだ。

 海外のテレビ番組をもちあげて、日本のテレビ番組をくさすのは、公平な見かたではないかもしれない。単純な比較はできないかもしれないが、テレビに出る人やテレビを見る人の主体のちがいというのは少なからずありそうだ。西洋では絶対の主体であり、個人が自立している。しかし日本は相対の主体であり、属性や関係が重んじられる。個として受けとめるのができづらい。個よりも属性や関係が先行してしまい、その色眼鏡で見てしまう。その場の空気や場面がどうかというのが主となり、和の拘束がはたらく。