セクハラ罪はないというのは事実だとしても、それを言うことによって事実とは別のことを意図してしまっている

 セクハラ罪はない。これは事実を述べたものである。財務相はそう言っていた。セクハラ罪はないという事実を述べただけだということだろう。たしかに財務相が言うようにセクハラ罪というのはないわけだけど、そもそもセクハラ罪はないというのはどういうことなのだろうか。

 セクハラ罪がもしあると仮定すると、セクハラという罪に当てはまるものには、これこれの罰を与える、というふうになる。または、これこれの罰を与えるというのではないにしても、セクハラは罪であることを明らかにしている。

 セクハラ罪がもしあるものだとすると、セクハラは負の価値をもつものであり、してはならないことなのだというのをあらわす。すべきではないということだ。セクハラをするべきではないという当為(ゾルレン)を命じるものである。

 セクハラをするべきではないという当為を命じるのがセクハラ罪であるから、それがないのであれば、ではどうするべきなのか(どうするべきではないのか)を言うべきなのではないか。セクハラ罪はないというのは、どうするべきかの当為がないというのに等しい。当為がないという事実を言っているだけでは不十分であり、どういう当為がふさわしいのかを言うことがいる。

 財務相は、事実を言っているだけだというけど、事実とともに価値までにも言及してしまっている。セクハラ罪はないのだから、セクハラ罪には問えないので、厳しく責めるべきではない、といった価値に触れている。くわしく見ると、財務相は価値にまで言及しているのであり、事実を言っているだけだとは見なせそうにない。

 百歩ゆずってかりに財務相が事実を言っているだけなのだとしても、事実と価値を別々に見ることができる。事実を言ったところで価値はまた別にあるのだから、価値がどうなのかについてを言うべきである。セクハラ罪はないというのは、セクハラ罪があるべきなのか無いほうがよいのかには関わってこない。セクハラ罪があるべきなのか無いほうがよいのかを言うのや、セクハラをなくして行くのがよいのかそれとも放ったらかしたままでよいのかの、自分がよしとする倫理を示してもらわないと、大臣の価値観が見えてこない。

自然現象ではないのだから、ありえるということですませてしまってよいものとは見なしがたい(信頼の失墜であり暴落である)

 どの組織でも改ざんはありえる。省庁にかぎらず、会社などでもおきることである。財務相はそのように言っていた。改ざんは組織というよりは個人によるものであるとしている。

 財務相が言っているのは、改ざんに問題が無いとするのに等しい。修辞(レトリック)を用いることで問題を拡大(希釈)してしまっている。改ざんはどこでもありえることだとしているけど、公文書はどこでもあつかっているものではないだろう。公文書をあつかっているのは、公的な政治にたずさわるところに限られるものである。

 公文書の改ざんは犯罪なのであり、それをしたのかしなかったのかは、わずかなちがいなのではなく大きなちがいである。犯罪が行なわれたのであれば、大ごとだと見なさなければならない。軽いことであるとするのであれば、軽はずみで改ざんを行なうことを誘発してしまいかねない。

 改ざんについて価値判断をするときに、自分が財務大臣であるという立ち場をはずして見なければならないのがある。立ち場をはずさないと、身びいきの見かたになってしまいかねない。身びいきの見かたをするのだと、特殊な見かたになり、偏ってしまう。多くの人を納得させることはできなくなる。

 自分が財務大臣であるときと、その立ち場ではない野党のときとで、同じことを言うのでないと、一貫性がないし、説得性が低い。非一貫的な発言になってしまっている。法を重んじるのにおいては、非一貫的なのではなく一貫したものであるのがのぞましいものだろう。自分が財務大臣であるときにかぎり、特殊的に甘い見かたになるというのでは、法を重んじることになっていないので、全体の利益をいちじるしく損なう。公平性を欠く。

 公文書の改ざんという政治の犯罪があったのかなかったのかをはっきりとさせることがいる。それをはっきりとさせるのは、それがもしあったとしたら(見すごすことができない)危機であるからなのが一つにはある。重大で深刻な危機なのだから、それを解決するためにきちんと対応しなければならない。財務大臣がもし野党の立ち場であれば、省庁による公文書の改ざんに甘い見かたをしないはずである。自由主義からすると、立ち場を入れ替えてみたときに同じことが言えなければならない。

非倫理と虚無主義のいちじるしい退廃の空気によっているのだとすると、国会で与野党がやりとりをする意味ははたしてあるのだろうか(非倫理と虚無主義を少しでも改めたほうがよい気がする)

 国会に出ないでいるのはのぞましいことではない。ふつうはそう見なせるものだろう。国会に出ないでいるのは離脱(ディタッチ)であり、国会に出るのを参与(コミット)とできるとする。ふつうは国会に出るのがのぞましいが、ふつうではないこともありえないではない。

 ふつうではないのであれば、国会に出ないことも肯定されるのではないか。選挙で選ばれた代議士(政治家)が国会に出るのはふつうのことであり、自明のことである。その自明であることをカッコに入れてみることができる。カッコに入れて、ふつうであるのを改めて見るようにすることで、ふつうであるからよいとするのに待ったをかけてみたい。

 ふつうであることによってかえって悪くはたらく。自明であることをとり外してみれば、そういうふうに見ることができる。国会に出るのがふつうのことであるとすると、むしろ逆に国会に出ないようにするのがいることがあるのではないか。国会に出ないようにするというのをもっとつっこんで言うと、国会に出る資格が無いのではないかということだ。

 国民にたいして嘘をついたり、虚偽の答弁をしたり、重要な記憶をなくしたり、ごまかしたりするのであれば、国会に出て話し合う資格はない。厳しく言えばそのように言うことができるものだろう。あたかも、さも当然のごとくに国会に出る資格があるかのようにふるまうのは、おかしいことなのではないだろうか。

 国会に出ないでいて、野党は何連休もしているというふうにいうのがあるけど、そのいっぽうで、下手の考え休むに似たり、なんていうことわざがある。たとえ国会を休んでいないのであっても、下手の考えであるのなら、休むに似たりだ。上手に話し合うのならよいけど、そうでないのであれば、下手の考えであり、休むに似たことであると言わざるをえない。休んでいる方がましであり、休まないでいることで悪くなってしまうこともないではない。

 国会を休まないのがよいことだとは必ずしも言うことはできそうにない。野党が気持ちよく国会に出てこられるように、与党は自己修正をするべきではないだろうか。国会を休んでいる野党にたいして、猛省をうながしたいと与党の議員は言っていたけど、これだと自己修正はできていないし、するつもりがなさそうだし、一方的になってしまっている。双方向でやって行くようにすることがいる。

 いちじるしく倫理観が欠けているのであれば、いくら選挙で選ばれているとはいっても、国会に出てくる資格はないのであり、それを与党は少しくらいは省みてみたらどうだろう。いちじるしく与党の倫理観が欠けてしまっているわけではなく、そこまで現実はひどくなければよいのだけど、じっさいにはどうもそこまでひどいもののような気がしてならない。

戦争をやってもよいというくらいの信任があるというのは、聞き捨てならない発言だ

 われわれは、選挙によって、戦争をしてもよいというくらいに信任されている。極端な話ではそのように言えるという。五年前に、政権与党の政府高官が記者に述べたことだそうだ。この政府高官が述べていることは、はなはだしいかんちがいであるのにほかならない。

 選挙によって、戦争をしてもよいというくらいに信任されているとは言いがたい。あくまでも限定的に信任されているにすぎず、絶対的に信任を与えられているわけではない。戦争をしてもよいというくらいに信任されているのだとすれば、絶対的に信任されているということになり、主権を絶対化してしまっている。主権を最上位に置いているものであり、危険なとらえ方である。

 戦争をすることになれば、国民にとって最大の不幸(の一つ)をまねく。自分たちの国を守るためには、戦争をするのではなくて、それを避けなければならない。戦争になれば、自国と他国の人々がぶつかり合うことになる。他国の人々や他国がもつ兵器(武器)によって、自国の人々に傷を負わせたり殺したりすることになる。

 戦争とは、他国の人々や他国がもつ兵器(武器)によって、自国の人々に傷を負わせたり殺したりすることである。哲学者のシモーヌ・ヴェイユはそのように言っているという。この戦争の定義によることで、(戦争はいけないことなのだという)平和主義をとることができる。自国の人々に傷を負わせたり殺したりするのであれば、それは不正義であると言わなくてはならない。

 確率は完全にゼロにはできないかもしれないが、できるかぎり戦争を引きおこさないようにして、その確率を引き下げるようにして行く。その義務を果たしてもらいたいものである。戦争は違法な手段なのだから、それをやらないようにする義務はあっても、やってよい権利は基本として無いはずである。建て前としてはそう言えるものだろう。

 人間は死の恐怖の経験をすることによってはじめて理性による反省をすることができる。死の恐怖の経験の生々しさが薄れて風化してしまえば、理性による反省も弱まってしまう。大戦という死の恐怖の経験をすることによって、理性による反省をとり、不戦の誓いがたてられる。この不戦の誓いは決してないがしろにすることはできないものだろう。戦争をやってもよいというのは、この誓いをはなはだしく軽んじるものであると言わなくてはならない。軽んじてしまうのではなく、その重みや意味を改めて見直すようにしたほうがよさそうだ。

対話のための対話と、改憲のための改憲

 対話のための対話には害はとくにない。しかし、改憲のための改憲には大いに害がある。対話のための対話はとくに問題と見なさないでもよいものだけど、改憲のための改憲は大いに問題視することがいる。そのように見なさざるをえない。

 首相は、対話のための対話には意味がないと言っている。それを言うのであれば、改憲のための改憲のほうこそが問題である、としたい。改憲のための改憲では、手段の目的化になってしまっている。手段と目的が自家撞着になってしまっているものである。

 何が何でも絶対に改憲をしてはならないということではないのはあるだろう。そうであるからといって、必要条件や十分条件を満たさないでもよいということにはならない。急ぎ足で改憲をめざすのは帝国主義にほかならない。これは(個人的には)肯定することができないものである。

 改憲をするさいの必要条件として、急ぎ足で改憲を目ざしてはならないというのがある。これは立憲主義を破壊するものだと見なせる。改憲を目ざすのだとしても、急ぎ足にならないようにして、歩幅をそうとうに小さく刻まないとならない。時間を十分にかけて慎重にして行くことがいる。なぜ歩幅をそうとうに小さく刻まなければならないのかというのは、最初の歩みはじめの出発点でまちがっているおそれが小さくないからである。最初の歩みはじめがまちがっていると、そのごもずっとまちがうことになるので、歩幅が大きいほどに認知の歪みが激しくなってゆく。

 改憲のための改憲をしないようにするためには、対話のための対話をいとわないようにするべきである。対話のための対話をするくらいのゆとりがほしい。対話のための対話だと思っていたのが、じっさいには対話のための対話ではなかったということはないではない。対話のための対話だったのが、途中から対話のための対話ではなくなることもある。

 改憲を急がなければならないという理由はとくにないのだから、対話のための対話をしていてはならないということはないはずである。対話のための対話をするのは価値がゼロのものではないだろう。改憲のための改憲は、害になってしまうおそれがけっして小さくない。改憲のための改憲ではない改憲と、改憲のための改憲を、きっちりと区別するべきであり、それらを(改憲派ということで)いっしょくたにするのはのぞましいことではない。いっしょくたにしてしまうと、改憲のための改憲と分別がつかなくなる。けじめがついていない。

セクハラ罪がないのであれば、むしろ(だったら)省としてもっと時間と労力をかけて調査をして、真相がどうだったのかを十分に見て行き、セクハラがあったのかどうかをはっきりとさせるようにしたらどうだろう

 セクハラ罪という罪はない。セクハラは殺人や強制わいせつとはちがう。財務相はそのように述べているという。たしかに、言われてみれば、セクハラ罪という罪はないのはある。しかし、セクハラ罪という罪がないのなら、セクハラをやり放題でよいわけではないだろうし、セクハラを殺人や強制わいせつと比べるのは、比べる対象が極端でありおかしい。

 セクハラ罪という罪はないのは、セクハラに罪はないのと同じではないものだろう。セクハラに罪はないのなら、セクハラに罪はないと言えばよい。そう言うのではなくて、セクハラ罪という罪はないと言うのなら、セクハラ罪という罪はないけど、セクハラには罪があるということもできる。

 セクハラをどうしてもしなければならないというのは考えづらいので、その必要性があるとは見なしづらい。必要性がとくにないのにもかかわらずセクハラをするのであれば、それを受け入れることはできないものである。ほんの少しくらいであればともかくとして、明らかなものだったり、常態化していたり、度を超えたものだったりすれば、セクハラが自明となってしまいかねない。

 セクハラにたいしての認識は、それをする方とされる方とでは、ちがった認識のしかたになる。セクハラをする方は、セクハラをすることで自分が不快になるわけではない。される方は、セクハラをされることでいちじるしい不快や被害をこうむることがある。セクハラかどうかを決めるのは、する方ではなくてされる方なのがあるので、される方の言い分が重みをもつ。

 セクハラをされる方の言い分が重みをもつというのは、一つの文脈であり、それがすべてではない。別の文脈もあることはたしかだけど、される方の言い分に重みをつけるという文脈は無視することができないものである。そこにできるだけの寛容さをもつことはいるものだろう。あるていどの確かさの証拠があるものについて、寛容さをもたないようにしてしまうと、閉じてしまうことになり、対等にならなくなってしまう。対等でないのは、セクハラを生んでしまう土壌となりかねないものであり、助長してしまいかねないものである。

まだ小さい子どもの止まらないしゃっくり

 うば車に乗った小さい子どもが、しゃっくりをくり返していた。そのしゃっくりがかわいらしく耳に響いた。しゃっくりが止まらないらしくて、しばらくやりつづけていたようである。小さい子どもではあるけど、一人前にしゃっくりをしていて、それがういういしいようなふうだった。

選挙によって選ばれるのだけが政治ではないだろう(選挙によって選ばれることによる政治には、それ特有の力学がはたらいてしまうのがいなめない)

 デモをやるよりも選挙のほうが大事である。デモをするよりかは、選挙のときに何ができるのかをとるほうがよい。テレビ番組で出演者の人がこうしたことを言っていた。デモでは社会は変わらないとして、デモに否定的な見かたを投げかけている。

 デモよりも選挙をとるべきだということだけど、この意見にはちょっと賛同できないという感をいだいた。デモも選挙もどちらも大いにやったらよいというのがある。民主主義のチャンネルを選挙の一つにしぼることはなく、デモもとても大事な意思を示すチャンネルの一つである。

 選挙は制度であり形式であり、デモはそれとは別の実質であると分けられるかもしれない。この二つの分け方は、必ずしも正しいものではないかもしれないが、形式が実質をきちんとくみとっていないために、形式は形式となり、実質は実質として、分かれてしまっているのがある。

 選挙は形式であり、それが大事だというのはできるけど、それを重んじすぎると、実質が少なからず変質してしまうのがある。選挙で選ばれるのは国民の代理であり、間接の民意が示される。直接の民意ではない。ここにずれがおきるのであり、そのずれがいちじるしく高まってしまうことで、実質とのかい離によってデモがおきる。デモによって言われることが民意のすべてではないだろうけど、貴重な一部ではあるだろう。

 いくら形式の制度であるとはいっても、選挙はとても大切なものであるのはまちがいがない。選挙の結果を尊重して、正当さを認めることはいるものである。そうはいっても、選挙はもれなくすべて正しいのだとかすばらしいのだとは言えそうにない。選挙(の過程と結果)の範ちゅうの中にも色々な価値がある。選挙の過程と結果を、すべてよいものだとして単純化や一般化はできそうにない。

 選挙を尊重するのはいるけど、それによって選ばれた多数派が横暴をはたらかせているのであれば、声を上げることはいるだろう。そこで声を上げないのは、多数派をよしとしているものであり、それはそれで駄目だというわけではないけど、その一方で、多数派のあり方がよいことにはならない。多数派が横暴をはたらかせているのであれば、それは民主主義ではなく専制や独裁に変質してしまっているのにほかならない。民主主義の選挙によっているからといって、専制や独裁に転化しない保証はない。過去の歴史の実例にもそれは示されている。

 デモの範ちゅうの中にも、さまざまな価値のものがある。すごくよい価値のものも中にはあるものだろう。とはいっても、それは人によって評価がちがってくるものではある。評価はまちまちであるものだけど、性急に単純化や一般化をするのには待ったをかけられればよい。

 デモによって意見をあらわすのは、それがしぶしぶ許されているというものではなく、れっきとした権利の一つである。大目に見られていてしかたなく許されているものではない。表現の権利の行使として、もっとしきいが低くなり、盛んに行なわれればよい。それによって民主主義が活発になって行くのではないか。それで活発になれば、必ずしもデモで社会は変わらないとは言えなくなってくる。にわとりと卵ではないけど、社会が変わらないからデモをやらないというのではなく、少しでも変わるかもしれないということでデモをやるのは、それほどおかしなこととは言えそうにない。

問題の軽重としては、軽いと見ることもできなくはないが、重いと見ることもできる(重いとして見るのがまちがっているとは必ずしも言えないものである)

 野党はいつまでも森◯や加◯学園の問題をやっている。討論を行なうテレビ番組で、参加者の人がそう言っていた。これにたいして、別の参加者の人は、野党がいつまでも問題を引きのばしているのではないとする。与党が嘘をつかなければとっくに片づいていることであるという。

 森◯や加◯学園の問題は、与党にとってはやりたくないことであり、ずるずると片づけるのを引きのばしつづけてしまっている。ずるずると引きのばしつづけて、時間が経つうちにうやむやにしてしまおうという魂胆が透けて見える。そうは長くは人々の関心は持続しないだろうとの思わくだ。

 時間が経つことによってうやむやにしようというのを、そうはさせないとするのが(一部の)野党であるけど、それはのぞましいことなのだろうか。のぞましくないというふうにも見られるし、のぞましいというふうに見ることもできる。かりにのぞましいと見るとすると、義務論と帰結主義の二つから見ることができそうだ。

 義務論からいうと、たとえほかにもっと大事なことがあるのだとしても、そういった大事なことがほかにあるからというのを理由にして、森◯や加◯学園の問題をいい加減にすませてよいことにはならない。与党や省庁に疑惑がかけられていることにたいして、それをできるだけみなが納得できるような説明を十分にするように努めることがいる。

 疑惑にたいする説明は、形だけ時間をかければよいものではなく、実質としてなるべくみなの腑に落ちるものでないとならない。腑に落ちるような説明を与党がするのにはほとんど期待はできないけど、だからといってやらないでよいことにはなりづらい。きちんとした説明を与党に期待してもしようがないというのはたしかにあり、またほかにもっと大事なことがあるのもたしかだけど、義務を果たすのを求めることはいるだろう。任意ではなく必須として疑惑についての十分な説明と解明に努める義務を果たすことを求めたい。

 帰結主義からいうと、疑惑の中には、公文書の改ざんや虚偽答弁があり、これらは政治の根幹を揺るがしてしまうような大きなことがらであるので、そのままにしてしまいうやむやにすましてよいものとは見なしづらい。きっちりとかたをつけることがいるものだろう。もし時間が経つうちにうやむやになってしまうのであれば、帰結からいってきわめてまずい結果をまねいてしまうと見ることができる。きちんと事実や原因の解明もせずに、ふみこんだ問題の解決がされないままにすまされてしまう。悪い前例をつくってしまうのだから、同じことがまたおきてしまいかねない。

 義務論と帰結主義からいっても、与党は森◯と加◯学園の疑惑にきちんとまともに時間と労力をさいてとり組むべきだといえそうだ。そう言うのだとして、義務論としてはともかく、帰結主義からいうと、別のことも言えるのはあるかもしれない。見かたによっては、森◯と加◯学園に大きな力を注ぐのではなくて、それらはそこそこにしておいて、別のことに大きな力を注いだほうがよい、という見かたも成り立つのはあるかもしれない。

テレビ番組の放映のあり方を構造として批判するのがあればよさそうだ(BPO の正気さを問うのは、まったく正気でないということはないだろうから、あまり有益ではないような気がする)

 放送倫理・番組向上機構(BPO)は、善悪や正邪の判断ができるのか。それができるとは言いがたい。その理由として、BPO は極端に偏った組織であり、反日や左翼であるためだという。

 倫理とは、善悪や正邪の普遍の判断をすることであり、BPO にはそれができるとは見なしづらいという意見が言われている。BPO は自分たちなりの倫理を持っているのがあるだろうから、おそらく善悪や正邪の普遍(建て前)の判断ができないことはない。

 BPO を批判するとなると、BPO による普遍の判断とはまたちがった普遍の判断を持ち出すことになる。どちらか一方だけが普遍の判断ができるというのではなくて、どちらもできるか、またはどちらも限定的にしかできないということになると見なせる。どちらかだけが完ぺきな判断ができるというわけではない。

 BPO を対人論法として批判するのはどうなのだろう。極端に偏った組織だとか、反日や左翼だとかいうのは、言いがかりとして響く。極端に偏っているか、またはまったく偏っていないかというのは、極端な見かたである。多かれ少なかれ、組織であれ人であれ、まったく偏っていないことは少なく、たいていは偏りがあるものである。ていどのちがいにすぎないことが多い。

 BPO を批判するのではなくて、その判断の内容を批判すればよいのがある。判断の内容のここがおかしいというふうに具体として批判することによって議論をすることができる。判断と判断で討論をすればよい。限定的に正しいかまちがっているかということになる。

 反日や左翼だというふうに BPO を見てしまうと、属性で見ることになる。属性で見るのは、現実のあり方を見ることの妨げとなることがある。じっさいに反日や左翼というのが手で触れるものとしてあるのではないので、非現実であり非実在のものだということができる。属性であるにすぎないものであり、人為でつくり上げられているにすぎないものである。

 テレビ番組の内容が、できるだけきちんとした事実にもとづいて放映されていればそれでよい。それが目に見えてできていないのであれば、BPO から批判を投げかけられてもしかたがないものだろう。批判を投げかけられるのにたいして、BPO が極端に偏った組織だとか、反日や左翼だとかというので返すのだと、論点がずれてしまう。

 番組の内容に、不正確なところがなるべくないようにできればよい。反日や左翼だから番組が極端に偏るだとか、判断がおかしくなるとか、そういったことは決めつけにすぎず、現実にそうだとは見なしづらい。反日でも左翼でもなければ、番組が中立になるわけではなく、(それだけをもってして)判断が正確にできるわけではない。いずれにせよ中立にはできづらいものだし、判断が正しくできないことはある。何らかの価値判断をとるのは避けがたく、何をよしとするのかはさまざまであり、人によって色々な善があることはたしかである。