強気の策は、強者が行なうにふさわしいものなのだろうかというのがある

 もっと強気で行け。PM より。そう書かれたメモが、首相の秘書官の人から財務省の役人の人へ手わたされた。この PM とは首相(プライムミニスター)のことであると見られている。首相や総理大臣とはせずに PM としているのがかえって真実味があるように受けとれる。PM の語が首相のことを指すのだとすればの話ではあるけど、首相を指していることはおそらくほぼまちがいがないものだろう。

 財務省の役人の人にたいして首相はもっと強気で行けという指示をメモに記した。もっと強気で行けの指示は、はたして正しかったのだろうか。強気で行くのではなくて、強気で行くべきではなかったのではないかとも見ることができる。

 かりに強気で行くのがいるのだとしても、もっと強気で行けというのだけでは、なぜそうするのがよいのかがもうひとつはっきりとはしない。これこれこうだから、もっと強気で行けというふうにするのがあればよさそうだ。それがないで、たんにもっと強気で行けというだけなのはどうなのだろう。何の根拠もなしに、ただ強気で行けということと受けとれる。

 強気で行けば、その場では勝てるかもしれないが、その場で勝てればよいというのは得策なのだろうか。その場で勝てさえすればよいというふうには必ずしも見なすことはできづらい。その場で勝てばそれが正しいのだということは言うことができないものである。その場では勝てなくても(負けてしまっても)正しいことはある。勝てなくて負けることによって得られることはあるし、勝ってしまうとさして得るものがないというのもある。

 強気で行くといっても、相手あってのことなのだから、相手がどうなのかというのを抜きにすることはできづらい。相手が弱気に出てくれるとはかぎらないものである。お互いに強気で行くといったことになるとやっかいだ。ゲーム理論によるのをふまえてみると、お互いのなぐり合いといったことになり、お互いが損をこうむることにならないでもない。お互いにとって得にはならないことになる。どちらもが強気で行くことにより、どちらかが勝つことになるにしても、どちらが勝つのかは確実ではない。

 原則として、強気で行ったほうがうまく行きやすいのがあり、今まではそれでうまく行っていたのだとしても、何ごとにも例外がある。法則のようにして、何でもかんでも強気で行ったほうがよいのだというふうには必ずしも見なすことができそうにない。今回にかぎっては強気では行かないほうがよいのだということがないではないのがある。今まで強気で行ってうまく行っていたのは、たまたまの偶然が重なっていただけだということもある。

 強気で行くことで少なからず無理をすることになるのであれば、無理がたたってしまい、ほころびが出てくることがある。そのほころびが身を滅ぼすというふうにならないでもない。無理はそうは長くはつづけられないものであるのを無視できない。その反動(反作用)のようなものがおきてしまうとすると、それがどこでおきるかという話になる。いつまでも強気で行きつづけられることはできづらく、どこかで不連続になる転換点がおきるという予測がつく。過大化と過小化の循環だ。

重要なことがらで、無駄なやりとりが行なわれることもあるし、さして重要ではないことがらで、十分に意味のあるやりとりが行なわれることもある

 政治において、重要なことをとり上げる。それが大事なのであり、重要ではないことをとり上げるのはのぞましくない。国にとってさして重要でないようなことを野党はしばしばとり上げているので、それをやるのではなくて、もっと国にとって重要なことをとり上げるようにするのがよい。こうした見かたをとることができる。

 国にとってそこまで重要ではないようなことをとり上げるのはなぜよくないのかというと、一つには、そうしたことを長々と引っぱってやってゆくことで、時間が浪費されてしまうのがある。この時間の浪費は、やりようによってはあるていどは改めることができそうである。時間が非最適となっているのがあるとすると、それを最適化することができる。

 時間が非最適となっていることの一つに、政権与党の答弁の冗長さがある。首相の口ぐせである、いわばとか、まさにとかいった語は、改めて見ると不要なものである。なくてもかまわない。こうした語は答弁から削ってしまって、意味があることだけをなるべく口にすればよい。結論を先に(アンサーファースト)の答弁をするようにする。そうすればけっこう時間を最適化できるだろう。嘘は言わないで本当のことだけを言えばよいのだから、本当のことだけをさっと言うようにできればよい。

 国にとってそこまで重要ではないことを野党がとり上げると、たしかに時間の浪費になってしまうことがあるけど、たまには時間の浪費となるようなことがあってもよいのではないかという気がする。時間の浪費はすべからく無駄だとは必ずしも言うことはできそうにない。何が無駄になるのかというのは、視点のとり方によってちがってくる。短い目で見れば無駄だが、長い目で見れば無駄ではないということがある。どういった目的によっているのかによってもちがってくる。とり上げることがらが無駄か無駄でないかは、ものによっては定義することが易しくはない。

 とり上げることがらが無駄かどうかというのも無視することはできづらいが、それとは別に、政権与党の答弁の中に無駄なところがけっこうあるのも無視しづらい。政権与党のすべての人というわけではないが、人によっては、答弁をぎゅっと縮めたらほんの少ししか実がない、といったのもあるだろう。水増ししているような発言だ。ぎゅっと縮めたらほんの少ししか実がないのであれば、はじめからほんの少しの実のところだけを言えればよい。要領を得ないような答弁をできるだけ言わないようにして、達意になるように言うようにすれば、費やす時間が減り、国益にかなうのではないかという気がする。

 できるかぎりの客観で速やかな情報の伝え合いを、政治において行なう。主観をできるだけ払しょくする。あくまでもそれは理想であり、いきなり現実に実行はできづらいだろう。いきなりやらなくてもよいけど(いきなりできるのは理想だけど)、とり上げることがらが無駄かどうかというのとは別に、やりとりの中での無駄や時間の非最適なところもけっこうあるとすると、それを無視することはできそうにない。

魔法にかけられなければ出産をしなかった、ということなのだろうか

 魔法にかけられることで出産をした。加◯学園の獣医学部が新設されたことで、新しくできた獣医学部をそのように言いあらわす。入学式の場で、前愛媛県知事の加戸守行氏はそのように言っていたという。魔法というのは言い方としてどうなのかというのがあり、出産というのもまたどうなのだろうという気がする。だれが出産をしたのだろうか。

 辻潤という人のいろはカルタの中で、子はサンガーのミステイクというのがあると、思想家の吉本隆明氏が紹介していたのを見かけた。サンガーとはマーガレット・サンガーのことであるといい、産児制限をうったえていた人であるという。サンガーの言っているような産児制限に失敗することで子ができるというとらえ方である。

 加◯学園の新しくできる獣医学部は、もしかしたらサンガーのミステイクかもしれない。人間の子どもであれば、生まれてくることは縁起のよいことであり喜ばしいことであるけど、獣医学部であればそれと同じとは必ずしも言えそうにない。ほんとうに必要性があったのかと、許容できるものだったのかが、十分に確かめることがないままに進められてしまったのだとすれば、過程に問題がある。できてしまったのだからよいではないかとは必ずしも言えないものだろう。

選挙の妨害と、人々の生命本能(正義)の妨害(選挙が妨害されないことが、人々の生命本能を満たすことには必ずしもならない)

 首相は辞めろ。選挙の期間のときに、そうした叫びを一部の人があげていたのを、選挙妨害であると首相は言う。辞めろと言っていた人たちを、こんな人たちと呼び、こんな人たちには負けるわけには行かない、としていた。選挙の期間のときは、首相は候補者であり、候補者の演説はおとなしく聞いていなければならないとしている。

 首相が言うように、選挙の活動にたいする妨害はのぞましくはないことだろう。のぞましくはないことはたしかだけど、それとは別に、選挙がきちんと機能しているのだろうかというのがある。選挙の活動が妨害なく行なわれることと、選挙によって民意が正しく反映されることとは、必ずしも結びつくものではない。

 選挙の活動が妨害なく行なわれることで、かえって民意が歪められるということもないではない。選挙のあり方が、民意をぬかりなくすくい取るようになっているのなら別だけど、現実としてはそのようにはなってはいないものだろう。なので、選挙の活動が妨害なく行なわれれば、民意がぬかりなくすくい取られるという前提をとることはできそうにない。

 選挙には形式の合理性があることはたしかだけど、実質としての正義がはたされるものとは言いがたい。(一票の格差というのはあるわけだけど)一人一票として、平均の正義にはよっているが、実質としては、大衆迎合(ポピュリズム)になってしまったり、(高齢者の方には申し訳がない言い方になってしまうが)高齢民主主義になってしまったりする。投票率の低さも無視することができそうにない。

 少なくとも形式の合理性は選挙を行なうことで満たされるのだから、それでよいではないか、とすることもできないではない。そう見なすことはできないではないけど、それでよしとして終わりにするのに待ったをかけることができる。問題の発見ということでは、問題を発見することができるのがある。

 問題というのは、選挙のあり方(行なわれ方)の問題と、現行の政権の権力が維持されてしまうことの問題である。その二つの問題があるのだという気がする。選挙の行なわれ方では、有権者が判断するのにほんとうに必要な情報や争点が隠されてしまっているのがある。その隠された情報があれば、判断はまたちがってくるのがある。

 現行の政権の権力が維持されてしまうのを、よしとすることもできるけど、まずいとすることもできる。よしとする人が多いことで選挙には勝つわけだけど、よしとする人が多いからといってそれが正しいことだとは必ずしも言うことはできそうにない。よしとする人が相対として多くて選挙に勝ったからといって、問題が無いことを意味するわけではない。問題があるのにもかかわらず選ばれて(勝って)しまうことがある。

 問題があるのだとするのが正しいこともあるわけだから、そうであるのだとすれば、候補者の演説よりも、問題があるのだという訴えのほうが優先されてもよいのではないか(一つの試しとして)。それでは選挙が成り立たないというのもあり、選挙を成り立たせるのを優先させることもできるわけだけど(それがふつうだけど)、選挙を成り立たせるのを優先させることが、問題を隠してしまうこともあるのはたしかだ。

 選挙を成り立たせるのを優先するのはふつうのことだけど、そうすることによって、かえって問題が隠されてしまうのがあり、それを問題だとすることができる。これはあくまでも、選挙を成り立たせるという形式の合理性よりも、問題の発見をより優先させてみたさいの見かたによるのにすぎないものではあるから、大かたの人を納得させられるものではないのはまちがいがない。

手がらの真実味

 かりに自分(たち)の手がらであったとしても、そうではないとする。婉曲表現をとる。そのほうが、手がらであることの現実味や真実味は陰画(ネガ)のような形で浮かび上がるのではないか。

 これは自分(たち)の手がらであるのにほかならないとして、陽画(ポジ)としてしまうと、手がらではないのにそう言っているのではないかという見かたがとれてしまう。それを陰画として、別の陽画が立ち上がってしまうといったあんばいである。

土俵に男性しか上がれないのは、力への意志であり、さまざまな遠近法(パースペクティブ)の一つにすぎないとして相対化して見ることができそうだ

 相撲の土俵は、男性至上主義によっている。そこへ女性が上がるのは認められていないものであり許されるものではない。もし上がるということであれば、それはかまわないが、男性至上主義の人に襲われたり命をねらわれたりすることがあるのを覚悟したうえで上がるべきである。一つの見かたとしてこのように見るのがある。

 相撲の土俵は男性至上主義によっているとして、それは正しいことなのだろうか。相撲は武道のようなものであるとすると、武道の精神というのは、弱い者を助けて強い者をいさめたりくじいたりするものだと言えそうだ。その精神にもとることをやってはならないのがある。

 男性至上主義者が、土俵に上がった男性ではない人を襲うのは、卑怯なことであるだろう。他者危害原則に反している。その卑怯なことをよしとしてしまうのが相撲のあり方であるというのはちょっと筋が通りそうにない。卑怯なことをするのはあってはならないというのがまずはいるものだろう。

 相撲の土俵は男性至上主義によるものだというのがかりにあるのだとしても、それは安定したものなのではなくて、揺らいでいるものだと見ることができる。不安定になっている。男性至上主義による場所が土俵であるということの土台(根拠)はぐらぐらとしている。

 なぜ土台や根拠がぐらぐらとして不安定になっているのかというと、修辞(レトリック)によっているためなのがある。この修辞は啓蒙による神話だと言えるものであり、啓蒙が野蛮に転化してしまう。神話は啓蒙であり、啓蒙は神話に退化する。そうした啓蒙の弁証法がはたらく。

 男性至上主義を助長してあと押しするのが相撲の土俵であるとして、それはのぞましい場所(空間)であるといえるのだろうか。男性至上主義は誰がどう見ても正しい主義だとは言えないものであり、それを助長してあと押ししてしまうのであれば、きれいな場所(空間)だとは言えないことになる。きれいな場所(空間)に、きれいでないものを入れさせないというのがあるとしても、そもそもその場所(空間)がきれいではないものなのではないか。

 きれいではないから入れさせないとしているものを、客として迎え入れたらどうだろう。客迎えによるものである。そうすることによって不合理な差別をおこさせないことにつなげるきっかけにできる。男性至上主義をとっているとして、その場所に男性を客として迎え入れるのでは、不合理な差別はなくならない。男性でない人を客として迎え入れるのを、一つの試しとしてやるのはどうだろうか。画期(エポック)となるのではないかという気がする。

厳重でもないし、抗議でもないかもしれない(それはそれで悪くはないかもしれないが)

 北朝鮮にたいして、北京筋を通して、厳重に抗議をする。北朝鮮がミサイルをうったことにたいしての抗議を日本政府は行なう。説明ではそうだけど、じっさいには、北朝鮮大使館に抗議のファックスを送っていただけなのだという。これでは、北朝鮮に厳重に抗議するというフリにたいして、たんに大使館にファックスをしていただけなのだというオチがついてしまっているかのようだ。

 北朝鮮がミサイルをうったことに厳重に抗議すると言っておいて、じっさいにはたんに大使館にファックスを送っていただけなのが、もし本当のことなのであるのだとすれば、日本政府のこの説明のしかたにたいして、個人としては厳重に抗議をしてみたい。このような誇張の説明はできれば厳につつしんでもらいたいものである。やったことをなるべくありのままに言うのでないのであれば、正確性が損なわれてしまう。正確には、北朝鮮にたいして厳重に抗議したいのはやまやまだが、それは色んな事情でちょっとかないそうにないので、せめて(とりあえず)大使館にファックスを送っておいた、というふうに言うのなら正確性があまり損なわれずにすむ。

中立や公正であり、偏向ではないのは、自分への批判をさせないということではないものだろう(議論や判断や仮説と人格とをなるべく分けるべきである)

 報道が、中立や公正ではない。偏った報道をしている。中立や公正ではなく偏ってしまっているのがあるとして、それを改めるようにするのならわかるのだけど、それとは別に、中立や公正を義務づける放送法の条文をなくそうとする案が政権ではとられているという。この案には懸念がもたれている。

 放送法で中立や公正が義務づけられてはいるが、現実にはあまり守られていない。現実にはあまり守られていないからといって、意味がないわけではないと見ることができる。条文をなくしてしまうのであれば、ますます中立や公正から離れて、偏りがひどくなってしまいかねない。

 中立や公正を義務づけるとはいっても、あくまでも努力義務ということであれば、そうでなければ罰が下されるというわけではないものである。努力義務なのであれば、建て前としての条文であるにすぎず、それがあってもなくても同じなのかというと、必ずしもそうとは言い切れない。そうかといって、ただ条文があるだけだというのであれば、お飾りみたいなとらえ方もできるし、積極の意味あいはそこまではないというふうにも言えないでもない。

 首相は、(一部の)報道機関の報道にたいして、偏向しているというふうに言う。そのように言うのは、必ずしも的はずれなものではない。それにくわえて、そのように言いたい気持ちもまたわからないではない。報道機関の報道が、すべてがすべて的を得た(首相などへの)批判というわけではないものだろう。

 報道機関の報道が偏向してしまうのは、偏向させようという意図からのものではなく、色々な制約があるためなのがありそうだ。結果として偏向してしまうということである。時間や費用などの制約による。そうした制約がある中で、これくらいのものならという満足の水準を満たすものが報道される。送り手の水準と受け手の水準はずれてしまうものではあるけど、最高水準のものを送り手がとることはなかなかできづらい。

 理想としては最高水準の無偏向のものがよいとしても、現実としてはある一定の水準ということになってしまう。最高水準のものしか認めないというのは理想によりすぎるが、かといってあまりに内容が偏向しすぎたものであれば受け入れづらいのはたしかだろう。

 報道機関は色々な制約をもつために報道が偏向してしまうのがあるが、その制約を首相は悪用してはいないだろうか。首相がたまにテレビ番組などに出演するさいに、テレビでは時間が限られているのを逆用(悪用)して、じっくりとした議論をせずに、自分への批判の声を聞き入れないようにしてしまっている。印象操作だ、などとして、自分への批判をしりぞけてしまうのだと、議論にはならない。話の論点がずれてしまうのである。これはのぞましいあり方とは言えそうにない。

 もともとテレビなどでは、放映できる時間が限られているのがあるので、じっくりとした議論をするようにはできていない。そうしたことを逆用(悪用)してはいけないという気がする。逆手にとって逆用(悪用)するのを避けられればよい。いっぽうでは(一部の)報道機関の報道が偏向していると言っておいて、もういっぽうでは(偏向が生じてしまう要因の一つである)時間の制約という仕組みを逆手にとって利用するのであれば、矛盾しているというふうに言わざるをえない。偏向はよくないことではあるが、それとともに詭弁や強弁もまた同じようによくないことだという気がする。