神話(ミュートス)を知りたいのではない(上からの神話は演繹であり、必ずしも実質をもってはいない)

 ほんとうのことを知りたい。ことの真相を知りたいということで、その需要にたいして、供給がきちんととられているのかがいぶかしい。ほんとうのことや真相というのは、神話(ミュートス)のことではない。たとえ上から(上に都合のよい)神話が供給されたのだとしても、それで下の人たちがもつ需要が満たされるものではない。かえって不満が高まってしまう。

 上からの、上にとって都合のよい神話の供給ではなくて、真理(真偽)がどうなのかを知りたい。権力の維持は、何らかの神話によるのがあり、虚偽意識(イデオロギー)によるのがある。その神話や虚偽意識は、現実とぴったりと合ったものではなくて、ずれてしまっているものである。そのずれが大きくなってくると、おかしいのではないかという批判の声が高まってくることになる。この批判がまちがっているというわけでは必ずしもない。

 神話と現実というのをさい然と分けてしまうのはまちがいかもしれない。お互いに関係し合っているものであり、二つをはっきりと分けるのはできづらく、分類線は揺らいでいるものではあるだろう。

 現実の中に神話のようなものが少なからず混入してしまうのは避けづらいけど、神話が主となってしまうのだとまずい。現実を無視してしまうあり方である。神話を主としてとってしまうと、大きな物語や支配の物語となる。その物語がはたして通用するのかというと、いまは情報過密社会なのがあるので、通用しにくいものである。物語が破局になりやすい。

 上からの(上にとって都合のよい)神話としての物語が破局に向かい、雑音が混じってくる。物語の維持にとっては雑音はのぞましくないものだけど、そのいっぽうで雑音はときとして神話の物語の虚構をあばく。神話の物語の破局や分解は、雑音が混じることによっておきてくるとして、現実が更新されることにもつながる。大きな物語や支配の物語が完全には通用しなくなることをあらわす。神話の物語が陶酔の作用をもたらすとすると、それが破局することで覚醒(目ざめ)につながる。

 何が陶酔で何が覚醒(目ざめ)なのかというのは一概には言えないものだから、そこに気をつけなければならないのはありそうだ。とりちがえがおきることがないではない。それがあるとして、上からの神話による物語は、共同幻想であるのがある。集団主義として、集団を重んじすぎるのがあると、共同幻想が幅をきかせるようになる。そこから多少の距離をとれるのがあるとよい。

土俵に上がることの効用

 女性は土俵には上がれない。女性が土俵に上がったとしたら、ただちに土俵から下りるように強いられる。あとでたくさんの塩をまかれる。女性が土俵に上がれないのは相撲の伝統によるものらしい。この伝統ははたしてふさわしいものなのだろうか。

 伝統というのもあるのだろうけど、それとともに、既成事実だからということがありそうだ。教条(ドグマ)になっていて、既成事実だからということで重みをもってしまっている。その重みをとり払うことができるとすると、既成事実となっているからといってふさわしいものだとは言えそうにない。性の属性がどうかということで、不合理な差別になってしまっている既成事実であるのなら、それを変えたほうがよくなるのがある。

 女性が土俵に上がれたほうが、功利主義からいうと、全体の効用の総量は高くなる。世の中には男性と女性が半々くらいでいるものだとすると、女性は半分にあたるので、その半分にあたる女性が土俵から排除されているのは効用を損なう。みんながみんな土俵に上がりたいわけではないかもしれないが、上がれるのなら上がりたい人はいるだろう。いざというさいに、上がれるようになっていれば、さしさわりがない。

 今までがそうだったから、それを守った方がよいというのは、わからないでもないことである。気持ちとしてはわからなくはないものではあるけど、そのあり方がよいことなのかどうかはまた別の話である。社会関係(パブリック・リレーションズ)ということでは、どういった倫理観をもっているのかをつまびらかにするのがよい。一つの文脈による団体があるとして、それと世間とのあいだで一方向のあり方になるのだとまずい。双方向になるようにして、必要であれば修正がきくようであるのがのぞましいものである。相互流通することがいるものだろう。

国民には厳しく求めるが、高級な役人や政治家には厳しく求められない、といったことになっていそうだ(国内における倫理観の二重基準である)

 高い倫理観をもって仕事にのぞんでほしい。省庁の入省式で、新しく役人になる人に向けて、首相はそのように述べていたようだ。これについて、高い倫理観をもつよりもまずほかにもたなければならないものがあるのではないかという気がする。

 まず優先してやらなければならないのは、一般の国民と倫理観を同じにすることである。一般の国民とずれた倫理観をもってしまっていると見なさざるをえないようなことがおきてしまっている。それを改めるようにすることがいるだろう。

 一般の国民とは感覚がかい離してしまっているので、それを同じものにするように努める。かい離してしまっているところに問題を見いだすことができる。一般の国民には許されないことが、上級の役人(や政治家)には許されてしまっている。こうしたあり方ではなくて、一般の国民に厳しく求められることが、同じように上級の役人や政治家にも厳しく求められなければならない。

 高いところにいる人たちが、道徳的にすごくすぐれていて人間としてとても立派である必要は必ずしもないだろう。同じ人間であるという点ではそう言えるけど、倫理観ということでは、一般の国民と同じように、駄目なものはあくまでも駄目なのだというふうにしたほうがよさそうだ。上に立つ人を例外とするのではなくて、下の者と同じ原則をともに守るようにすることで対等に近づけることができる。

憲法の改正に前のめりになるのではなくて、後ずさりしたほうがよいとも見られそうだ

 いまの自衛隊防衛省のていたらくでは、憲法の改正(の議論)はできづらい。自衛隊が海外に派遣されたさいの日報が、当初は無いとされていたけど、それがあることがわかった。隠ぺいされていた疑いももたれていて、日報の文書の管理がずさんであることが批判されている。

 自衛隊防衛省を信用することができなくなったため、憲法の改正は遠のいた。そう言わざるをえないのだと、産経新聞の人や橋下徹氏はテレビ番組の中で述べていた。持論や(産経新聞の)社是としては憲法を改正するのをよしとしているが、それは自衛隊防衛省がしっかりとしていることがなければならないと言う。

 自衛隊防衛省を信頼することができるかぎりにおいて、憲法の改正をとることができる。このあり方は、憲法改正派であるとともに、護憲派にも近いものだと言えそうだ。護憲派と言っても色々とあるだろうけど、一つには、自衛隊防衛省を含めて、政府や政治が全体として信用できないから、憲法を変えるのはのぞましくないとしているのがある。

 無条件で、いかなるさいにも憲法の改正をするのだというのであればまた別だろう。しかしそうではなくて、条件がつくのであれば、たとえ憲法の改正をよしとするのだとしても、護憲派とそこまでは遠いものではない。護憲派においては、自衛隊防衛省を含めて、政府や政治に信用がおけないというのがあるとして、そういった信用ができないようなことが現実におきてしまっている。信用をいちじるしく損なうことがおきたのだから、護憲派のとっているあり方は非現実である、とは必ずしも言うことはできそうにない。

 憲法には、自衛隊自衛権が明記されているわけではないけど、個別的自衛権にかんしては、解釈としては持っているものだと見なすことができるそうだ。国を守るための必要最小限度の実力を持つことは解釈としては許されているものだと見なせるという。

 自衛隊は国を守ってくれるのはあり、おろそかにすることができないものではあるけど、自衛隊防衛省のあり方がいいかげんなものであるのなら、いざというさいに信用をもてと言われてもむずかしい。健全な精神と健全な肉体(物理の力)が両立していることがいるものだろう。

 憲法の改正をして、いまよりももっと自衛隊の権限を拡大するのは、国民の権限が拡大することを意味しない。むしろ、国民の権限は狭まるというふうに見なすことができる。かりに自衛隊の権限を拡大するにしても、自衛隊防衛省を含めて、政治の全体がそうとうにきちんとしていて、いい加減でないあり方であることがいるものだろう。

 憲法の改正への意欲をもつ前に、(省庁を含めた)政治の不正や腐敗を正すことに意欲をもつべきではないか。あとになってから、政治のあり方が不正や腐敗だらけだったというのではまずいわけであり、事後にそれがわかるのであればもはや手おくれだ。そうならないためにも、事前にしらみつぶしに徹底して悪いところを見て行くのがあればよい。都合のよいことばかりでなく、たとえ自分たちに不都合なことであっても受け入れることができなければ、いざというさいに客観で正しい判断を下すのはできづらい。

時間が経てばそのうちおさまるだろうというのは一つには見こめるけど、その見こみは確実で安定したものとは必ずしも言えそうにない(底は底なしといったことがある)

 時間がたてば、そのうち嵐はすぎ去るだろう。なるべく時間を長引かせて引っぱることで、とり沙汰されていることを長期化させる。短期では決着させず、徹底して究明をするのでもない。

 ことわざでは、のど元過ぎれば熱さを忘れる、というのがある。このことわざで言うように、騒ぎが一過性のものだということもあるから、その騒ぎが頂点を過ぎてしまえば、それ以上の盛り上がりになることはなく、しだいに収まってゆくのが見こめる。

 時間が経つのを待つという手は、有効でないわけではないけど、そうかといって万能というほどでもないものだろう。時間が経つほどに嵐が過ぎ去っておさまってゆくこともあるけど、その逆に、時間が経つほどに騒ぎがどんどん盛り上がってゆくこともないではない。どちらに転ぶかははっきりとはわからないものである。沈静にも過熱にもならず、そのまま何も変わらないこともある。

 時間が経ってくれればものごとが何とかおさまってくれるというのは、一つの前提ではあるけど、それだけではなくて、ほかの前提もとることができるのがある。たとえ時間が経ってもいつまでもおさまらないというのもある。

 時間が経ちさえすればものごとがおさまるのであれば、何ごとについても、ただ時間が経つのを待っていさえすればよい。とにかく時間が経ちさえすればよいのだから、時間さえ経ってくれればものごとは何とかなってくれる。希望的観測としては時間に重きを置くことはできるだろうけど、じっさいにはたとえ時間が経ってもものごとは何とかならない(何ともなってくれない)、ということもある。

 時間ははたして流れるのか、というのもある。時は流れるというのが一般の見かたではあるけど、そうではなくて、時は流れず、という説もあるみたいだ。時は流れないのであれば、時が流れることでものごとが何とかなってくれるというのを見こみづらい。時が流れてくれないのであれば、時が流れない中で何とかやって行くことがいる。

 時間が経って(流れて)くれることでものごとが何とかなるとは必ずしもかぎらない。たとえ時間が経ったのだとしても、人(当事者)の同一さというのがある。人である当事者が変わらないのであれば、いつまでも過去のものごとがぶり返す。反復するわけである。そのほかに、場所が変わらないことでもぶり返すことになる。

 人である当事者や場所が変わらないのであれば、時間が経っても嵐がすぎ去るとはかぎらない。それがよいことかどうかというのとは別にして、人である当事者がそのままだったり、場所がそのままだったりすれば、ものごとがおさまらずにくり返すことがある。それを改めるには、人である当事者をとりかえたり、場所を改めたりといった手だてがいる。人である当事者をとりかえるのではないにしても、人が変わったかのような転換のようなものがいるものだろう。そこまでの転換はできないにしても、せめて意見を異にする者とのあいだの相互流通があるとよい。

タカ派であることの強みと弱み

 政権が悪いことをやったのではない。財務省が悪いことをやったのである。この見かたがあるとして、はたしてこれは正しいということができるのだろうか。この逆の見かたをとることができるのがある。

 財務省ではなくて、政権が悪いことをすることがある。確たるものとは言えないが、その根拠の一つとして、政権の長である安倍晋三首相はタカ派だというのがあげられる。首相は、自分で自分のことをタカ派だと言っていた。なのでタカ派だと見てさしつかえがない。政権はタカ派だけど、財務省タカ派ではない。省庁は基本として前例主義によっているというのがあるといわれる。

 タカ派として、首相は結果を出すことが何よりも大事だと言う。それにくわえて、首相は右寄りの保守派であり、右派は直接の行動をとるのをよしとする。そこが強みでもあり、また弱みでもあるといえそうだ。

 行動をして結果を出すさいに、功を焦ることがあり、それが誤りにつながる。効率を重んじるために短絡(ショートカット)になり不正になる。誤りや不正のすれすれのところを進んでいるとすると、その細いへりから転落することもないではない。

 行動をとって結果を出すということで、行動というのは規則をやぶることができるものでもある。規則として、何々をしてはならないというのがあるわけだけど、それをやぶることができるのが行動である。規則をやぶらないで守ることもできるのはあるけど、守れなくてやぶってしまうことがあるのは、行動することによっている。

 首相が悪人だから規則をやぶってしまうのではなくて、タカ派だから規則を破ってしまうことがあるとは見られないだろうか。そうしたことは、絶対にないとは言い切れないものだという気がする。ないとは言い切れないとはいっても、首相がタカ派であることと、行動によって規則をやぶることとのあいだには、みぞがあることはたしかであり、完ぺきな説得性をもっているとは言いがたい。飛躍があるものではある。

 あくまでも傾向ということにすぎないものではあるけど、ハト派と比べたら、タカ派であるほうが、いざというさいに行動によって規則をやぶることへの歯止めが、ほんのわずかにではあるが小さいのではないかとおしはかれる。ハト派はどちらかというと守りであるけど、タカ派は攻めであるから、攻めに出るさいに規則をやぶってしまうことがないではない。

 タカ派だから規則をやぶるということは言えないのはある。そのうえで、一つの推理にすぎないものではあるが、規則を守るのよりも、(規則をやぶることになってしまう)自分の行動のほうをより優先させるのがおきることがある。この推理は精密なものではなく雑なものかもしれないので、そこまで信ぴょう性があるものとは言えないものかもしれない。

 この推しはかりにまずいところがあるとすると、まず一つには、タカ派にたいするステレオタイプになってしまっているのがいなめない。単純化や象徴化をしている。そして二つ目には、タカ派だけにかぎらず、ハト派であっても規則を守らずにやぶることがあるのだから、ちがいはそう大きくはない。ちがいがあるとしても、せいぜいが程度(確率)のわずかなちがいにすぎないものである。

 タカ派であるから規則を守らずにやぶるとは言えないにしても、そうかといって、まったく規則をやぶることがないとは言えない気がするのである。何かの行動をするさいには、決まりを破ってしまうということがつきまとうものであり、それは首相をふくめた政権(タカ派の政権)も、行動主体としてけっして例外ではないのはたしかだ。

森◯学園の問題は具体の事例だけど、それとは別に、一般として言うと、法による法治は(人治と比べれば)国民の得になるというのはありそうだ

 森◯問題を解決したところで、誰一人として得をしない。国民生活は何も変わらない。くそみたいなことを、あいつらはしているのにちがいない。お笑い芸人の人が、テレビ番組においてこのようなことを述べているという。

 お笑い芸人の人が言っていることは、必ずしも頭からまちがってはいそうにない。森◯学園の問題を解決したところで、誰一人として得をしないし、国民生活は何も変わらないというのは、たしかにそうした見かたはできる。この見かたをとってしまうと、欠点があることもたしかであり、その欠点とは、政権与党の思わく通りの見かたになってしまうことになる。それではたしてよいのかというのは言えるだろう。

 森◯学園の問題を批判して追求しているのは、くそみたいなことをしているというふうに言えるものだろうか。ろくでもないことをしているというふうに見てしまうと、批判や追求をしている人たちにたいして、動機論の忖度をはたらかせていることになる。動機論の忖度をはたらかせるのではなくて、理由(argument)がどうなのかというのを見て行ければよい。理由や原因があって、批判や追求をしているのがあるからである。

 損か得かというふうに見てしまうと、二元論になってしまう。損か得かだけで割り切ることはできるものではないとして見ることができるだろう。損に見えて得になったり、得に見えて損になったりすることがある。損と得は、必ずしも確かな同一さをもつものとは言い切れない。損が損のままでは終わらなことがあるわけだから、損に見えることを絶対にやらないほうがよいとは言えないものだろう。

 損か得かでは、短期と長期の二つの見かたから見ることができる。短期としてはたとえ損になるとしても、長期としては得になることがある。短期では得になっても、長期としては損になることがある。時の為政者が法を破ったとして、それがおとがめなしですまされるのなら、短期としては得になるかもしれないが、長期としては損になるだろう。特例のようにして許されるという前例をつくってしまうのだと、一貫性が損なわれて、示しがつかなくなる。

 厳格主義(リゴリズム)を当てはめることができる。あまりに自由すぎると、恣意に流れていってしまうのでまずい。厳格主義によってものごとを見る視点があってもよいものだろう。きちんとものごとを行なってゆく義務があるのであれば、そこはなるべく厳格になされることがいるのがある。国民にたいしては(納税などの)義務の厳格さを求めるが、為政者はそうしなくてもよい、というのでは二重基準である。

 厳格主義としてかりに見るとすると、義務であるものであれば、それは損になろうと得になろうとどちらであってもやらないとならない。損になるからやらないとか、得になるからやるということでは、結果がどう出るかということで決めることになる。結果とは関わりなく、義務は義務としてやるのがいるのだということもできる。結果が得になればというのは仮言命法だけど、そうではなくて、定言命法のあり方だ。

 森◯学園の問題については、(お笑い芸人の人が言うように)それを解決したところで、国民にとっては何の得にもならない、という見かたを一つにはとることができるのがある。そのうえで、その見かたが必ずしも正しいとは限らないこともたしかだ。この見かたをとってしまうと、森◯学園の問題は深刻でも重大でもなく、解決しなくてもよいものだとなる。問題が無いのだとするあり方だ。その見かたの逆として、問題があるものであり、深刻であり重大であり、ほうっておくとまずいことになり、解決が探られないとならない、とすることができる。問題解決のためには、まずはじめに、問題が発見されなければならない。隠ぺいされてはならないということだ。

げすの勘ぐりだからだめだというのは必ずしも言うことはできそうにない(げすの勘ぐりをしないことが正しい見かたとなるとは必ずしも言うことはできない)

 そんなのはげすの勘ぐりだ。首相にたいして批判の目を向けようとしたのを、げすの勘ぐりだとしてたしなめる。亀井静香氏はテレビ番組の中でそのようなことをしたという。亀井氏は、少し前の日に首相と会食をしているみたいなので、首相に肩入れしているのだろうか、とついつい勘ぐってしまった。

 げすの勘ぐりに否定の見かたをとっているのが亀井氏であるけど、それとは逆に、むしろげすの勘ぐりをするべきだというふうに言ってみたい。げすの勘ぐりは否定されるものではなく、その逆に推奨されることである。

 げすの勘ぐりはできるだけしてほしくないというのが、首相による政権与党の思わくだろう。げすの勘ぐりはできるだけしてほしくないという思わくであるのなら、その逆をするのがあってよい。勘ぐりはしてほしくないという思わくを勘ぐるべきである。

 勘ぐりをはたらかせるのにおいて、いかに勘ぐるのがよいかというのがある。げすの勘ぐりはやめるようにということであれば、それを勘ぐることによって、げすの勘ぐりをするのがいるのだというふうに勘ぐることができる。

 げすというのは、中心ではなくて周縁にあたるものだろう。中心の思わくがあるとすると、それにそのままのっかるのではなくて、周縁であるげすに身を置いたほうが、正しい見かたにつながることが少なくない。中心に身を置くのだと、権力の奴隷になってしまう。中心ではなく周縁であるげすになることで、権力の奴隷になるのを避けられる。

 首相が言うことについて、それにたいしてげすの勘ぐりをはたらかせないようにするのがふさわしいとは言えそうにない。首相が言うことにげすの勘ぐりをはたらかせないのであれば、首相が言うことを雨だれのようにただそのまま受け入れるだけとなる。大本営発表のように、受け入れたものを垂れ流すことになりかねない。無批判なあり方だ。

 首相が言ったことであるとしても、それがものごとの結論であるとは言い切れない。森◯学園の問題においては、首相をふくめた政権与党は、状況証拠などの事実をきちんと認めてはいない。自分たちに都合の悪い事実は、認めないで否認してしまっている。これでは、きちんとしたまともな問題解決はできるものではない。問題にきちんとした対応ができていないのである。

 まったく非の打ちどころのないほどに正しいことを言っているのではないとすれば、非となるところを言挙(ことあ)げして行くのがあるほうがよい。言挙げしてはならないというのであれば、首相をふくめた政権与党をいたずらにたてまつることになり、美化することになってしまう。美化するよりも、本当のところはどうなのかということのほうがより大事である。

 首相をふくめた政権与党が、まったく非の打ちどころのないほど正しいことを、いついかなるさいにも言うのだというのなら、その前提はおかしい。人間であれば、絶対にまったくもって正しいことをいついかなるさいにも言うことはできづらい。認知の歪みが少なからずはたらくのがあり、それによって何かを言うことになる。絶対ではなく相対によることを言うのであるから、言っていることの根拠や論拠について、どんなものによっているのかを批判することがいる。根拠や論拠が受け入れられるものなのかどうかは、受けとる人が決めることである。

 世の中には絶対にこうだということは(そうそうは)ない。亀井氏は、役人が事前に首相にうかがいを立てることは絶対にない、とテレビ番組の中で言っていたそうだけど、絶対にないということは言い切れないものである。何か原則があるのだとしても、それには例外はつきものだ。直接に役人が首相にうかがいを立てるのではないにしても、間接にうかがいを立てることはないではないことだろう。絶対にそうしたことがないというのだと独断となり、必然となるわけだけど、そうではなくて可能性としてあるというふうに見なすことができそうだ。絶対にこれこれは無いというのを、逆手にとって悪用することもある。

名誉職の増殖

 首相夫人は五五もの名誉職についているそうだ。五五のうちのいくつかに、適切ではないものがまぎれこんでいることがなくはない。森◯学園の問題では、夫人は名誉校長についていたのがあり、それは適切なものではなかったのがある。

 五五の名誉職の一つひとつがどういうものなのかを報道機関が問い合わせたところ、総理事務局は回答をしていないという。聞かれて回答できないようなものについていたというわけだろうか。聞かれるのはあらかじめ想定できないことではないので、もし聞かれたらこういうふうに説明できるとして、そのうえでつくのであればさしさわりが少ない。説明がうまくできかねるものだけどついていたということになってしまう。

 名誉職の範ちゅうの中に、さまざまな価値をもつものがある。正の価値のものだけではなく、負の価値のものも混ざりこむ。名誉職だからといって、それが必ずしも正の価値をもつものだとはかぎらない。国民にとって広く益につながるとは言えないものであれば、名誉職につくことがふさわしいものだとは見なしづらい。

 五五もの名誉職についていたということで、その数が多すぎるというのがある。そうではあるが、数が多すぎるかどうかは、見かたによってちがってくるのがあり、いちがいに言い切れないものではある。きちんとした選びかたで積み上がったのが五五であるのだとすればよいけど、そうではないのであれば、変な選びかたをしてしまっていることになる。

 夫人は公人ではなく私人だという閣議決定がされている。閣議決定がすべてではないので、それをとりあえずカッコに入れられるとすると、公金である税金が使われているのなら、公人だということができる。まったくの公人というのではないにしても、準公人だということはできるだろう。準ではあっても公人であるのなら、汚職がおきかねない。名誉職についたとして、その中におかしなものがあるのなら、汚職につながってしまう。私人ではなく、(準)公人であるという前提によって活動をしたほうがよいのがありそうだ。私益ではなく公益にかなうようなこととして、説明ができるようなものであるのがよい。

言うことにおいての、その内容が、ほかのものと照らして、整合したり対応したりしているのかどうかを無視できそうにない(不整合だったり対応していなかったりするのなら、厳しく見れば、本当のことを言っているとは見なしづらい)

 森◯学園の問題は、大したことなのか、それとも大したことがないのか。二つの見かたができるとして、大したことだともできるし、大したことがないともできるかもしれない。

 森◯学園の問題よりも、もっと大事なことが色々とあるというのは、森◯学園の問題は大したことがないと見なすことである。いやそうではなくて、大したことなんだというふうに見ることができるのもたしかだ。

 二つの見かたのちがいは、根拠としてどういうのをとるのかによってちがってくるのがある。根拠がちがえば見かたがちがってくるので、そうした点で言うと、絶対にこうだというのではなくて相対によるということができる。

 森◯学園の問題は大したことではなくて、それよりもより優先してやらないといけない大事なことが色々とある。この見かたでは、いまの政権与党のもつ文脈をよしとしている。いまの政権与党のもつ価値と、すり合っているのである。なので、いまの政権与党を批判したり否定したりするのを、文脈や価値が合わないものだと見なして、不信の目で見ることになる。

 大したことではないのではなく、森◯学園の問題は大したことなのだというふうに見るのでは、いまの政権与党の持つ文脈にたいして、すり合わせることができない。いまの政権与党のもつ価値が、正ではなく負の価値になっている。負の価値をもつ政権与党にたいして不信をもたざるをえない。とてもではないが信頼がおけないのである。

 どこに価値をおいて、どこを信頼するのかの点で、ちがいがある。政権与党に価値をおいて信頼するのであれば、それを批判したり否定したりするのはまちがったことだと見なすことになる。いっぽうで、政権与党を負価値として不信であるものとするのだと、それを批判したり否定したりするのがふさわしいことになる。

 政権与党を負価値として不信であるものとするのが、うむを言わせずに正しいものだとは言えないかもしれない。うむを言わせないほど正しいとは言えないとしても、それなりの正しさというのは少なくともあるものだろう。国民の代理であるのが政治家であり、ぴったりとお互いが一致しているわけではなく、多かれ少なかれずれがおきてくる。ずれがおきて、負価値となり不信となるとして、それが大きくなってしまうのだとまずい。正統性が失われることをあらわす。権力を維持することができづらい。

 みんながみんな負価値として不信をもっているわけではないのだから、人それぞれということはできるだろう。政権与党にたいして正の価値をもち信頼している人もいるのはたしかだ。それがもてている人たちはよいわけだけど、もつことができない人たちもいる。価値や信頼がもてず、負価値や不信となるのだとまずいことになる。

 負価値や不信は、主となる価値がお互いにずれてしまっているので、みぞができる。言うことである伝達情報を、そのままの言葉どおりには受けとれなくなる。言うことが虚偽になり通じなくなるといったことになり、これではまっとうな社会状態として成り立ちづらい。国民主権ということでは、主権をもつ国民にたいして虚偽ではない伝達情報を言うのがいるだろう。肝心なところで虚偽の伝達情報を言うのだと、(建て前としての)正義が失われる。言ったことを国民がどう受けとるのかは、人によってちがうものではあるけど。