食への消費が拡大しているといっても、外食産業なんかは決して楽ではなさそうだ(従業員の人たちは薄給で使い捨てのように酷使されているのが中にはあるという)

 エンゲル係数が右肩上がりに上昇している。それについて、食への消費が拡大して、景気がよくなっているからだとする。このように、景気が回復したと見てしまうこともできなくはないが、説得力が高い見かただとはいえそうにない。

 ふつうに言えば、エンゲル係数が高くなるのは、景気が悪くなっているというふうに見ることができるものだろう。これを逆にして、景気がよくなっているからだとするのにはちょっと無理がある。黒いものを白いと言っているようなふしがある。少なくとも、景気が悪くなっているというおそれはぬぐいきれるものではない。

 景気が回復しているというよりは、富裕層と貧困層とで経済が分極化してしまっている。それで、富裕層によるものとして、食への消費が拡大して景気がよくなっているという見かたがとられる。そのようにおしはかれそうだ。お金にゆとりがあるのなら、高めのお店で食事をとることができる。首相ほどにもなれば、そうしたことをくり返してもとくにふところがいたむことはない。そうした自分の立場があり、そこに少なからず規定されて見なしてしまうのがある。

 首相がやっているものである、アベノミクスの経済政策につなげてしまうから、エンゲル係数についての無理な解釈がとられてしまう。アベノミクスは決してあやまたない、みたいなふうになってしまうのがある。当為(ゾルレン)としてのかくあるべしというのがあり、そこでは景気が回復しているべきなのだ。それとは別に、実在(ザイン)のありようがある。

 事実となる数字があり、それの意味することがあるとして、そのまま受けとると認知の不協和が生じる。そうしたさいに、景気は回復しているという結論は動かず、それにそぐうようにして認知の不協和が解消される。景気は回復しているという結論への確証(肯定)は保たれる。その確証を損なわないようにするための、認知の不協和の解消がとられるわけだ。

 エンゲル係数が右肩上がりに上昇しているのは、食への消費が拡大して、景気が回復しているからにちがいない。もし本当にそうであるのなら、それでもかまわないものである。しかし、話はそこでは終わらないわけであり、その見かたとはちがうのが現実であるとしたら、というふうに見ることがいる。少なくとも、エンゲル係数の数値はそれを示しているものだろう。景気が回復しているという一つの答えによるのでよしとするのでは十分ではない。その一つの答えによるだけだと、問題がないことになるわけだけど、問題があるというふうにも見られるのがある。そうであるとすると、問題がどういったものなのかの定義と、それの解決がさぐられるべきである。

社会の中で犠牲となる人が少なからず出てしまっている以上は、ナショナリズムの負の作用がはたらいているといえる

 日本はナショナリズムから卒業した。それだけの成熟を果たした。思想史家の人は記事の中でそのように述べていた。思想史家の人は、このように言っている。日本はナショナリズムから卒業したわけだけど、中国や韓国はそうではないのだという。まだナショナリズムの段階にいる。国が侮辱されたということでさわぐ。日本とはちがい、まだまだ成熟が足りていない。

 日本に比べて、中国や韓国にはまだ成熟が足りていないとして差をつけてしまうのは、ナショナリズムではないのか。そのように感じた。このように差をつけてしまうのは、日本は優れているとして、いっぽうで中国や韓国は劣っていると言っていることになる。こうした差のつけかたは合理によっている区別だとはちょっと言えそうにない。合理でない区別のつけかたはナショナリズムの論理である。

 もし日本がナショナリズムから卒業しているのであれば、そこから卒業できてはいない中国や韓国に寛容になれるはずである。大人と子供といったように、次元を異にしているのなら、あるていどの寛容さをもてる。そのような寛容さが現実にもてているのかといえば、(なかにはそのような人もいるだろうけど)日本の国の全体としてもてているとは言えそうにない。国の全体としては非寛容になっている。これは、たがいに次元を同じくしているのをあらわしている。

 日本はナショナリズムから卒業したのではなく、逆に入学したのだということができそうである。そこから卒業するまでの道のりはまだまだ遠い。卒業見こみも立っていない。過去のある時点で卒業したこともあるのかもしれないが、それは瞬間のできごとにすぎない。またすぐに舞い戻ってきてしまった。回帰してしまう。

 成熟した国として、日本はナショナリズムから卒業して、よい国になった。経済においてもいぜんとして豊かである。こうした見かたには疑問を投げかけざるをえない。というのも、そのように見るのが完全にまちがっているというわけではないにせよ、現状にたいしてありがたやとして肯定するわけにはちょっと行かない。そうしてしまうと、認識がおろそかになりかねないのがある。危機をもたざるをえないことが社会の中に色々とあるのを無視できそうにない。それらのすべてをもれなく認識できているというわけではなく、わずかにしか知らないのはあるが。

 一人ひとりのもっている自由の幅が、人によって大きかったり小さかったりする。大きめの人はそれでよいわけだけど、小さい人がいることは危機である。自由の幅が小さすぎて、健康で文化的な最低限度の生活すらままならない人が少なからずいる。これはきわめて不幸なことである。不幸であるだけでなく、疎外が行きすぎると個人の精神は狂気にいたりかねない。こうしたことがあるとして、それを放置しているのはまずいことであり、できるだけすみやかに何らかの手を打って改善することがあるのがいる。手が打たれないと、社会全体が地盤沈下して、ひどくなれば崩壊してしまうだろう。

 手を打てといっても、そんなことは大かたの人がわかっていることであり、手を打てと言うだけでは抽象論にとどまっている。抽象論を言うだけなのなら責任をもった発言とはいえない。そうしたことが言えるのはたしかである。これは一つには、何らかの手だてがいるのがわかった時点では、すでに若干の手遅れだといったようなところがあることによる。病気になってはじめて健康のありがたさがわかる、といったあんばいだ。そうしたのはあるだろうけど、だからといって運命論のようにやむをえないことだとすることはできない。正すのに時間や労力や費用がかかるとしても、機会平等(形式の平等)だけをもってしてよしとするのではなく、結果平等(実質の平等)をもたらすようにできればよい。

 もしナショナリズムから卒業しようとするのだとしたら、いまの日本の現状をよしとするのとはちがった見かたをとらないといけないのではないか。というのも、日本すごいみたいなことで、日本の国を持ち上げてしまうと、ナショナリズムになってしまうのがあるからである。見せかけの上げ底になる。そうした見かたをとってしまうと、ナショナリズムを卒業するためにいるであろう必要条件や十分条件を満たせそうにない。

 それらの条件を満たして行くためには、日本の駄目なところやいたらないところやおかしなところをあえて見て行くことがいる。それで、そうした駄目なところやいたらなさを少しでも正して行ければよい。そのようにできれば、ナショナリズムからの卒業にほんの少しくらいは近づいて行ける。そうした卒業への道のりから、現実はむしろ逆行してしまっているような気がしないでもない。

儲かるかもしれないということは、狙われやすくもなるから、危険性も上がってしまいそうだ

 仮想通貨のネムというものが、不正に盗まれたという。このネム(NEM)をとりあつかっていたコインチェックという取引所があり、ここからおよそ五八〇億円が不正に盗まれたと報じられている。コインチェック社に投資していた人は、損失をこうむったことになり、その補償が検討されている。

 仮想通貨はまだできて間もないものだから、熱い技術ということができそうだ。まだ安定していないものであり、大きく乱れることがある。何がおきるかわからない。いっぽう一国の通貨は冷たい技術なので、あるていどの信用があるため、急に大きく崩れることは少ない。程度のちがいではあるかもしれないが、そうしたのがありそうだ。

 もともとお金は金(きん)と交換されていて、金によって裏打ちされていたという。そうした金本位制がとられなくなって、今にいたる。これによって、お金が流通する範囲が広がった。お金というのは日本ではお足ともいう。お足であるお金は財布の中からよく出て行ってしまいやすい。そうしたことの極端な形が、仮想通貨にはありそうだ。純化されている。

 金によって裏打ちされなくなって以来、ふつうのお金はその流通する範囲を広げた。それの極端な形が仮想通貨であり、お足としての足が速い。足が速いため、自分で勝手にどこかへ行ってしまうようなこともなくはない。そうなっても、どこかで足がつけば、とり戻せるのが見こまれる。

 なにしろ、仮想というくらいだから、数字のうえでの話となり、実感がともないづらい。頭の中での数字の遊戯みたいなことになる。増えた、減った、という観念の話となる。リターンとしての果実というのがあるとして、それが抽象によるものとなっている。

 東洋の中国では素朴実在論がとられるという。それでいうと、仮想通貨というのは観念での話のようなものだから、素朴実在論にはそぐわない。複雑な技術による観念のことがらだと言えそうだ。はたして、仮想通貨というのは、実在しているものなのだろうか。それともたんに名前だけのものなのか。仮想通貨のネムというのがあるとして、そのネムの内包(本質)とは何であり、その範ちゅう(集合)は何が当てはまるのだろう。

 もしかすると、仮想通貨のネムという記号表現はあるが、その記号内容はないといったような、ゼロ記号と呼ばれるものだということがあるかもしれない。空虚に浮遊する記号である。そのようなゼロ記号だというのはいささか極端であり、じっさいに一国のお金と換金できるみたいだから、そこまでは言えないものだろう。そのうえで、仮想通貨のもつ価値というのは、これだというふうにはとり出せないものでもあるから、幻想性が入りこんでいるのはありそうだ。仮想通貨にかぎらずふつうの通貨にもまた当てはまるだろうけど、そこに物神性がはたらいている。呪物崇拝(フェティシズム)がおきる。

剣による近道反応

 未解決とされる事件についてのテレビ番組が放映される。朝日新聞社の二名の記者が殺傷されたとされる、赤報隊事件である。これについて、二日間にわたり、NHK で番組が特集された。その番組は見ていないのだけど、いまだにこの事件を肯定する人もいるという。赤報隊による事件を義の挙行だとしているのである。

 テロルとは、ふつうは物理の力である剣によるが、そうではなくペンによるものであるという。ペンにより国家をおとしめているものをさす。そうしたものへ暴力をふるうことは、テロルではない。愛国として正しいことなのだという。このとらえ方には少なからぬ違和感をおぼえる。

 テロルというのは政治がからむ殺人などの犯罪のことと言える。じっさいにそうした殺人を企てて実行したのはどちらなのかといえば、赤報隊事件の行為者(犯人)にほかならない。けっして朝日新聞ではない。朝日新聞がペンによるテロルを行なったというのは言いがかりであり、テロリストは赤報隊事件の犯人であると言わなければならない。

 国家とテロリストとは、相通じるところがある。そうしたことの一端が、赤報隊の事件からはかいま見られるのではないか。見かたによっては、国家は最大のテロリストだとも言える。それというのも、物理の暴力を独占しているのが国家だからである。権力は、人の命を奪うこともできる。権力の言うことを聞かないのであれば、最終の手としては暴力を振るってでも支配しようとする。

 赤報隊事件がおきたことで、殺傷の被害を受けた朝日新聞の記者の人は、それまでの状態が激変した。このような激変がおきたのは、暴力をこうむったからである。ここに物理の暴力の恐ろしさがあると言えそうだ。

 この事件について、それを義の挙行だとする見かたがとられているのがあるけど、そのように見なすのは、正義だとしていることになる。そうした正義は、あたかも自分たちが神さまででもあるかのようなものである。独断として、自分たちが絶対に正しいということになってしまっている。そうした純粋な動機によって、事件がおこされてしまった。純粋な動機でつっ走ってしまうのはとても危険なことである。じっさいの社会にはさまざまな考えを持つ人たちがいるわけだから、それが認められないとならない。

 朝日新聞を悪玉化することには賛同できないのがある。そのようにして悪玉化してしまうと、人間と非人間といったような断絶線が走ってしまう。われわれは人間であり、他方には悪玉化される対象となる非人間がいる。そうした非人間には暴力を振るってしまってもかまわない。そうしたまちがった判断がとられる。このようなまちがった判断がとられてしまうのは、一つには、国家主義をとってしまうことによる。愛国と売国(反日)ということで、人間と非人間による断絶線を引いてしまうのだ。こうした線引きは決してめずらしいことではない。

 どのような人間であっても、自然的権利をもつ。その権利があるわけだから、一人ひとりの人間が生存をまっとうすることがなければならない。それを妨げる権利は誰にもない。それを妨げてしまうのだとすると、社会が成り立たなくなってしまう。社会というのは、一人ひとりがみな生存をまっとうすることをもってよしとするものである。それが不当に妨げられるのであれば不正義だということになる。

 正しさというのは、目的がどうなのかによってちがってくるのがある。みんなが同じ一つの目的をよしとしているのではなく、それぞれがちがったものをよしとしているのであれば、何が正しいことなのかというのもまたちがう。実在のありようはそのようになっていると見なせる。何か単一の目的だけを正しいものだとして、それに反する者を物理の力で排除してしまうのは正しいことだとは言えそうにない。人間はみなそれ自体が目的であり、手段としてあつかわれないのが理想である。じっさいの現実では、経済の世界なんかでは労働者が手段としてあつかわれているわけだけど、それは経済の世界がいちじるしく退廃(腐敗)しているのをあらわす。

 朝日新聞を悪玉化してしまうと、悪いものだとして仕立てあげてしまうことになる。そのような仕立てあげをするのだとまずい。朝日新聞とそれと対立する人たちとのあいだには、なかなか相互の対話はなりたちそうにない。それは難しいものなのがありそうだ。もともと対話をする気がないというのもあるかもしれない。そうであるからといって、独話をもってしてよしとしてしまうのだと、お互いのあいだの摩擦が解消することにはなりそうにない。

 売国反日であるとして、属性(キャラクター)として見てしまうと、実在を見ることにはならないのがある。不当な過度の一般化や単純化をしてしまっている。朝日新聞の主張していることについて、それを受けとるさいに、認知の歪みがはたらく。それで意味づけされることになる。主張を受けとるさいにはたらく認知の歪みを改めることができれば、意味づけの仕方も変えることができる。うまくすればの話ではあるが。

 最高価値の没落ということでいうと、国家というのは最高価値にはならない。これは認めなければならないことなのではないか。いや、それは断じて認められないというのもあるかもしれないが、それだと教条主義におちいってしまう。唯一の最高価値をよしとする一神教となる。そのようなあり方ではなく、価値の多神教をとるのがのぞましい。よしとする価値を異にする者どうしで、じっさいに対話が成り立ちづらいのはあるわけだけど、そうであるからといって、どちらもゆずらずにそれぞれがそれぞれを絶対だとすると独話となる。閉じてしまうことになる。自明性の固い殻の中に閉じこもることになるだろう。

 人間には合理性の限界があるわけだから、唯一にして完全な正解というのにいたりづらい。そうしたものにいたるには、絶対の合理性があることがいるわけだけど、それは神さまでもないかぎりは持てないものである。あくまでも限定された合理性しか持っていないとして、なるべく開いたあり方をとるようにして、高次学習をとるようにする。そうしたことによって、不満を少なくして満足を増やすという手がとれる。絶対の満足というわけではないが、相対の満足は得られる。そこらへんのかね合いは難しいこともあり、自分の中にいちじるしい不満がたまってしまうと、爆発してしまうこともなくはないから、なるべく気をつけないとならない。もし爆発してしまうにせよ、それは朝日新聞のせいではなく、たとえば経済の格差による不平等なんかのほうが大きそうだ。

結果主義とは別に、行為主義でも見ることができる(たとえ結果が出なくても、過程として意味があることはある)

 民意にしっかりと耳をかたむける。評論ではなく、やるべき政策を実行して、結果を出す。こうしたことが、政治において大事なことだという。ここでは、評論ではなくとして、評論が否定で見られていて、退けられている。しかし、評論が果たす大切な役割というのがありそうだ。

 評論を言うだけなのならたやすい。言うだけなのであれば、誰にでもできる。そうではなくて、やるべき政策を実行して、結果を出すことに何よりも価値がある。そうしたとらえ方がとられているのがある。これはまったくおかしなとらえ方とは言えそうにない。当たっているところがあることはたしかだろう。本当にきちんと言われている結果が(嘘や誇張ではなく)出ていればの話ではあるが。

 何かにたいする評論ということで、それを大づかみに二つに分けることができる。そのさいの評論とは、おもに批判としてのものである。一つは当たっている批判だ。もう一つは当たっていない批判である。この二つがあるというふうにできる。当たっている批判というのはとても有益である。耳を貸すのに十分に値する。耳が痛いものではあるが。

 当たっていない批判というのもあるわけだけど、これについては、当たっていないということで反論してもよいだろうし、そんなに感情によってむきにならずにさらりと受け流すこともできるかもしれない。受け流すといっても、そうそうできることではなく、難しいときも少なくはないが、何しろ当たっていないのだから、ずれているというしかない。

 評論というふうにひとくくりにしたとらえ方にはちょっと賛同できそうにない。その範ちゅうの中にも、さまざまな価値のものがある。中にはとても有益な価値をもつ批判もあるわけだから、それについてはなるべく重んじられたほうがよい。それが重んじられずに軽んじられてしまうと、ゆくゆく公益を大きく損ねることになりかねない。

 結果を出すということについては、それが必ずしもよいことだとは言えないのがある。結果が出たことをもってして正しいと言えるのか、というのがある。たとえば、たとえ法として問題がないとはいえ、自分たちが勝てるときに選挙に打って出るというのは、それで結果は出るかもしれないが、総合として見て問題がないとはいえない。これは行為規範が関わってくるものだろう。

 英語の助動詞でいうと、行為としてできることは can なわけだけど、そのできること(許されること)の中にも、のぞましいものとのぞましくないものとがあるわけだ。たとえば、車の生産と利用は社会の中で許されているが、それが車本位社会として、さまざまな負のことがらを引きおこしている。人をひき殺してしまったり、石油燃料を多く消費してしまったり、環境を壊してしまったりする。

 結果主義として結果を重んじてしまうと、結果がねつ造されてしまうのが心配だ。それに加えて、結果が出たことの原因を自分に帰属するのはどうなのだろう。それだと自己欺まんにおちいってしまいかねないのがある。結果と原因については、たんに偶然の産物だというのもある。さまざまな要因が関わるものであり、一対一に対応しているとは言いづらい。一つの物語の域を出そうにはない。そこには少なからぬ先見や予断がはたらいている。

 大きな物語としての原因と結果がある。それとは別に、小さな物語がある。その小さな物語として(権力批判としての)評論をとらえられるのではないか。大きな物語がいまひとつ説得力をもって通用しないのであれば、小さな物語を見てゆくのがいる。それを見てゆくさいに、大きな物語で語られていることが当てはまらない結果が現実に生じているのがある。その結果を見てゆき、原因は何かというのををさぐって行く。そうすることで、大きな物語のまずさやおかしさが見えてくるようになる。

 大きな物語が一つあって、それだけが正しいというのではのぞましくない。そうしたあり方だと目的論として確証(肯定)が持たれてしまう。それを反証(否定)することがあるのでないと、開かれているとは言えそうにない。小さな物語である評論があり、そこからの批判があるとすると、それを見てゆくことによって、文脈をもちかえてゆく。そのようにすることで、大きな物語のまずさやおかしさに気づけるようになる。大きな物語で言われていることとは別に、現実とそれなりに整合する批判なのであれば、それは許容されるべきである。焦点が当てられて、くみ入れられないとならない。大きな物語として語られていることを、批判としての小さな物語によって、どんどんずらして行ければ、現実とのずれを明らかにすることにつなげられる。

 大きな物語は巨視(マクロ)による。それを森だとすると、小さな物語は微視(ミクロ)であり木であるとできる。一見すると充実しているように見える森であっても、その中の一つひとつを見ると、ひどくうつろな響きをたてている木が見うけられる。そうしたところへ目を向けないとならない。森にとって、そうした一つひとつの木は例外といえるのだろうかというと、そうとは言いづらい。むしろ森が幻想によっているとも言える。森の全体を、統合として見るのはひどく困難だ。とりつく島がない。抽象するしか手がない。そこで、ある特定の具体の木(木々)に焦点を当てるようにする。うまくすれば、そこに森がかかえる病理や暗部が浮かび上がる。

 結果を重んじるのも悪いことではないが、人間が失敗することの大きな要因として、功を焦ってしまうことによるのがある。全体として追い求めているものであれば、それが幻想の功ではないのかというのを改めて見ないと、けっきょく空手形だったということになりかねず、それだけならまだしも、深刻な負の遺産をあとに残すこともないではない。それが心配だ。

 漢方では、すぐに効果(結果)が出るのは下の薬であるという。具合が悪くなったときに使う。下の薬は、できることなら使わないほうがよいものとされるそうだ。長く使っていると、体に害をおよぼす。そうしたのとは別に、健康の増進になるのが中の薬で、長寿につながるのが上の薬であるという。これらからすると、いくら結果が出ているとしても、それが下の薬によっているものなのであれば、あまりよいこととは言えそうにない。本当の意味での改善にはなっていないと言わざるをえない。まだまだ、(例えとしてではあるが)具合が悪くて苦しんでいる人は社会の中で少なくはないというのがある。増えてしまってすらいそうだ。

美しいことが、戦争の歯止めになる保証はなさそうだ(平和を保証しない)

 ありがとう、自衛隊さん。そのような文句とともに、憲法改正をうったえる。大阪で活動しているという、美しい日本の憲法をつくる大阪府民の会は、街頭で署名活動を行なっているそうだ。この会は、政治団体である日本会議や宗教である神社関係者が主体として関わっているという。

 自衛隊の人たちに感謝するのはよいことだけど、ただ守ってくれるありがたい存在として受けとるのはどうなのだろうか。守ってくれることと引き換えに、というのがあるわけであり、ただで守ってくれるわけではない。税金が払われているのもあるし、国民を保護することは、それにともなって、国民一人ひとりを監視(観察)することでもある。

 美しいかどうかというのは、人それぞれの感じ方がある。なので、美しい日本の憲法といっても、それを感じるのは主観ということになる。客観ではない。実証によって見るのであれば、たんに日本の憲法ということは言えるけど、そこに美しいという主観の評価をさしはさむのは適していない。美しかろうと、美しくなかろうと、日本の憲法であることには変わりがないわけだ。

 かりに美しくないものなのだとしても、それとは別に、真であったり善であったりすることはできそうだ。何が真であったり、何が善であったりというのは、色々な解釈で見ることができることになる。こうであるからいちおう真だとか、こうであるからいちおう善だとかという説明が色々と成り立つ。

 憲法にとって、美しさというのは、そこまで重要なものなのかというのが若干の疑問である。美しいかどうかよりももっと重要なものが色々とありそうだ。そうしたのがあるので、美しいかどうかは、優先順位として上位とはいえず、かりに持ち出すとしても、中位または下位にあるものだろう。人それぞれの感じ方に左右される。あやふやさがある。気をつけなければならないのは、うわべの美しいものに隠された危なさだろう。美しい言葉があるとして、その陰に隠されているものを確かめて見る。美しいことへ警戒のまなざしを向ける。美しいという素朴な言葉それ自体にも、何かの魂胆を隠してしまうような秘匿のはたらきがあるのを邪推できる。

 ふつうに美しいと見なされているものとはちがったものもある。画家の岡本太郎氏は、美しさについて、ふつうに見なされているのとはちがったあり方を示していたようだ。岡本氏によると、きれいと美しいは正反対であるという。美しいはきれいであってはならず、醜悪美であるべきだと言っている。美しさは、たとえば気持ちのよくない、きたないものにでも使える言葉だとしている。みにくいものの美しさというものがあるという。『青春ピカソ』による。

 岡本氏による美しさのとらえ方は、美のなかの醜悪や不快の要素をきわ立たせてみたものだと言えそうだ。そうしたとらえ方もできるのを示している。ほかの言い方で、美は乱調にあり、なんていうのもある。乱調というといささか剣呑だ。危なっかしい。そうしてみると、あまり美しいかどうかにはよらないで、そのほかの色々と重要なことで憲法を見ていったほうがさしさわりが少ない。

構造的暴力による抑圧があり、その緊張による対立がありそうだ

 何人死んだんだ。そうしたやじを飛ばす。沖縄で在日米軍機の事故が相次いでいることについて、そのことを深刻だとする。その深刻さによる受けとめへのやじが国会において飛ばされた。このやじがとり沙汰されたことにより、(やじを飛ばしたとされる)自由民主党内閣府副大臣の人はその役職を辞任することになった。

 在日米軍機の事故において、それによって現地の人が亡くなったりけがをしたりしたら、そうとうな問題になる。これは、そうしたできごとがおきた後の話だろう。それとは別に、そうしたできごとがおきる前の話ができる。できごとがおきてからでは遅いわけであり、手遅れともいえる。できごとがおきてしまう前に何とかすることがいる。そのようにして、事前と事後に分けて見ることができそうだ。事前にできることとして、よからぬできごとがおきないようにする対策があるとすると、それをやらなければならない。それをやらないのは怠慢だろう。

 やじを飛ばした議員の人は、忖度をする方向がまちがっていそうだ。忖度をするべきは、自分の属する党の長にではなくて、日本全国にまんべんなくそうするのがよい。中央のものさしで見たらまちがうことがあるわけだから、それを持ち替えて、周辺におかれている人たちのものさしでも見ないとならない。そうでないと、ものを見あやまってしまうようになりかねない。

 中央のものさしだと、権力に近いわけだから、そこへの批判はとられづらい。甘くなる。そうしたふうであると、判断が狂ってしまうことがある。へんに卑屈になったり、ごう慢(ヒュブリス)になってしまったりする。そのようになるのを避けるためには、権力に近いことをもってしてよしとするのを戒めないとならない。そこの戒めが不十分だと、権力からの利得を得ようとせんとして、まちがった忖度をはたらかせてしまうことになるのがある。

 議論は国会という屋内で行なわれるわけだけど、それは少なからず屋外の、周辺におかれている人たちの代弁でもある。そうしたつながりがあるものだろう。そこをなおざりにしてしまうと、社会の中のなげきの重みをすくいとれそうにない。すくいとられないことで、社会の中にどんどん声なき声のなげきの重みが増してゆく。そうした重みは、ないわけではなく、あるにもかかわらずきちんとすくいとられていず、そのままでよしとされてしまっているものだろう。本来はそうであるべきではないのにもかかわらず、不当に阻害されたままになってしまっている。それに甘んじさせられている。ひどくなれば、そのまま淘汰(排除)されようとしているのである。そうしたしうちを受けるのは特定の個や部分であるとして、全体は不真実(虚偽)であると言わなければならない。

思うつぼだという主観の思い

 町議会議員の人がフェイスブックに投稿した記事が、とり沙汰されている。その記事の中では、特定の国会議員を名ざしして、極悪非道の在日韓国人だなどとしている。その人たちを、両足を牛にくくりつけて、股裂きの刑にしてやりたい、というふうに言う。また、論外のアホであるとして、ポア(殺害)して欲しいと思う、などともしている。

 町議の人は、記事がとり沙汰されたことを受けて、反省の弁を述べたそうだ。憎悪表現や人権侵害について不勉強であり、自覚がなかったと述べている。その一方で、特定の国会議員の人たちについては、彼らは工作員であるとしている。自分をおとしいれようとする勢力があり、もし自分が議員を辞職したら、そうした勢力(左派)の思うつぼだ、ということである。

 この町議の人は、陰謀理論によっているというふうに見なせる。この陰謀理論によることで、弁証法のようなものがはたらいていそうだ。おそらく、従軍慰安婦の問題について、日本が不当に韓国などから責められているのに不服がある。そうした動機がはじめにあると思うんだけど、股裂きの刑にしてやりたいとか、ポア(殺害)して欲しいとかいうことで、かえって以前に日本が他民族によからぬことをしでかしたおそれがあるのを裏打ちしてしまってはいないだろうか。逆効果になってしまっている。

 従軍慰安婦の問題などについて、日本が不当におとしめられている。まったくの潔白なのに、嘘を言いふらされている。そうしたのが陰謀理論ではとられる。これについては、心情としてわからなくはないものではあるし、潔白であってほしい部分があるのはみな同じなのではないか。しかし、そうであってほしいという願望が必ず現実になるわけではないから、そこは疑うことがいる。願望が虚偽だったとしたらそれが問題だ。

 町議の人において、特定の情報の入力がなされ、それについての思考回路がとられ、そしてそこからの出力(表現)にいたったと見ることができる。はじめの情報の入力が、偏っていたおそれがある。自分の思考回路を補強する情報だけが入力されてしまう。そうしたことはありがちである。そうなってしまうと、補正される機会がもてない。思考回路が強化されつづけることになる。どこかの時点で、それがなるべく改められればよさそうだ。

 出力(表現)を疑ってみるのがあってもよい。たまには自分の出力したのを疑ってみるのである。人間はだれしも完全に合理によるのではなく、限定されているのがあるので、まちがった出力をしていることがある。そのようにしてみることで、独断におちいるのを避けられる。うまく行けばの話ではあるが。

 思考回路として、属性(キャラクター)で見てしまうのがある。これで見てしまうと、実在はどうなのかが見落とされやすい。ある民族があるとして、その民族の実在はどうなのかというと、さまざまな人がいるものだろう。そうしたさまざまなあり方が捨てられてしまい、象徴されると属性になる。これは幻想によるものでもある。

 人種や民族とは幻想であり、科学によるものとは言えない。人類とは、もともと一人の先祖となる二足直立歩行をした猿人から来ている。一人の同じ先祖から来ているのが、今の数十億にのぼる人たちである。それらを、それぞれの民族とか人種に分けることもできるのがあるけど、せいぜいが便宜のものであり、本質とは言えないものだろう。いろいろな民族や人種の要素を含みもつのが、一人の人間だと言えそうだ。

 辞職するのは左翼の思うつぼだということだけど、町議の人はいったい何と戦っているのだろうかという気がする。もともと憎悪表現を投稿しなければ、とり沙汰されることはなかったわけだし、物議をかもすこともなかった。だから、左翼がどうとかというのはあまり関係がなさそうだ。それに、かりに左翼の思うつぼを避けたとしても、左翼以外のところの思うつぼになっている、ということはないだろうか。この思うつぼとは、ある特定の立場からの呼びかけに応じてしまっている、ということである。自分が気がついていなくても、そういうことはあるものだろう。

 ポア(殺害)というのは、オウム真理教が用いていた言葉だとされる。そうであるから、オウム真理教に通ずるような気がしてしまうのもたしかである。オウムでは、ポア(殺害)することが、その人にとってよいことなのだ、といったような理屈を用いていた。これは詭弁にほかならない。他者危害の原則に反している。

 日本という国がとても大事であり、それをおとしめようとするかのように見うけられるのは、たとえ少しであっても許せない。そうしたのはわからないではない。そうしたのは一つの動機であり正義だというのはあるだろうけど、正義が反転して悪のようになってしまうことは少なくない。そこに気をつけられたらよさそうだ。日本という国がおとしめられているのは、日本および日本人が被害を受けているとできなくはないが、それによって特定の人に憎悪表現をすることで、自分が加害をする側に回っているおそれがある。自分が加害をしたのでは、元も子もない。

 加害をするといっても、日本や日本人がおとしめられているのを、黙って見すごすことはできない。そうした意見もあるかもしれない。それについては、そうした気持ちが生じるのはわかるわけだけど、気持ちによってつっ走ってしまうのはまずいということができる。そこに歯止めをかけられればのぞましい。たとえば、他民族とか、特定の思想の立場とかは、偶像(イドラ)や幻影であるおそれが低くない。そこを差し引いておかないと、まちがった判断をしてしまうことがある。判断がまちがうと、究極の(原因)帰属の誤りになりかねない。これは特定の民族や集団を差別することである。

 本音によりすぎてしまうと、建て前が失われてしまう。そこのあいだのつり合いがとれたほうがのぞましい。社会は基本として建て前で動いているのがある。そこをないがしろにして、本音主義のようになってしまうと、危ないところがある。

 本音というのは一人称によるものだとできる。それだけではなく、二人称や三人称の視点も持てればよい。関係性として、我と汝(なんじ)と、我とそれ、といったのがあるという。これは思想家のマルティン・ブーバーという人によるものだそうだ。本音が行きすぎると、我とそれのあり方になってしまうことがある。それというのは、物のようにあつかってしまうことである。そうではなく、我と汝のあり方にできたほうがよい。これは理想論であり、現実には、たとえば経済において労働者が物のようにあつかわれているのなどがあるのはたしかである。それが当然のようになってしまっている。

(かくあるべしの)当為としての代弁と、実在とのあいだに、ずれや隔たりがありそうだ(当為としての代弁だけでおし進めるのには、個人としては反対である)

 君たちは憲法違反かもしれない。そうではあるが、何かあったら命をはってくれ。これではあまりにも無責任である。自由民主党安倍晋三首相は、自衛隊について、このように述べている。この発言について、すべてには賛同できそうにない。とりわけ、いちばん最後の、あまりにも無責任であるの箇所には違和感をおぼえる。

 憲法違反かもしれないけど、何かあったら命をはってくれというのは、のぞましいことではないというふうに首相は見なしているのだろう。そうあるべきではないということである。これは、かくあるべきという当為(ゾルレン)についてを言っているということができる。

 かくあるべき当為というのは、現実の実在(ザイン)そのものではない。首相が述べている、かくあるべしの当為には、弱点があるというふうにできる。というのも、実在の自衛隊の人(や元自衛隊だった人)たちがどのように思っていたり感じていたりするのかは、定かではないのがあるからだ。それぞれの人に、それぞれの思いや感じ方があるだろう。そこが十分にふまえられているとは言えない。父権主義(パターナリズム)になってしまっているおそれがある。

 首相の言っていることは、一見すると自衛隊の人たちをおもんばかっているかのように受けとれる。しかし改めて見ると、そうとも言い切れそうにはない。というのも、もし本当におもんばかるのであれば、ちがったふうに言うことができるのがある。たとえば、自衛隊の人たちに命をはらせるようなことを何としてでも避けてゆきたい、というのがありそうだ。ほかには、もし万が一なにかがあれば、われわれ政治家がじっさいに体をはって危険な現場におもむくつもりである、なんていうのだと説得力が多少はある。本当にそうしろというわけではないが、こうしたおもんばかり方もできる。

 これではあまりにも無責任である、と首相は述べているけど、それを差し引くとして、まったく無責任ではないとは言えないかもしれない。その点については認めることができるのがある。そうしたのはあるとして、まったく無責任であるというふうに断言するのはどうなのかというのがある。そうして断言するよりも、色々と問いを投げかけることができる。

 色々な問いというのは、たとえば、憲法違反かもしれないというのは一体どういうことなのか、がある。また、何かあったら命をはってくれというのは一体どういうことなのだろう。何かがなければ命をはらなくてもよいわけだから、何かがないように全力を注いだらよさそうだ。そして、あまりにも無責任であるというけど、このさいの責任とは一体どんなことなのだろう。何をもってして無責任というのだろう。そうしたことが若干の疑問である。

 憲法違反かどうかについては、憲法違反だと断言する人もいれば、いやそうではないとする人もいそうだ。この点については、解釈の領域となるものだろう。解釈の領域だと、色々な見かたが成り立つ。いやそうではなく、答えは一つだけしかない、というのもあるかもしれないが、そうしたのではなく、幅をもたせることができるのもある。そうした幅については、理由(reason)がどうなのかということで見てゆくことができる。理由や観点により、相互に了解ができればのぞましい。理想論ではあるが。

 憲法違反かもしれないというのであれば、逆に言えば、憲法違反ではないかもしれない。そこをはっきりとさせたいということなのだろう。そうしてはっきりさせたほうがよい、とするのにも一理ある。ただ、そのさいの、はっきりさせるさせ方については、人によって色々な意見がありそうだ。総論賛成、各論反対、といったふうになる。無理やりにはおし進めづらい。そうしたのをふまえると、はっきりとさせないでもよいのではないかという気もする。色々と問いを投げかけていって、みなで認識を少しずつ深めて行けばよいのではないかというのがある。

 敵の問題と、敵をつくることの問題がある。敵をつくることの問題とは、敵をつくってしまうことの問題である。つくるとは対象化であり生産だ。敵をつくってしまうことで、敵を敵としないものを敵とすることになる。ちょっとややこしい話ではあるが。これは何に由来するのかというと、もともと国民国家が異なものを排除して差別するはたらきを持つことによっている。そうしたのぞましくないはたらきを少しでも抑えるためには、敵をつくらないようにすることがあってよい。これはおもてなしの精神である。

 そうしたおもてなしの精神を発揮するのは、とりわけ危機の生じている状況では易しいこととは言えそうにない。易しいことではないが、一つには、国家を実体化するのを避けるのができたらよさそうだ。国家とは共同幻想であり、幻想性をもつ。想像の産物である。想像であるということは、敵もまた想像されたものであるということができる。かつては、鬼畜米英として、敵とされていたものが、今ではまったくそう見なされてはいない。そうしたイデオロギーのはたらきに気をつけられればのぞましい。敵の問題として、確証(肯定)されるのだけではなく、敵をつくることの問題として、反証(否定)されるのがあってもよいものだろう。

 味方と敵を区別する分類点を揺るがすことができたらよい。何が味方の内包(本質)であり、何がその範ちゅう(集合)に当たるのか。または、何が敵の内包(本質)であり、何がその範ちゅう(集合)に当たるのか。味方や敵として言われる語の、指示するものとは何だろうか。そうしたことを改めて見ることができそうだ。味方と敵は、独立した客体としては意味がない。なので、関係によるものである。とすると、反実在によるものだとできそうだ。少なくとも、実在すると見なすのをいったんカッコに入れることができる。

 たんに名だけということがある。その名というのが、恣意によって対象と結びつく。そうして対立することになるのだろう。スポーツの試合で、どことどこが戦い合うのでも成り立つといったようなあんばいである。恣意(気まま)に結びつけられるという形式によって、スポーツの試合が成り立つ。記号として見ると、そうしたことが言えるかもしれない。

属領から脱するさいの、対象を変える試み

 アメリカの占領のさいの、押しつけ憲法だ。こうした見かたがある。これは、アメリカによって(再)属領化されているとできる。これをよくないものとして、押しつけられた憲法を少しでも改めることで、脱属領化する。

 押しつけ憲法論では、見落としてしまっている点がある。見落としているというのは、アメリカによる在日米軍基地の問題である。この米軍基地は、(再)属領化の産物であるとできる。そのようにすることができるので、押しつけられた憲法はよくないが、米軍基地はそのままでよい、とするのは、一方ではアメリカから脱属領化しようとしていて、他方ではアメリカによる属領化をよしとしてしまうことになりかねない。ちぐはぐな印象があるということができる。

 政権与党としては、なんとかして押しつけ憲法を改めようとして、そこに大きな力を注いでいる。そして、アメリカと日本との同盟はかつてないほどに強いとして、それを改めようとはしていない。この二つのあり方は、逆でもよいのではないだろうか。力を注ぐべきは、アメリカと日本との同盟について、その内容を改めて行くことにする。そのようにできたらよいのがありそうだ。

 押しつけ憲法があるのなら、押しつけ基地もある。押しつけ基地は、沖縄にとくに集中しているのがあるので、押しつけの押しつけのように、二重の押しつけになっている。ここを少しでも改めることができればよい。ここの(再)属領化を変えることができれば、脱属領化につなげることができる。自民党の悲願は憲法改正だということで、それが強調されているわけだけど、そうではなくて、基地についての脱属領化をするのに転換してはどうだろうか。今からでもそれをするのに変えることはできる。まったく基地を日本から無くすというのではなくても、少しでも基地の負担に苦しんでいる地域の負担を減らせればよい。

 押しつけ憲法といっても、憲法は硬性化されていることに意味はある。無意味なわけではない。なので、あるていどは属領されていてもよいわけだ。そうなっていることで、逆に国民は脱属領化されるところがある。自己幻想と共同幻想は逆立する、と思想家の吉本隆明氏は言う。

 政府に軍事権が与えられていないことで、政府は(再)属領されるわけだが、それによって、戦争につっ走ることを防げる。外交(または金銭)で何とかせざるをえない。そうしたのが骨抜きになって変えられようとしているのはあるが。政府はあわよくば軍事権を手に入れようとしている。しかしその軍事権が善用される保証はない。戦争がひとたびおこれば、本人の責任をともなわない不幸の最大のものが、国民の上にふりかかってくる。

 普通の国には軍隊があるのだから、日本も持つようにするべきだ。持つことができるようにきちんと存在を認めるべきである。そのための憲法の改正なのだから、正しいことはまちがいない。そのように言うこともできる。それについては一理あることはたしかで、完全に否定するわけには行かないものではある。

 軍隊は物質によるハードパワーである。それとは別に、文化による非物質のソフトパワーもある。このソフトパワーのあり方が、とても弱っているのではないかというのがはなはだ心配だ。この力がしっかりとしていることによって、戦争をおこさせないようにくい止めることができる。このくい止める力がとても弱っているような気がしてならない。

 他民族への憎悪表現のデモが、都市では行なわれている。これは悲しい現実だ。ソフトパワーの弱体化を示していると受けとれる。万人が争い合う、自然状態(戦争状態)に近づいているのだ。他国からの脅威をさかんにあおり立てて、不安をかき立てる。これは自然(戦争)国家である。そうしたことをそのままにするのはまずい。まずいあり方を大幅に改めるのでないのなら、とてもではないけど危なっかしすぎて、軍事の力を正式に認めて持つことがよい方にはたらくとは思えない。

 戦争という大いなるあやまちや犠牲による不幸について、省察したり表現したりした先人の貴重な努力が、あまり生かされていない。都合の悪いことへの忘却がうながされ、想起が十分にとられてはいない。そうした文化の力よりも、物質の力にすがろうとしている。

 日米地位協定では、日本の法律がアメリカの基地内には適用できないようになっているという。基地の中では、日本の主権はまったく放棄されてしまっている。おまけに、思いやり予算として経済において支援をしている。こうしたのを少しでも改めることがあってもよさそうだ。そうしたことをしないで、アメリカは手の届かぬ超越のかなたにあるとして、それを拝みつづけるようなことであれば残念だ。大に事(つか)える事大主義として、アメリカにつかえるのが、日本にとってよいことなのかはそうとうに疑うことができる。ぴったりと一体化しようとするのは危険な気がしてならない。

 押しつけ憲法のよいところと、押しつけ基地の悪いところがある。それらに焦点が当てられればのぞましい。とりわけ押しつけ憲法については、その逆もあるわけだけど、その逆が強調されすぎてしまうと、よいところが無いことになってしまう。そうして無いことにするのではなく、目だちづらいけどよいところにきちんと焦点が当てられればよい。そのようにできれば、たんによいか悪いかというのではなく、よいのをさらに細分化して、悪いのをさらに細分化して、といった見かたがとれる。細分化というのは、よいことの中にもさらによいと悪いがあり、悪いことの中にもさらによいと悪いがある、といったことである。入れ子構造になっている。