日本という形式だけでは好きにはなれないのがある(純粋に好きというのではないし、実質がどうなのかがある)

 なぜ日本が嫌いなのに、日本に住んでいるのか。日本が嫌いであるのなら、日本に住まなければよい。日本から出てゆけばよい。そうした意見がある。これは、疑問の形をとっていることがあるけど、じっさいには修辞疑問(文)であるといえる。日本が嫌いなのにもかからわず日本に住んでいるのはけしからん、みたいなことである。

 日本が好きだから人は日本に住んでいるのだろうか。必ずしもそうだとは言えそうにない。日本が好きではあるが、日本から離れる人もいる。この場合は、日本が好きだけど日本に住まずに日本から離れるわけである。日本が嫌いだから日本から離れるわけではない。そうしたこともある。

 日本が好きか嫌いかは、評価といえそうだ。その評価とは別に、それについての理由とか解釈がある。なので、理由や解釈を見てゆけばよさそうだ。そのほかに、どういった現実の状況にその人が置かれているのかもある。そうしたのから見て合理の意見であるのであれば、あるていどの説得性をもつと見なすことができる。

 日本が好きだという評価をしているのだとしても、そのさいの評価の尺度がおかしいことがあるとできる。逆に、日本が嫌いだという評価をしているのだとしても、そのさいの評価の尺度がきちんとしていることがある。そのようにしてみると、日本が好きなのかそれとも嫌いなのかという評価だけをもってして、のぞましいかのぞましくないかを決めることはできそうにない。尺度となっている価値観が偏っているのであれば、客観とは言いがたい。

 日本が好きなのかそれとも嫌いなのかのちがいがある。そのさい、なぜそうした評価となるのかについてを見ることができる。それがいまの日本の環境や状況によっているのだとしたら、ある人の外に原因があることになる。外というのは、その人をとりまいている環境や状況をさす。その人の内に原因があるというよりは、外である環境や状況によっているわけだ。その人をとりまいている環境や状況のあり方が変われば、評価もまた変わってくる。

 日本が好きあるいは嫌いなのは一つの結果である。その原因が何によるのかは、そう感じた人によるのだけではない。人によるとしてしまうと、まちがった原因の当てはめになってしまいかねないのがある。いまの日本の現状の中で、その人が置かれている状況があり、そこに原因があるというふうに見られる。そうして見たほうが適していることは少なくない。

 日本という本質があり、そのあとに人がある。そうしたのだと本質主義となってしまう。しかしそうではなく、実存は本質に先立つというふうに見ることができる。日本を選んで日本に生まれたり日本人になったりするわけでは必ずしもない。とすると、実存による見かたをとることができる。好きにならなければいけないというのだと、自分の外にある事情から動かされることになる。父権主義だといえそうだ。そうではなく、その人の自発(内発)の自然な意向を尊重することができればよさそうだ。

 内と外というのでは、内か外かどちらかとしてしまうと、二元論になってしまう。そうではなくて、内と外の境い目を見ることが一つにはできる。その境い目にあるのが辺境であり、そこにいるのが辺境人だ。こうした場所や人に着目することができる。はからずも辺境に追いやられてしまったり、そこにいざるをえなかったり、自分から進んでそうしたところへおもむいたりする。そこには抑圧や疎外があるというふうにできる。圧がかかっているので、意味のある表出(出力)ができる。内の中の中心に近いところにいるのだと見えなかったり聞こえなかったりすることが、離れたところからはよくわかるといったこともありそうだ。正統ではなく、異端によるものである。

 好きか嫌いかとすると、二元論になってしまう。人間の感情は単純ではないから、複雑なものとして見ることができる。これを単純なものとしてしまうと、過度の単純化になってしまいかねない。好きなら好き、嫌いなら嫌いだとして、仕立てあげてしまうことになる。日本が好きだという動機で動いたとして、結果として日本を駄目にしてしまうことがある。逆に、(今の)日本が嫌いだという動機で動いたとして、結果として日本をよくすることもある。そうして動機と結果を分けて見ることもできそうだ。

お金を出せば買えるという点ではたやすいが、それをする前に、できることがそれなりにあるだろうから、それをすることにより平和を少しずつ築いて行くのはどうだろう(それから買うかどうかを検討するのでも遅くはないのでは)

 日本はトマホークを買え。そんな雑誌か何かの記事の見出しを見かけた。これは、国際政治学者の三浦瑠麗氏による説であった。トマホークというのは巡航ミサイルであるという。

 巡航ミサイルというのは、原子力潜水艦を海に沈めておいて、そこから発射するものだそうだ。数十秒で軍事破壊ができる。日本は専守防衛であり、敵基地攻撃能力をもつのが禁じられている。そのため敵の基地を攻撃できるミサイルはもてないことになっている。

 記事の中身は見ていないから、題名だけで推しはかってみると、日本がトマホークをもつべきかどうかは、必要性と許容性によって分けて見ることができそうだ。たとえ必要性があるとしても、だからといってそれだけをもってして認めてしまうのには待ったをかけられる。そもそも必要性が本当にあるのかどうかを改めて見ることもできる。必要性がかりにあるとしても、許容できるのかどうかも見ないとならない。決まりについては置いておくとしても、もっとほかにお金を使うべき領域があるのではないか。人々の自由の幅を少しでも広げられるものにお金を使う手もとれる。そのほうが、軍事にお金をかけるよりも効用は高いかもしれない。

 日本がトマホークをもつのは、一国の個別的安全保障の中での話と言えそうだ。それとは別に、国際連合による集団安全保障をもっと重んじることもできるのではないか。というのも、いくら集団安全保障が頼りないように見うけられて、個別的安全保障を充実させるのが頼もしいように見えるとしても、それを疑うことができる。個別的安全保障(や軍事同盟)は、それを充実させたとしても、戦争がおこらない保証は確実ではない。武器を持っていればそれを使いたくなるものだ。絶対にというわけではないが、そうした危うさがある。

 アメリカが先導してきたとされる戦う民主制(militant democracy)がある。反民主主義の勢力を敵と見なしこれを容認しない。このあり方が正しいものではなく、まちがったものであるとの見かたがとれる。そうしたことへの十分な省察が欠けているのだと、どんどんと戦う民主制に突き進んでいってしまいかねない怖さがある。アメリカに追従しているのが日本であり、それをこれまで以上に強めようとしている。より積極につき従おうとしている。それは、戦いに避けがたく巻きこまれかねないことをあらわすと見なせそうだ。参与(コミットメント)の度合いがどんどんと上昇していってしまう。ゆでがえる現象になりかねない。離脱(ディタッチメント)とそれによる高次学習をとる選択肢や機会はもてないものだろうか。

 参与というのが実証や実定であるとすると、それを重んじすぎることで、素朴な現実主義におちいりかねない。そこから数歩ほど引くということで離脱ができれば、武器を用いた無機によるものではなく、有機によるソフトパワーの平和みたいなのをさぐることができるのではないか。とはいえ、言うほど易しくはないだろうし、抽象論や理想論を言ってしまったのはある。

AKB については詳しくはないけど、グループ名についてちょっとだけ気になったのがある

 AKB48 は略称となっている。秋葉原を英語のアルファベットであらわしたものである。このあらわし方がほかのグループにも当てはめられていて、福岡の博多だと HKT  だとか、大阪の難波だと NMB とかというふうに名づけられている。

 こうしたアルファベットとは別に、坂にちなんだものがあるそうだ。乃木坂や欅坂といったものだ。この坂にちなんだものは、アルファベットによるものと比べると、希少価値をもつのではないか。門外漢なので的外れなことを言ってしまっているかもしれないが、そのように見うけられた。

 AKB などのアルファベットによる略称もけっして悪くはない。そのうえで、乃木坂や欅坂といった漢字による名前のよさがある。この漢字による名前のよさの引き立て役として、アルファベットの略称の名前が機能しているのがあるのではないか。

 AKB などのアルファベットによる略称の表記は、洋風だからかっこうがよいところがある。しかしいっぽうで、漢字の名前のもつ意味の表示の強さみたいなのに欠けているのがある。表音文字表意文字かのちがいによるものである。このちがいは本質のものというよりは、数の多さや差異といった関係によるものだろう。原則と例外があるとして、例外のほうが少数なので希少価値が生じる。そのような効果があるかもしれない。

子どもと大人の分類点の揺らぎ

 学校で、小学生が教師の言うことを聞かない。その小学生は、学年が二年生くらいであるという。そうした子どもたちに教師は手を焼いている。いくら低学年の小学生といえども、教師が被害を受けているとすると、これは犯罪行為ではないのか。教師がそれに黙って耐え忍ぶのはまことに気の毒である。

 低学年の小学生だと、犯罪行為が成り立つのかどうかの点がやっかいである。犯罪というと大げさかもしれないけど、教師に暴力を振るうとして、それが犯罪だという自覚がないのがある。低学年の小学生には、行動制御能力と事理弁識能力がしっかりとはのぞめそうにない。そこが大人とちがう点である。

 自分の言動を制御するのが行動制御能力であるそうだ。善悪や周りの状況を判断するのが事理弁識能力だとされる。大人であれば、こうした判断力がきくところがある。精神分析学で超自我といわれるものだろう。そこからの、これはすべきではないという禁じる要求が内側ではたらく。そうはいっても、超自我よりも自我や欲動の力のほうが上まわってしまうこともときにはある。

 低学年の小学生が教師に暴力なんかをふるうのであれば、それはのぞましくはない。この問題を何とかのぞましい形で解決することができればさいわいだ。

 話はちょっと変わってしまうけど、はたして子どもにはわきまえがなく、大人にはわきまえがあるのかというと、必ずしもそうとばかりは言えそうにない。わきまえのない子どもには手を焼いてしまうが、どうしようもないくらいにひどいかといえば、そこまでは言えないものである。

 思想家のトマス・ホッブズは子どもについてこのように言っているという。子どもというのは理性の自由をもたない。なので無害である。義務を負ってはいない。罪もないし悪もないという。

 子どもには罪もないし悪もないというが、では悪人とは何か。それについて、ホッブズはこのように言っているという。それは、強壮になった子どもである。子どものような大人だ。形式(見た目)としては大人であっても、実質(中身)は子どもだというわけだろう。

 ホッブズは強壮になった子どもを悪人としている。それは子どものような大人であるという。それに加えて、大きな子どもというのもある。この大きな子どもというのは揶揄(やゆ)なわけだけど、それは、このような人物であるという。価値判断に合理の基礎づけを与えられると信じる者をさす。一つの価値判断による考えを絶対だとしてしまうようなあり方である。一つの文脈だけを中心化してよしとする。独断におちいってしまう。これが大きな子どもだというのである。

 子どものような大人や大きな子どもだとして、それでもけっこうだ。そうした見かたもとれなくはない。開き直ってしまうようなあんばいだ。こうした開き直りもできなくはないわけだけど、いっぽうで、そうしたあり方こそが、子どものような大人や大きな子どもであるのを証してしまっているとも言えてしまう。

 開き直るのとは別に、否認するというのもある。そうして否認するのではなく認められればよさそうだ。そうして(負の面を)認めるのは自己非難をすることでもあるから、難しいこともあるだろうけど。頭に血がのぼっているときは難しいだろうけど、気持ちにゆとりがあるときにはできやすいだろう。

 全体をまるごと否定するのだと、一か〇かであり、価値判断を合理で基礎づけすることになりかねない。そうして白か黒かとしてしまうのではなく、灰色であることをとる。そのようにできれば、大きな子どもではないあり方がとれる。白であるとしてむりやりに押し通してしまうのではなく、かといって黒であるとして自罰になりすぎるのでもない。非は非として認めるといったことができればよい。全人格や総体としてではなく、あくまでも過去の行動について非があったということだ(非があったとしたらの話ではあるが)。

 きちんと言うことを聞かないで教師に暴行をする低学年の小学生は、何とかしないとならない。そうしたのに加えて、子どものような大人や大きな子どもをどうするのか。けっして人ごとではないのはあるのだけど、これもまた頭を悩ませてしまうような社会にとっての死活問題であると言えそうだ。

寂しいとかかまってほしいために批判をしているわけではないのがありそうだ(表現活動としてのものだろう)

 時の首相と食事を共にする。そうして喜んでいるお笑いの芸人やコメンテーターはいてもよいが、文化にはあまり貢献はしない。忖度の天使にすぎない。公共の電波でやるコメディーではない。このようなことを、脳科学者の茂木健一郎氏は言ったそうだ。

 この茂木氏の発言にたいして、その発言の対象とされるお笑い芸人のダウンタウン松本人志氏はやり返した。寂しいからそういうことを言うのだろうとしている。過去に税金の滞納の問題があったことにも触れて、茂木氏と会食をするときには節税についてを聞きたいとした。

 時の首相と食事を共にするお笑いの芸人やコメンテーターを茂木氏は批判したわけだけど、それだけで終わらず、ちゃんとそのあとにフォローもしている。そこに茂木氏の気づかいが見てとれる。下げはしても、そのあとで上げもしている。抑揚をとっているわけだ。形式としてはつり合いがとれているけど、実質としては下げの印象が強いと受けとられるかもしれない。上げの効果が薄かったおそれがある(とってつけた感が多少あるかもしれない)。

 茂木氏による批判は、的を得ているところがある。えらそうな言い方ではあるかもしれないが、そのように感じる。忖度の天使というのも言えているところがある。というのも、面と向かって厳しく切りこむのであれば、悪魔になると言えるからだ。これはあくまでも役がらとして悪魔になるということだ。現状に順応して従うのが天使であり、それに(全面ではないにせよ)ノーと言うのが悪魔となる。

 時の首相と食事を共にすることに問題があるとすると、一つには、和の拘束がはたらいてしまうのがある。和をもって貴しとなすというが、それがかえってあだになってしまうのである。食事を共にするということは、理と気でいうと、気による交わりであるのをあらわす。そのため、理がないがしろにならざるをえない。そこで理をもち出せば、空気が読めず、和を乱す。

 タレントのビートたけし氏がこのようなことを言っていたのを思い出す。たけし氏が司会をしている番組へゲストがやってくる。そうしてやってくるゲストは、たけし氏のことを嫌いなはずはない。もし嫌いなのであれば、たけし氏が司会をする番組にくるはずがないからである。絶対にないとは言い切れないが、常識からいうとまずやってこない。

 好きか嫌いかという二元論でものをとらえてしまってはまずいことがある。多少なりとも好きだから食事を共にする。それはけっこうなことである。それとは別に、嫌いであるからというのではなしに、厳しいことを切りこんでゆくのがあるとのぞましい。それをよしとして受けて出る度量がほしい。こうしたのは、好きか嫌いかや友か敵かの二元による友敵論ではない。友と交わり合い、敵を遠ざけて退けるのもよいが、それだと深く掘り下げたやりとりができづらい。ぶつかり合いがないので、独話のようになってしまうところがある。

 時の首相と食事を共にするということは、権力からの呼びかけに応じるというのをあらわす。そのように見てさしつかえがないものだろう。権力とは支配の力であり、それはイデオロギーでもある。そこからの呼びかけに応じるのは、それに都合のよい主体となりかねない。主体とは出発点ではなく、イデオロギーからの呼びかけに(知らずうちに)応じたその結果である。

 主体(サブジェクト)は隷属(サブジェクション)と同一である。思想家のミシェル・フーコーはそのように言っているという。権力との共犯関係になるのが近代における主体の主観だという。隷属してしまうのは、性善説で権力を見てたやすく信頼してしまうことによる。そうではなくて、少しでも抗おうと努める。そうしたことができればさいわいだ。性善説で見るのであれば、そもそも政治権力は不要である。法律もいらない。極論ではあるが、そうしたことが言えるだろう。

椅子の高さのちがい(椅子のクッションの積み増し)

 首相が内外の要人などと会う。室内でそうしたことがあるさいに、首相の座る椅子と客人の座る椅子とは同等のものであった。しかし安倍晋三首相は今年度から、自分が座る椅子を客人のとはちがうものにしているようだ。首相が座る椅子は柄がちがい、高さもやや高いのである。これはいったい何の効果をねらってのものなのだろうか。何の効果もねらっていないというのはちょっと考えづらい。

 そもそも、首相が客人と会うのは、首相にとってははじめからやや有利な場で行なわれる。外からやってくる人であれば、相手がこちらへ出向いてきてくれる。首相はそれをむかえ入れる立場であり、自分から出向いてゆくわけではない。サッカーの試合でいうと、首相は若干のホームアドバンテージをもつ。客人はアウェイだといえる。そうしたのがあるので、さらに椅子の高さまでを(自分のだけ)高くすることがいるのかが疑問である。

 椅子の柄を自分のだけ変えるのはよいとしても、高さまで変えることがいるのだろうか。やや高くなっていることで、写真によると、ちょっと座りづらそうにも見受けられる。もし椅子の高さを変えるのであれば、人によって対応を変えるのはちょっと変である。そうしてしまうと、人の地位のいかんによって判断をきかせているように映る。そうした応じ方よりも、基本としてどのような人であっても対応を同じにする、としたほうが差をつけないですむ。人を上に見たり下に見たりするのを防げそうだ。

人間の生命力の強さをもっと低く見積もるべきである

 会社というものを信用できない。そうした現状があると言わざるをえない。二〇歳の若い男性が、勤めていた菓子製造会社からひどいあつかいを受けていたとされ、それによって自分で命を絶ってしまった。毎日新聞にそうした記事があったのを見かけた。

 二〇歳の男性は、勤めていた会社で、長時間労働をさせられていた。それにくわえて、上司にあいさつをしても無視されたり、毎日のように大声で怒鳴られたりといったいじめも受けていたという。会社を辞めようとしたら、(もし辞めたら)男性の出身校から採用を止めるぞとのおどしを受けていたそうだ。

 会社の側は、男性が長時間労働をしていた事実はないとしている。力関係でのいじめもなかったと言っている。そうしたことは認識していないとのことだ。これは不誠実な態度だと言わざるをえない。勤めていた男性が命を絶ってしまったという結果を最大限に重く見るのがいる。その結果が不幸にもおきたのがあり、原因は会社にあるとすることは十分に推しはかれることである。結果を引きおこした原因が会社にあったとの仮定に立ち、きちんと力を入れて検証するのが欠かせない。

 労働というものが文化価値になってしまっている。しかしじっさいには、労働は隷属である。この隷属である労働が(否定ではなく)肯定の価値をもつのは、近代の時代に入ってからのことであるという。美徳となってしまっているのだ。ほんとうにじっさいに美徳なのかといえば、そうではなくて逆に悪徳であることも少なくない。ブラック企業はその例である。

 自分が勤めている会社ではたらくことが、そんなによいことなのか。必ずしもそうであるとは言えそうにない。会社の中で不当なあつかいを受けているのだとしたら、もってのほかである。それで会社が労働者におどしをするなんていうことは、本来はあってはならない。労働者は一人の個人として、自分の幸福を追求するのを最優先にできる。それが絶対の原理とは言えないが、(いくつかある中の)一つの原理として確固たるものである。自分の幸福を犠牲にするのではなく、それを追求するほうが善になることがある。

 会社というのは、それほど長い年数にわたって存続するものとは言いがたい。一説によると、日本の会社は三〇年くらいが平均の寿命であるという。ばらつきがあるとすると平均の数字にはあまり意味がないかもしれないが、かりにこの三〇年というのを正しいとすると、(個人差はあるが)人間の一生よりもずっと短い。その程度のものだということができる。

 与党の政治家の人なんかが、こんなことを言うのを見かける。いまの憲法では、国民に権利ばかりを与えていて、義務が少ない。もっと(権利につり合うように)義務を多く課さないとならない。こうした意見があるわけだけど、じっさいにはその逆が言えるのではないか。労働や納税の義務ばかりが重く課されていて、権利が知らされなさすぎている。

 なぜ権利が知らされないでいるのかといえば、そのほうが為政者にとって都合がよいからではないか。国民の一人ひとりが権利をきちんと知らないでいれば、それに越したことはない。そんなふうな判断をしてしまっていそうだ。もしそうだとすれば、それはのぞましいこととは言えそうにない。もっと全面に活用されてもよいはずだ。あくまでも主観の推測にすぎないことではあるわけだけど。

二〇二〇年を機にという偶然性(関連性の薄さ)

 憲法の改正に向かう。そのために、それぞれの政党が具体案を持ち寄るようにしてほしい。憲法審査会でそれを議論する。自由民主党安倍晋三首相は、二〇二〇年に開かれる東京五輪の時期に合わせて、新しい日本に生まれ変わらせるのだとする。

 二〇二〇年というと、もうあと二年くらいであるから、そんなに時間はない。国の形を変えるようなことがらをあつかうのであれば、もっとじっくりと時間をかけてやるのがよいのではないか。そうでないと理解が追いついて行かない。功をあせってしまうようでは失敗しかねないのがある。

 憲法を改正して、日本を新しく生まれ変わらせるべきなのか。必ずしもそうするべきだとは言えないだろう。というのも、そうするべきだとは憲法には書かれてはいないからである。憲法を改正しないで、日本を新しく生まれ変わらせないでもよい。そうした自由を憲法では保障している。なので、憲法を改正して、日本を新しく生まれ変わらせるのは、あくまでも任意であり、必須ではない。

 任意ではなく必須だとしてしまうのだと、他人に動かされることになってしまいかねない。そうして他人に動かされてしまうようだと、のぞましいあり方だとは言えそうにない。あくまでも、自分で自分を動かして行くのがよいのがある。自己決定である。国の形については、それを改めるのがよいというのがあってもよいし、改めないほうがよいというのがあってもよい。どちらか一方が他方を排除するべきではないのがありそうだ。

 二〇二〇年に開かれる東京五輪をきっかけとして、議論がさかんになればよい。そうして議論をうながすのはよいわけだけど、これには危険性があることもたしかである。危険性というのは、国の形がまちがったほうに向かって決められてしまうおそれがある。それを少しでも防ぐためには、憲法の改正に向けて効率を重んじるのではなく、できるだけたくさん時間をかけて適正な過程をふむべきである。戦前や戦時中には、促成栽培のようにして性急にことをおこして大失敗したのがあるわけだから、それをもう一度やらないためにも、低温で時間をかけて少しずつ熟成させてゆくのがよさそうだ。

 憲法を改正するのがありきの議論をうながすようでは残念だ。そうではなくて、憲法を改正するのもよくて、逆にしないのもよい、とするあいだでの議論をすることができる。憲法を改正するのをよしとするのがまちがってはいないのと同じように、憲法を改正しないのをよしとするのもまたまちがってはいない。どちらとも、まったくの非合理というわけではないのがある。なので、議論ができるくらいの合理性をもつことができる。

 憲法を改正するのを自分たちがよしとするのはかまわないわけだけど、憲法を改正しないのをよしとするのにたいして寛容さをもてればよいのではないか。そこに非寛容になってしまうのだとまずい。まずいというのは、憲法を改正するのをよしとするのが正しいとして固定化されてしまうからだ。憲法を改正しないのをよしとするのが誤りだとして固定化されてしまう。この固定化は、中立や客観によっているとは言いがたいものである。

 憲法を改正するのをよしとするのを、一つの集団(党派)であるとできる。そこからすると、憲法を改正しないのをよしとするのは外集団となる。この内集団と外集団のちがいは、反転させられるものだ。この集団のちがいは反転させられるものなので、反転可能性の試しをするのがよい。そうしたことをしないのであれば、内集団ひいきとなってしまうおそれがある。これを避けるのがよさそうだ。内集団ひいきとなるのだと、非対称になってしまう。そうではなくて、なるべく対称にできればよい。対称にしたうえで議論をする。対立点を明らかにして、それを浮きあがらせる作業を時間をかけて少しずつとって行く。

国家の暴力と、テロの暴力

 テロリストがテロをおこす。するとそのテロリストは警察や軍人によってその場で射殺される。外国ではこのような対応をとっているところがある。こうした対応と、死刑廃止のうったえとはつじつまが合っていない。そうした意見があった。

 テロリストがテロをおこしたらその場で射殺するのは、死刑のようなものだという見かたができそうだ。なので、死刑廃止のうったえとつき合わせてみると、こうした対応もまた廃止するのがふさわしい。もし廃止しないのであれば、死刑もまた廃止しないでもよいのではないか、ということである。一貫させるのであれば、そのようにするのがよい。

 死刑廃止のうったえと、テロリストをその場で射殺する対応とは、両立しないものだろうか。これを両立させるのだとすれば、二重基準だとの批判を受けるかもしれない。そのうえで、原則論と例外論とに分けて見ることができる。

 原則論としては死刑廃止に向かうようにする。しかし例外として、テロリストがテロをおこしたらその場で射殺することの必要さと、それを許容できることを示す。必要さがあり、許容範囲内であれば、例外として限定的に認めることができる。

 原則論として死刑廃止に向かうようにするのは、そもそも死刑が凶悪な犯罪の抑止になるという客観の根拠がないためだとされている。むしろ、死刑があることで、凶悪な犯罪を助長してしまうことすらある。刑罰が重ければ重いほどよいというのは、手段の目的化になりかねない。

 テロリストがテロをおこしてしまうのを一つの結果であるとすると、それがおきてしまう原因をさぐることができる。そうして原因を推しはかっていって、できるだけテロをおこしてしまうのをさせないようにする。現実と妥協して生きて行けるようにする。そのようなことができればさいわいだ。

 観察者と行為者の効果をふまえると、テロリストは行為者である。行為者は自分がテロを引きおこすのを、外の状況や環境のゆえにというふうにしやすい。このように、外の状況や環境のゆえにとするのは、まったくの的はずれであるとは言いがたい。経済の格差や不当な搾取や抑圧といったものは各地に横行している。なので、状況や環境のまずいところを改善することができればよさそうである。

創作物(幻想)であり非実体である国家と、国家どうしの過去をめぐるもめごと

 徴用工をめぐる韓国による主張がある。それに同調する国内の研究者に、文部科学省助成金を交付している。これはいかがなものかということで、自由民主党の文部科学部会は、文科省の幹部を呼んで、説明を受けたという。

 徴用工をめぐる韓国による主張があり、それに国内の研究者が同調しているとする。これは結果論によるものだとできる。それとは別に、動機論や義務論によるものがある。この二つによって見ることができそうだ。

 韓国による徴用工の主張に、国内の研究者が同調しているのは、結果論による。そうしたのがあるからといって、動機論や義務論についてを結果論から忖度するのは必ずしも適したものではない。そこについては、寛容さをもつことができそうである。

 韓国が主張しているのに同調する国内の研究者は、まったく非合理というわけではないとできる。議論をやりとりできるくらいの合理性があるというふうに見なせそうだ。徴用工がとられていたとするかしないかは、主張であるので、その根拠や論拠がある。それらについて、主張だけを見るのではなく、根拠や論拠を見て評価できればよい。

 はたして、韓国が主張しているように、徴用工がとられていたのかどうかは、一つの問題であるとできる。その問題については、韓国が主張している徴用工はでっち上げであるとする仮説がとれる。この仮説は本質というふうには決めつけられそうにない。まだ検証してゆくことがいるものだろう。それに加えて、もっとほかの色々な仮説をもたないとならない。

 そうした色々ある中の一つとして、韓国が徴用工で主張しているのに同調する国内の研究者がいる。そのように見なすことができるとすると、そうした韓国の主張に同調する国内の研究者は、問題の解決にとって益になるものであり、損になるものとは言えそうにない。日韓のあいだの歴史をどう認識するかについての問題が解決しているのならともかく、そうでないのであれば、結論を出すのは早いし、本質がどうなのかを決めてしまうのに待ったをかけられる。

 結論や本質をとってしまうと、確証をもつことになる。その確証がまちがっているとしたらやっかいだ。これは認知の歪みによっているものである。それを避けるためには、確証をもつのだけではなく反証ももたないとならない。そうすることによってつり合いをとることにつなげられる。

 結論や本質は結果だが、それにいたる過程を見てゆく。そうしたのがあればのぞましい。過程をどれくらいの段階に分けるのかがある。分けるのが少なすぎれば一足飛びの単段になってしまう。そうではなくて多段にするのがのぞましい。それで、一つひとつの段階について、その正しさを吟味してゆく。そのようにすることで、相手にもわかってもらいやすくなる。

 徴用工の事象がどうだったのかについては、もしそれがあったのだとすれば、忘却しないほうがのぞましい。忘却して無かったことにするのを否定する。そのようにして想起する。過去の負のあやまちとして、これから先に生かしてゆくようにする。そうすることができれば、過去への想起(レトロスペクティブ)が未来への前望(プロスペクティブ)につなげられる。日本にとって必ずしも損になることではないのではないか。

 徴用工は韓国によるでっち上げにすぎない。もしそうなのであれば、日本にとっては徴用工のことについてを考えずにすむ。そうした可能性を頭から否定することはできそうにない。日本としては、徴用工がなかったのではなくあったとする研究者に助成金を交付したくはない気持ちがあるのだろう。ただ、そのようにしてしまうと、歴史を目的論から見ることになりかねない。それは危ういことである。

 目的論による歴史は、強者によるものである。これは一本の線のあり方だ。それとは別に、弱者によるものもある。面によるあり方である。面とは量であり、一つだけのものではない。いくつもの断片からなっている。この断片は、大説ではなくいわば小説である。こうした小説をひろい上げてゆくことで、真実が明るみに出てくることもないではない。神は細部に宿るともいう。全体と部分とは必ずしも整合するものではないし、部分よりも全体が優先されるのがふさわしいともかぎらない。そうした解釈における決定の不能さといったものはありそうだ。